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「散らされる神、集められる神」

2002年12月29日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 エレミヤ31・10‐14

 私たちは10月から12月までの三ヶ月間、イザヤ書とエレミヤ書の言葉 に耳を傾けてきました。そしてその都度、御言葉が語られた時代背景として、 ユダ王国の滅亡とその後の歴史について触れてきました。これまで読んでき ました御言葉は、直接的には、ある特定の歴史的状況に置かれたイスラエル の民に語られたものです。しかし、今日の聖書箇所において呼びかけられて いるのは「諸国民」です。「諸国の民よ、主の言葉を聞け。遠くの島々に告 げ知らせて言え」(10節)。

 イスラエルは神の民です。しかし、神の究極的な関心はイスラエルにある のではありません。諸国の民です。この世界全体です。神はイスラエルに語 りかけ、働きかけられました。しかし、そのようなイスラエルの歴史を通し て、神はこの世界に語りかけ、働きかけておられるのです。私たちはイスラ エルの歴史を思い起こしつつ、特に二つのことに心を留めたいと思います。

●イスラエルを散らした方

 その第一は、イスラエルの神は、御自分の民であるイスラエルを散らした 御方である、ということです。北のイスラエル王国はアッシリアに、南のユ ダ王国はバビロニアに、それぞれ滅ぼされました。しかし、そのことを通し て民を諸国民の間に散らしたのは、アッシリアでもバビロニアでもなく、彼 らの神に他ならないのだと語られているのです。

 神が御自分の民をあえて散らされたのは、彼らの罪のゆえでした。そして、 罪を罪として認めず、神の言葉を退け、決して悔い改めようとはしない、そ の頑なさのゆえでした。かつてエレミヤはイスラエルの民にこう語りました。 「ユダの王、アモンの子ヨシヤの第十三年から今日に至るまで二十三年の間、 主の言葉はわたしに臨み、わたしは倦むことなく語り聞かせたのに、お前た ちは従わなかった。主は僕である預言者たちを倦むことなく遣わしたのに、 お前たちは耳を傾けず、従わなかった」(エレミヤ25・3‐4)。そして、 主はそのようなユダの国を滅ぼされたのです。

 イスラエルの民が散らされたという歴史的な出来事の中に、私たちは、神 が罪を憎まれる御方であるという事実を認めなくてはなりません。神は人間 の不従順を憎まれます。罪を悔い改めようとしない人間の頑なさを憎まれま す。神は罪をどれほど憎まれるのでしょうか。それは国を滅ぼして御自分の 民を諸国民の間に散らされるほどにです。

 私たちは先週、キリストの降誕を祝いました。しかし、私たちはこのキリ ストこそ十字架にかけられて死んでゆくキリストであることを知っています。 このキリストを世に遣わされたのは、かつてイスラエルを散らされた神、す なわち罪を憎み給う神であります。そして、神は罪に対する怒りを、最終的 にキリストの十字架において現されたのです。神はどれほど罪を憎まれるの か。罪に対する神の怒りはどれほど激しいものなのか。それは御子をさえ血 みどろにして十字架にかけて殺してしまうほどにです。

 しかし、私たちは、そのように激しく罪を憎まれる神こそ、また罪人を激 しく愛し給う神でもあられることを、聖書を通して知らされております。神 はその罪のゆえに散らされたイスラエルに対して、こう言われたのでした。 「わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを 注ぐ」(31・3)と。

 神は罪を憎まれます。しかし、神は人間を愛されるのです。それゆえに、 神は愛する人間を、憎むべき罪から引き離そうとされます。神は愛する者を 清め給うのです。私たちの愛する者がガンに冒されているとしたら、その者 からガンが取り除かれることを願うでしょう。そのためには、体にメスが入 れられることを良しとします。同じように、神は、歴史的なプロセスを通し て、罪を取り除くための手術を執刀されるのです。神はイスラエルの民から すべての汚れと偶像礼拝を取り除くことを望まれました。彼らの内から石の ような頑なな心を取り除き、肉のように柔らかな心、悔いし砕かれた心を与 えることを望まれました。このことに対する神の熱意はいかに激しいことで しょうか。そのためには、一つの王国を滅ぼし、御自分の神殿をさえ破壊す ることを良しとされたのです。そして、神の民を諸国民の中に散らして彼ら のあざけりの対象とすることさえ良しとされたのです。

 この御方こそ、私たちにキリストを与えてくださった神に他なりません。 そのような神が、キリストにおいて罪に対する怒りを現されると共に、私た ち罪人を愛して、そのキリストの死を私たちの罪の贖いとされたのです。キ リストの死によって、私たちに神との平和が与えられました。しかし、そこ にはまた人を清め給う神の御意志があることを知らなくてはなりません。キ リストを与えられた神は、かつてイスラエルを散らされた神なのです。ある 神学者が説教の中で次のように語っていました。「往々にして私たちは、神 の赦しの愛と神の恵みが、聖さに対する感覚を不要にするかのように、あま りにも安易に考えているものです。しかし、赦しと恵みにおいて和解が起こ るのです。そして、その和解において清めと聖化が起こるのです。それゆえに、 罪深い人間が赦しを受けるということは、痛みを伴う手術を受けることに他なら ないのです。」まことにそのとおりです。

 このことは、しばしば引用されるパウロの次の言葉についても言えるでし ょう。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、 万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」 (ローマ8・28)。どうして教会やキリスト者をしばしば襲う厳しい現実 でさえ、「万事が益となる」と言えるのでしょうか。この言葉は次のように 続くのです。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たもの にしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長 子となられるためです」(同8・29)。つまり、万事が共に働くことにお いて、罪のない御子に似たものとされる過程となるゆえに、それらは本当の 意味で益となるのです。

 神はイスラエルの民を散らされました。しかし、それは彼らの益となるた めでした。そこに現れたのは神の怒りでした。しかし、それは彼らを滅ぼす ためではありませんでした。それは神の清めの御業に他ならなかったのです。

●イスラエルを集められる方

 それゆえに、散らすという行為は神の最後の行為ではありません。その先 があるのです。イスラエルを散らした方は、再び集められるのです。これが 私たちの心に留めるべき第二のことです。

 神はイスラエルの民を散らすために、この世の大国を用いられました。 「彼にまさって強い者」(11節)を用いられました。それはアッシリアで ありバビロニアでありました。しかし、神が御自分の民を再び集める時、神 はもっと大きな力をもって臨まれるのです。「主はヤコブを解き放ち、彼に まさって強い者の手から贖われる」と書かれているとおりです。神の救いの 御手は、懲らしめの御手よりも大きく強いのです。

 この神の救いの御手によって回復せられるということは、単に元どおりに なることではありません。苦難を経たことには意味があるのです。国の滅亡 を経験したことには意味があるのです。散らされたことには意味があるので す。

 このことを通して、彼らは真の豊かさを知ることになるのです。彼らは 「穀物、酒、オリーブ油、羊、牛」を受けます。しかし、それだけではあり ません。「その魂は潤う園のようになり、再び衰えることはない」(12節)の です。なぜなら、彼らは「主の恵みに向かって流れをなして来る」からです。彼 らが受け取るのは単に物質的な豊かさではありません。それを主の恵みとして受 け取るのです。主の恵みを知らないならば、主から受けることを知らないならば、 どんなに繁栄しても、その魂は命の枯れた荒れ地です。彼らの魂が潤う園のよう になるためには、一度すべてを失わなくてはなりませんでした。すべてを主の手 から恵みとして受ける必要があったのです。

 そして、さらに彼らは真の喜びを経験することになります。その喜びはこ の世から受けたものではなく、神からいただいた喜びです。しかし、神が与 える喜びは、神が無から創造したものではありません。ここで使われている 動詞は「変える」です。喜びの製造には原材料が必要とされました。それは 嘆きです。本当の嘆きです。ただ単に不幸を悲しむことではありません。罪 の結果を嘆き悲しむことでもありません。自らの罪そのものを嘆き悲しむ嘆 きです。神はイスラエルを散らし、まず嘆きという原料を与えられました。 それは嘆きを喜びに変え、悲しみに代えて喜び祝わせるためでした。

 そして、その豊かさと喜びは、彼らを礼拝へと導きます。「祭司の命を髄 をもって潤し、わたしの民を良い物で飽かせると主は言われる」(14節)。 祭司の命が髄をもって潤されるというのは、神殿において再び主が礼拝され、 多くの犠牲が捧げられるようになる、ということです。(犠牲が多いから祭 司の取り分も多くなるのです。)

 しかし、この言葉がエレミヤの口を通して語られるということは、極めて 驚くべきことであります。なぜなら、かつて神殿が破壊される前、エレミヤ ほど神殿における礼拝を批判した人はいないからです。「主を礼拝するため に、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエル の神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、 わたしはお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿と いう、むなしい言葉に依り頼んではならない。…盗み、殺し、姦淫し、偽っ て誓い、バアルに香をたき、知ることのなかった異教の神々に従いながら、 わたしの名によって呼ばれるこの神殿に来てわたしの前に立ち、『救われた 』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。わ たしの名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見える のか。そのとおり。わたしにもそう見える、と主は言われる」(7・2‐1 1)。

 ですから、ここでエレミヤが再び礼拝が捧げられるようになることを語る 時、それは単に神殿が再建され、神殿が再び栄えるようになることを意味し ているのではありません。そこで語られているのは、まことの礼拝の回復な のです。そこで捧げられる礼拝は、もはやかつてのようなものではあり得ま せん。悔い改めを知らず、そのゆえにまた神の慰めをも知らない民の礼拝で はありません。それは、ただ神の赦しによって新しく生き始めた民による、 感謝と献身の礼拝に他ならないのです。

 このように、私たちはイスラエルの歴史を通して、散らされる神を知らさ れ、集められる神を知らされたのでした。そして、この御方こそ、イスラエ ルの歴史を通して私たちにキリストを与えられた神であり、今も私たちに語 りかけ、働きかけておられる御方なのであります。

 
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