「ただ一つの必要なこと」
2003年1月26日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ10・38‐42
「一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった」(38節a)。
主イエスとその一行が旅をしています。ガリラヤからエルサレムへと向か う旅です。ルカによる福音書は、9章51節から19章44節まで、かなり のページを割いてこの旅について記しています。その旅行記は次のような言 葉をもって始まります。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エル サレムに向かう決意を固められた」(9・51)。主はエルサレムに向かう ことが何を意味するのかをご存じでした。それは十字架へと向かう旅に他な りませんでした。
その旅の途中、主イエスの一行はある村にお入りになりました。ヨハネに よる福音書は、その村の名を「ベタニア」(ヨハネ11・1)と伝えていま す。ベタニアはエルサレムから3キロメートルほど離れたところにあります。 主イエスとその一行は、既にかなりエルサレムに近いところまで来ているこ とが分かります。今日の聖書箇所は、その村で起こった小さな出来事を伝え ております。マリアとマルタの物語として良く知られている話です。今日は、 この短い箇所を通して、主が私たちに語りかけておられる御言葉に、共に耳 を傾けたいと思います。
●何ともお思いになりませんか
「するとマルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアと いう姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近 寄って言った。『主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていま すが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってく ださい』」(38b‐40節)。
マルタは「イエスを家に迎え入れた」と書かれております。その言葉は、 マルタの取った行動が、彼女の自発的な行為であることを示しています。彼 女にとって、主を迎え、主をもてなすことは、決して義務感からの行為では ありませんでした。それは彼女の喜びだったのです。
迎えたのは主イエスだけではありません。弟子たちがいます。必ずしも十 二人だけではありません。他の弟子たちもいたに違いありません。主イエス が来られれば、そこで御言葉が語られます。それを聞くために集まった人々 もいたことでしょう。そのような事態において必要とされていること、為さ ねばならぬことは山ほどありました。食事の支度。宿泊の準備。ありとあら ゆることが為されねばなりません。マルタにとって、そこにいた多くの人々 に仕えることは、主イエスに仕えることに他なりませんでした。人々の必要 を満たすことは、すなわち、主イエスの必要を満たすことでありました。そ して、主イエスに仕え、主イエスの必要を満たすために自分の身が用いられ ることは、イエスを家に迎え入れたマルタにとって、何より大きな喜びであ ったに違いありません。輝いた笑顔。讃美の歌声。喜びに溢れていそいそと 立ち働いているマルタの姿が想像できますでしょうか。
私たちにも、多かれ少なかれ、そのような経験があろうかと思います。教 会に仕え、隣人に仕える時、そこに主に仕える大きな喜びがあります。こん な私が主のお役に立てる。こんな私の働きを、主が必要としていてくださる。 私たちの目の前には、満たされなくてはならない必要なことが山ほどありま す。しかし、それは苦になりません。時を惜しまず、身を粉にして働いても、 そこには喜びがあります。主を迎え入れた者の喜びがあるのです。
ところが、イエスを家に迎え入れたマルタの心の中に、やがて一つの変化 が起こってきました。その変化もまた、多かれ少なかれ、私たちにも覚えが あるものです。最初は気にもとめていなかった、姉妹のマリアのことが気に なり始めます。満たされなくてはならない必要が山ほどあるのに、それには まったく無頓着な彼女のことが気になり始めます。主に仕える働きを他人に 押しつけて平気な顔をしている人のことが気になり始めます。何もしないで 妙に平安な顔をしている人が気になり始めます。そして、ついにマルタは主 に訴えるのです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせてい ますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃって ください」と。
しかし、マルタにとってマリアが問題であるならば、話を聞いているマリ アの耳をひっぱって部屋の外に連れて行き、手伝うようにと言えば良いでし ょう。ところが、マルタはそうしませんでした。不愉快な思いを抱いたのは マリアに対してであるかもしれません。しかし、本当に物申したい相手は、 マリアではなくて主イエスだったようです。主イエスに対して腹を立ててい たと言っても良いでしょう。
「何ともお思いになりませんか。少しも気にならないんですか。」そうマ ルタは訴えます。マルタは主イエスに《何かを思って》欲しかったのです。 自分一人だけが大変な思いをしているという事実について、少しは気にして 欲しかったのです。主イエスは話をしておられ、人々は話を聞いておりまし た。当然のことながら、主イエスの視線は、聴衆に向けられていたことでし ょう。主イエスの視線の先に、足もとで話を聞いているマリアがいます。一 方、マルタは、主イエスの視界の外にいる。それは余りにも不当なことに思 えたに違いありません。
●必要なことはただ一つ
さて、マルタの訴えを聞いて、主は静かに口を開かれました。「主はお答 えになった。『マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱し ている。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選ん だ。それを取り上げてはならない』」(41‐42節)。
「マルタ、マルタ」。主は彼女の名前を繰り返して呼びかけました。この 呼び方にはどうも聞き覚えがあります。そう言えば、こんな風に名前を呼ん でもらった人が他にもおりました。ルカによる福音書にもう一人出てきます。 シモン・ペトロです。
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかける ことを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰 が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを 力づけてやりなさい」(ルカ22・31‐32)。
ご存じのように、これは最後の晩餐の時に、ペトロがやがて離反すること を予告した言葉です。弟子たちは皆、襲い来る試練の中で主を見捨てて散っ て行きます。ペトロもまた、主の弟子であることを三回も否むであろうこと を、主イエスはご存じでありました。しかし、そのようなペトロのために、 主は知らないところで祈っておられたのです。ペトロのことを心底気にかけ ておられたのです。その主イエスの思いが呼びかけに表れています。「シモ ン、シモン」――主は、そうペトロに呼びかけられたのです。
「マルタ、マルタ」――。主はそう呼ばれました。このエピソードの中で、 主は誰のことを一番気にかけておられるのでしょう。それはマルタです。マ ルタは主イエスの視界に入っていなかった?とんでもない。主はマルタが 「多くのことに思い悩み、心を乱している」ことを見ておられたのです。そ のようなマルタの状態を誰よりも心配し、気にかけておられたのは、他なら ぬ主イエス御自身だったのです。
主はマルタに言われました。「しかし、必要なことはただ一つだけである 」。「必要なこと」――それは誰にとって必要なことでしょうか。マルタに とっての関心は、《主イエスにとって》必要なことでありました。主イエス の一行と集まった人々の必要を満たすのに、彼女は汲々としていたのです。 そうです、満たされなくてはならない必要なことは山ほどありました。しか し、ここで言われているのは、主にとって必要なことでも、人々にとって必 要なことでもありません。《マルタにとって》必要な一つのことなのです。
マルタが一生懸命もてなしをしていたこと自体が責められているわけでは ありません。それは良いことなのです。他者の必要を満たすために身を粉に して働くことは悪いことではありません。それは良いことですし、必要なこ とでもあります。働きが必要とされているならば、誰かが行わなくてはなり ません。働く人は必要なのです。しかし、そのように働く《マルタにとって 》必要なことがあったのです。それは、マリアからだけでなく、マルタから も取り上げられてはならない一つのことなのです。その一つのこととは何で しょうか。
最初に申し上げたように、主はエルサレムへの旅の途上にありました。そ れは十字架へと向かう旅でありました。主は父なる神の御心に従い、御自分 を世に与えるために、十字架へと向かっておられたのです。主は御自分の身 を、御自分の命を、御自分の愛のすべてを与えるために十字架へと向かって おられたのです。主が御言葉を語られた時、その御言葉と共にあったのは、 主御自身であり、主が与えようとしておられる主の命であり主の愛でありま した。主はマルタのためにも、十字架へと向かっておられたのです。マルタ に必要なこと、マルタに欠けていたもの、マルタが失っていたもの、それは この主イエス御自身であり、マルタを愛してマルタのためにも御自分を与え ようとしておられた主の御言葉でありました。
確かに、一生懸命に主に仕えているつもりでいながら、いつの間にか主イ エスを見失っている、ということが起こります。いつの間にか、主イエスの 愛から自らを閉め出している、ということが起こります。それは自分自身を 涸れ井戸にしてしまうことに他なりませんでした。涸れ井戸から汲み出せば、 泥水を撒き散らすことになります。私たちもまた、知らぬ間に泥水を撒き散 らすだけの奉仕者となっているかも知れません。
しかし、哀れなマルタの状態を、主は見過ごしにされませんでした。多く の人は、この箇所において主がマルタを叱られたと考えます。しかし、そう ではありません。主はマルタを引き戻されたのです。ただ一つ、無くてはな らないただ一つのことを与えるためにでありました。
この小さな物語の中には、人々が聞いた主イエスの言葉は記されてはおり ません。マリアが聞いた言葉も記されてはおりません。マルタに対する主の 呼びかけと御言葉だけが記されております。マルタにこそ、主の御言葉が必 要であったことを、この物語は示しております。それは私たちにとっても同 じではないでしょうか。