「御言葉を武具として」

                          ルカ4・1‐12

 今日の聖書箇所は、主イエスが荒れ野において四十日間、悪魔から誘惑を
受けられたことを伝えております。この物語における主イエスと悪魔の戦い
には一つの明らかな特徴があります。聖書の言葉の引用です。主は申命記の
言葉を三回も引用しております。悪魔との論争はありません。論理的な反駁
もありません。聖書の引用で決着が付いています。私の性格としては、この
ような単純さは好きではありません。もう少し何か言って欲しいと思います。
もっと気の利いた、言葉巧みな論戦があってもよさそうです。「何々と書い
てある」ではあまりにも素朴すぎます。しかし、この単純素朴な物語が、確
かに聖書の中に記されているのです。教会はこの物語を大切に伝えてきたの
です。そして、今日、私たちにも伝えられました。このことは私たちに何を
意味するのでしょうか。


●聖霊に満ちて帰った時に

 まず、場面設定に注目しましょう。1節にはこう書かれています。「さて、
イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」(4・1)。ヨル
ダン川での出来事は3章に記されています。主イエスがヨルダン川で洗礼を
受けられたのです。その時、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上
に降って来た」(3・22)と書かれております。こうして、主は聖霊に満
ちてヨルダン川から帰られたのでした。荒れ野の誘惑はその直後のことです。
しかも、この誘惑の後には、「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰ら
れた」(4・14)と書かれております。ルカによる福音書は、わざわざ主
イエスを聖霊に満ちた御方として描いていることが分かります。

 このことは極めて重要です。なぜなら、福音書に続く第二巻目に、やはり
聖霊が目に見える姿で降ったことが記されているからです。使徒言行録2章
に書かれている出来事です。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集ま
っていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが
座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一
人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせ
るままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2・1‐5)。こうして
地上に教会が誕生しました。そして、聖書は繰り返し彼らが聖霊に満たされ
たことを伝えております。

 私たちもまた、そのように始まった教会の歴史の中に置かれております。
私たちもまた、神の霊によって誕生し、神の霊によって生きるのです。私た
ちもまた、この世の霊ではなく、聖霊に満たされた教会、聖霊に満たされた
キリスト者でありたいと思います。この世の力ではなく、聖霊の力に満ちて
主に仕える者でありたいと思います。

 しかし、今日の聖書箇所は、そんな私たちに一つの注意を促します。聖霊
に満ちて帰られたキリストはただちに誘惑に遭ったのです。第二巻として使
徒言行録を書き記したルカにとって、キリストの遭った誘惑は後の教会と無
関係ではありません。聖霊に満たされた教会のあるところに、悪魔の誘惑も
またあるのです。言い換えるならば、私たちが聖霊の力と神の御支配を、観
念的にではなく、まさにリアルに経験し始める時に、私たちが必然的に直面
せざるを得ない誘惑があるのです。


●三つの誘惑

 第一の誘惑は次のようなものでした。「そこで、悪魔はイエスに言った。
『神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ』」(4・3)。
この言葉に潜む誘惑は、後の主イエスの活動や教会のミニストリーを考える
と次第に見えてまいります。

 主イエスはしばしば病人を癒されました。飢えている五千人もの人々にパ
ンを与えたということも記されております。確かに、多くの人々が主イエス
について行った背景には、この方が人々の必要を満たされたという事実があ
ったものと思われます。同じように、使徒言行録においても、使徒たちによ
って「多くのしるしと不思議な業」(使徒5・12)が行われたことが記さ
れております。初期のめざましい宣教の進展には、神の支配の「しるし」が
大きな意味を持っていたものと思われます。それは、今日のアジア、アフリ
カ、南米の宣教においても同じです。神の力が現れ、人々の必要が満たされ
るのです。

 しかし、そこには誘惑もまたあるのです。神の力によってパンが与えられ
た時、そのパンにしか心が向かなくなるのです。神は「パンを与える方」で
しかなくなり、神の力は「パンを与える力」でしかなくなるのです。それが
神の力によって与えられたパンにせよ、そのパンだけで生きるようになるこ
とへの誘惑がそこにあります。それゆえ主は聖書を引用して言われたのです。
「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」と。神は確かに荒
れ野で人々にマナを与えられました。神は必要を満たしてくださいました。
しかし、それは、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出る
すべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命
記8・3)と書かれております。神が与えてくださったパンよりも大事なの
は、与えてくださった神御自身なのです。

 さて、第二の誘惑は次のようなものでした。「そして悪魔は言った。『こ
の国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、こ
れと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、
みんなあなたのものになる」(4・6‐7)。この誘惑もまた、主イエスと
後の教会の活動を考える時に、いかに現実的な誘惑であったかが分かります。

 主イエスの周りに集まっていた人々の多くは、貧しい人々、社会から排除
されている人々であり、富める者、権力を持つ者に苦しめられている人々で
ありました。初期の教会を構成していた多くの人々も、同じように貧しい人
々であり、この世においては無力な人々でありました。しかし、そのような
彼らの間において、確かに神の大きな力が現れたのです。やがて、主イエス
について行く人々は、やがて大群衆になりました。同じように、初期の教会
も驚くべき成長を遂げました。そのような状況において、主イエスと追従者
の群れが、また使徒たちと教会が、権力や繁栄を自らのものにすることを望
んだとしても不思議ではなかったと思います。神の力の現れる時、権力や繁
栄への誘惑もまた、そこにあるのです。

 そのような誘惑は、後の教会の歴史において繰り返し現れてきました。キ
リスト教が国教となった際に、あるいは信仰復興運動(リバイバル)におい
てキリスト教会が爆発的に成長した際に、常に身近なものでした。その誘惑
は、小さな私たちの教会においてさえ身近なものです。大きくなること、力
を持つこと、豊かになることだけに心が向いてしまう時、もはや権力や繁栄
よりも大切な神御自身に仕える者でなくなってしまいます。それゆえに、主
は悪魔に答えられたのです。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕え
よ』と書いてある」と。このことが揺らぐ時、いつの間にか他のものを拝ん
でいるのです。それは究極的には、悪魔にひざをかがめていることになるの
です。

 そして、第三の誘惑は次のようなものでした。「そこで、悪魔はイエスを
エルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。『神の子なら、
ここから飛び降りたらどうだ」(4・9)。

 人間の必要が満たされることを求めるのではない。権力や繁栄を求めるの
でもない。そうではなくて、神が生きて働いておられ、確かに守ってくださ
るというリアリティを求めるのであるならばどうでしょう。神の存在を現実
に体験したいと思う人は少なくありません。そのような求めは悪いことでし
ょうか。それは神御自身を求めることではないでしょうか。神の奇跡的な守
りを体験した人の証しを聞いたことはありませんか。自分も同じような体験
を求めることは悪いことでしょうか。しかし、私たちはそこにも悪魔の誘惑
があることを知らされているのです。主イエスは言われました。「『あなた
の神である主を試してはならない』と言われている」と。

 《神体験を求めること》と《神を求めること》は必ずしも同じではありま
せん。真に神を求める人は神を重んじます。神を中心に考えます。神の御心
を求めます。神の御心に従うことを求めます。神体験だけを求める人は、神
の御心を求めず、神が求めてもいないのに、神殿の屋根から飛び降りるよう
なことをするのです。それはたとえ命がけの勇敢な行動であったとしても、
神を試すことにしかならないのです。


●御言葉を武具として

 さて、最初に申しましたように、この物語の特徴は、主イエスがこれらの
すべての誘惑を、聖書の引用をもって退けている点にあります。主は悪魔の
誘惑を退ける最終的な拠り所を聖書の言葉に置いていたことが分かります。
そのような物語を、そのまま教会は大切に伝えてきました。教会もまた最終
的な拠り所を聖書の言葉に置いてきたことが分かります。教会は、自分たち
の間で起こった奇跡やしるしを信仰の拠り所とはしませんでした。自分たち
の体験したことを、聖書から切り離して、その上に信仰の根拠を置くことを
しませんでした。復活のキリストとの出会いという強烈な体験でさえ、彼ら
は聖書と切り離しては考えませんでした。それは「モーセの律法と預言者の
書と詩編に書いてある事柄」(ルカ24・44)として理解されました。五
旬祭における聖霊降臨にしてもそうです。ペトロはその時、「これこそ預言
者ヨエルを通して言われていたことなのです」(使徒2・16)と語ったの
です。

 聖書、特に旧約聖書から離れないということが、教会にとってどれほど重
要な意味を持っていたかは、使徒言行録や使徒たちの書簡を読んでも分かり
ます。特に異邦人教会においては死活問題であったに違いありません。なぜ
なら、ユダヤ人の会堂に出入りしていた者でないかぎり、もともと聖書は決
して彼らにとって身近ではなかったからです。そのような彼らが、多くの場
合、使徒たちの不思議な業を見、あるいは自ら何らかの体験を経て、教会に
加わってきたのです。そこにはグノーシスと呼ばれる思想など、時代の思想
が入り込む余地がいくらでもありました。悪魔の誘惑は極めて身近なところ
にあったのです。

 それは、もともと聖書に親しんで育ったわけではない、この国の第一世代
のキリスト者についても言えるでしょう。またそのようなキリスト者が多く
を占めるこの国の教会について言えるであろうと思います。私たちは、もっ
ともっと意識的に、聖書、特に旧約聖書に親しむ必要があります。聖書に親
しもうとしない自称《霊的な》キリスト者ほど危なっかしい存在はありませ
ん。自分を正当化するだけの引用なら、悪魔だってするのです。聖書のつま
み食いは悪魔の食べ方です。私たちは、聖書全体からその使信を聞けるよう
にならねばなりません。新しく始まったこの年、私たちは真に悪魔に対して
有効な、御言葉の武具を身につけさせていただきたいものです。