「あなたは神のメシアです」                          ルカ9・18‐23  「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。 「神からのメシアです。」  若干言葉は異なりますが、このペトロの信仰告白を、マタイもマルコも伝 えています。しかし、ルカは独特の言葉をもって、この場面を描き初めてい ます。「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた」(1 8節)。この福音書は、繰り返し、ひとりで祈っておられる主イエスの姿を 伝えています。しかし、ここでは弟子たちも共にいるのです。それでも祈っ ておられるのは主イエスおひとりなのです。主イエスがどれほど深刻な事態 と直面しつつ祈っておられたか、それは22節を見ると分かります。後に主 は弟子たちにこう語られるのです。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長 老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することに なっている」。これから歩むべき苦しみの道を思いつつ祈られる主イエス、 弟子たちのただ中にありながらたったひとりで祈られる主イエスの姿がそこ にあるのです。 ●弟子たちの置かれていた状況  しかし、弟子たちは、主の祈られる姿を横目に、ただあめ玉しゃぶって遊 んでいたわけではありません。そのような弟子たちに、主が「群衆は、わた しのことを何者だと言っているか」と尋ねることはないでしょう。弟子たち は確かに群衆のことを考えていたし、関わってもいたのです。  彼らの置かれていた状況は、その直前の出来事から伺い知ることができま す。そこには、五つのパンと二匹の魚で多くの群衆を養われた主イエスの奇 跡物語が書かれています。男だけを数えても五千人ほどいたと記されていま す。旅を続ける主イエスと弟子たちを取り巻く人の群れは、この時点で驚く ほど巨大化していたことが分かります。主イエスは、この人々を迎えて、 「神について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」(9・11)の です。  もちろん、主イエスがこのことを行うためには、弟子たちの働きが必要で す。弟子たちの役割は、このパンの奇跡の物語にもよく表れております。1 5節以下にはこう書かれています。「弟子たちは、そのようにして皆を座ら せた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それら のために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」 (9・15‐16)。パンを与えてくださるのは主イエスです。しかし、配 るのは弟子たちです。人々の感謝の言葉を直接耳にするのは弟子たちです。 人々の笑顔に接するのも弟子たちです。五千人にパンを配ることは確かに重 労働です。くたくたになったに違いありません。しかし、人々に喜ばれ、感 謝され、賞賛される働きのために身を粉にして働くことは、彼らにとって大 きな喜びであったことでしょう。彼らの心には今まで経験したことのないよ うな充実感が満ち溢れていたに違いありません。  弟子たちは、そのように急速に拡大し、これからも限りない発展を見るで あろう主イエスの宣教活動、神の国の運動について、いつも語り合っていた のではないかと思います。夥しい群衆と関わる弟子団として、自分たちが果 たすべき役割について、いよいよ真剣に考えざるを得なくなっていた。それ が、この場面において主イエスと共にいる弟子たちの現実であったと思われ ます。彼らは決して、祈っている主イエスの側で遊びほうけていたわけでは ありません。  それゆえに、祈りを終えた主イエスは、弟子たちに尋ねます。「群衆は、 わたしのことを何者だと言っているか」。この問いに対して、弟子たちは、 大群衆の大勢を占めている一般的見解を主イエスに伝えます。「『洗礼者ヨ ハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の 預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます」(19節)。要するに、過去 の偉大な人物の再来である、というのが大方の見方でありました。そこでさ らに主は弟子たちに問われます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だ と言うのか。」ペトロは答えました。「神からのメシアです」(20節)。  ここで答えているのはペトロだけですが、この答えの内容は弟子たちの統 一見解であったと思われます。ペトロの答えに対する反論も論争も起こって いないからです。この誇らしげなペトロの答えに、弟子たちの共通した意識 を見ることができます。彼らは自分たちの見解と群衆の見解との間に、はっ きりと一線を引いているのです。彼らが従っているこの御方こそ、まさに旧 約の時代からイスラエルが待ち望んできたメシア、神の油注がれた王、救い をもたらすために来るべき御方である。その点において彼らは一致していた のです。そこに彼らの自負があったに違いありません。彼らにとって、群衆 とは、まだ弟子たちほどイエスを理解していない者たちであり、教化されな くてはならない対象なのです。 ●だれにも話すな  ところが、主イエスは弟子たちに驚くべきことを語り始めたのでした。 「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次 のように言われた。」(21‐22節)。イエスがメシアであることを、弟 子たちはまだ語ってはならないと言うのです。主イエスについてきている群 衆にも語ってはならないのです。なぜでしょう。それは続く主イエスの言葉 によって分かります。主はこう言われたのです。「人の子は必ず多くの苦し みを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復 活することになっている」(22節)。つまり、彼らはまだ決定的に重要な ことを、その目で見てはいないのです。彼らは、主イエスが人々から捨てら れ、苦しみを受け、殺されてしまうことを、見なくてはならないのです。そ して、その先に復活があることを見なくてはならないのです。要するに、彼 らはまだメシアの姿を本当の意味でまだ見てはいないのです。それゆえに語 ってはならないのです。  主が自ら明らかにされたように、主イエスは、人々から喜ばれ、賞賛され、 感謝され、迎えられて、メシアとしての王座に着かれるのではありません。 拡大しつつあるメシア運動の延長上に、メシアの王座があるのではないので す。パンの奇跡の延長上に、メシアの王座があるのではないのです。主イエ スは人々から憎まれて、殺されるのです。十字架にかけられて殺されるので す。すべては一度、無に帰することになるのです。そして、その先に初めて メシアの復活があるのです。  「三日目に復活することになっている」。この訳は厳密には正しくありま せん。「三日目に復活させられることになっている」と書かれているのです。 受け身です。自分で復活するのではありません。復活は父なる神によるので す。主イエスが死んですべてが無に帰した時、主イエスは神によって復活さ せられるのです。その時に無に帰したかのように見えた主イエスの業のすべ てが、神によって生きるのです。十字架の死でさえも、罪の贖いとされ、救 いの命を持つようになるのです。主イエスは彼を賞賛する人々によって復活 させられるのではありません。神によって復活させられるのです。そのよう に主は御自身について語られたのです。  弟子たちは主イエスについて「神からのメシアです」と告白しました。し かし、彼らが本当に人々にそのことを語り得るためには、まずメシアが《苦 難のメシア》であることを理解しなくてはなりませんでした。メシアに従う ということは、苦難のメシアに従うことなのです。  苦難のメシアに従うのであるならば、それは単に人々から喜ばれ、感謝さ れ、賞賛されることのために労苦することではあり得ません。単に自分の理 想を実現することでも、民族や国家の理想を実現することでもあり得ません。 むしろ、誰からも顧みられないような労苦、感謝されるのではくむしろ憎ま れ排斥されることになる労苦、目に見える豊かな結果を生むよりは、むしろ 虚しく費えていくような労苦、そのような労苦の中に身を置くことでもある のです。  それゆえに、主はさらに言われるのです。「わたしについて来たい者は、 自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23 節)と。「十字架を負う」という言葉は、「苦しみを負う」という意味で、 今日無闇やたらに使われ過ぎるきらいがあります。しかし、十字架を背負う ということは、単に苦しみや労苦を背負うことではありません。十字架を背 負う者は、自分が磔になるためにそれを負うのです。十字架刑に処せられる 者が十字架を背負うという労苦は、まさに喜びや充実感や達成感などと対極 にある労苦です。苦難のメシアに従うということは、そういうことなのです。 報いのある労苦ならば信仰によらずとも為しえます。しかし、苦難のメシア に従うことは、信仰なくしては為しえないことなのです。十字架にかかられ た主イエスを復活させ給うた神を信じることなくして、為し得ないことなの です。  しかし、これはなんと厳しい言葉でしょうか。誰がこの言葉に耐え得るで しょうか。そうです、弟子たちも結局は耐え得なかったのです。主は、弟子 たちがこのことに耐え得ないことをご存じでした。主イエスは、弟子たちが 主を捨てて散っていくことをご存じだったのです。弟子たちを代表して「神 からのメシアです」と語ったペトロでさえ、そのメシアを三度も否むであろ うことをご存じだったのです。  だから主はたったひとりで祈られたのです。このことを弟子たちに告げる 前に、たったひとりで祈られたのです。ペトロのためにも祈られたのです。 後にペトロに、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈っ た」(22・32)と語られているとおりです。そして、主はたったひとり で苦難のメシアとしての道を歩み通そうとしておられたし、事実、たったひ とりで歩み通されたのです。  そして、その主イエスが、再び弟子たちに現れたのでした。弟子たちは、 復活させられた苦難のメシアに、再びお会いすることとなったのです。彼ら は自分たちがイエスを「神からのメシア」と告白したことの本当の意味を知 ることとなりました。そして、彼らはどうしたでしょうか。彼らは、その時 こそ、自分を捨て、自分の十字架を背負って、苦難のメシアに従っていった のです。  あの弟子たちの信仰告白を、今日の私たちも彼らと共有しております。私 たちもまた、主イエスを「神からのメシアです」と言い表しているのです。 それゆえ、私たちもまた、自分を捨て、自分の十字架を背負って従うように と招かれております。しかし、かつての弟子たちの場合もそうであったよう に、私たちが「自分を捨て、自分の十字架を背負う」ことが先にあるのでは ありません。主イエスが先に、自分を捨て、自分の十字架を背負われたので す。その歩みを全うされたのです。私たちがメシアに従う歩みは、かつての 弟子たちの歩みがそうであったように、たったひとりで苦難のメシアとして 歩み抜かれた主イエスの祈りと御業によって支えられているのです。