「弟子志願者への言葉」
2003年2月16日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ9・57‐62
今日お読みしました短い箇所に出てくる三人は、主の弟子となるべく志願 した人々のようです。ここにはその各々に語られた主イエスの御言葉が記さ れております。そして、これらの主イエスの言葉にはたいへん驚かされます。 つまずきを覚える人も多かろうと思います。しかし、聖書を読むということ は、このような主イエスの言葉とも誠実に向き合うことを意味するのです。 簡単に読み飛ばしてはなりません。むしろ、このような言葉にこそ、私たち はしっかりと耳を傾けなくてはならないのです。
●人の子には枕する所もない
初めに、57節以下を御覧ください。「一行が道を進んで行くと、イエス に対して、『あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります』と 言う人がいた。イエスは言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。 だが、人の子には枕する所もない』」(57‐58節)
マタイによる福音書によりますと、この人は律法学者であったようです (マタイ8・19)。罪人や徴税人と共に食事をし、罪深い女に罪の赦しを 宣言するイエスに従うことを、律法学者が公に表明することは、決して小さ なことではありません。彼の決意は真剣なものであったに違いありません。 いずれにせよ、「どこへでも従って参ります」という言葉は簡単には言えな い言葉です。
真剣に主に向かおうとする人に対して、主イエスも真剣に向き合われます。 主は彼に安易な招きの言葉をかけられませんでした。主は言われるのです。 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」 と。すなわち、主は、「あなたはどこへでも従ってゆくと言うけれど、その 言葉が意味することが分かるか」と問い返しておられるのです。
「枕する所」それはホームです。主は枕する所のない、文字通りのホーム レスでありました。ホーム――それは安息の場です。主イエスは、多くの人 々にとって安息の場そのものでありましたが、主御自身はこの地上に安息の 場を持たなかったし、持ち得なかったのです。
それは既に誕生の時から始まっていたことを、この福音書は伝えています。 主は産まれた時、飼い葉桶に寝かされたのでした。「宿屋には彼らの泊まる 場所がなかったからである」(2・7)と書かれております。
そして、主イエスのホームレスは、その地上の生の終わりにまで至ります。 ルカによる福音書は、主の十字架上の最後の言葉を次のように伝えています。 「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます』」 (23・46)。この主イエスの最後の言葉は、詩篇31編に見られる言葉 です。それはまた、ユダヤ人の間においては何ら特別な言葉ではなく、ごく 普通の就寝の祈りでした。いわば神に語りかける「おやすみなさい」です。 主が枕することのできたのは、最終的に十字架の上だけでした。地上から数 十センチ上げられたその場所でありました。すなわち、地の上には最後まで 本当の意味で枕するところはなかったのです。
主の唯一の安息の場は、地の上にではなくて、主が霊をゆだねられた父な る神のみもとでありました。父なる神の支配、神の国にこそ、主イエスの安 息はあったのです。主に従うということは、このホームレス・イエスに従う ことを意味します。そこでは、最終的なホームをどこに求めているのかを問 われます。自分が最終的に枕すべき所を、父なる神のみもと、父なる神の支 配、神の国に見ているかどうかが問われるのです。
●死者は死んでいる者たちに葬らせよ
次に、59節以下を御覧ください。「そして別の人に、『わたしに従いな さい』と言われたが、その人は、『主よ、まず、父を葬りに行かせてくださ い』と言った。イエスは言われた。『死んでいる者たちに、自分たちの死者 を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい』」(59‐6 0節)
この人は、主イエスから「わたしに従いなさい」と招かれました。そして、 その人もまた主に従おうと決意しておりました。しかし、彼は「まず、父を 葬りに行かせてください」と願います。ユダヤ人にとりまして、葬儀を丁重 に行うことは、すべてに優先される宗教的義務でありました。そのためには 安息日の規定さえも免除されたと言われます。父の葬儀に関して息子が義務 を果たすのは当然のことでしょう。この人の願いは私たちにも十分理解でき ます。
理解し難いのはむしろ主イエスの言葉です。主は「死んでいる者たちに、 自分たちの死者を葬らせなさい」と言われました。もちろん、文字通りの死 人に死者を葬らせるわけにはいきません。ここで主イエスが言っておられる のは比喩的な意味であろうと思います。その人に対しては、「あなたは行っ て、神の国を言い広めなさい」と語られていますから、「死んでいる者たち 」というのは、神の国に対して目が開かれていない人々、信仰的に「死んで いる者たち」という意味であろうと思います。葬儀のことは彼らにまかせよ、 と言われているのです。
理不尽な言葉でしょうか。しかし、ここで冷静になって考えてみますと、 確かに、葬儀のことを他の人々に任せるということは、《絶対にできないこ と》ではありません。彼らに任せることは可能なのです。
一方、主イエスが「わたしに従いなさい」と言われたのは、その人に対し てです。ですから、主の招きに対して、主への応答を最優先して従うという ことは、その人にしかできないことです。その人の友人が代わりに従って、 その人が招きに応えたことにする、などということはできません。その人の 親でも、その人の子供でも、その人の妻でも代わりにはなれません。主イエ スに従うのは、本人が従わなくてはならないのです。「《あなたは》行って …」と主が命じておられるとおりです。
一方において、主に従ってあなたが行わねばならないことがあります。他 方において、他の人々でもできることがあります。一方において、神の国の 福音を知る者しかできないことがあります。他方において、必ずしも神の国 の福音を知ることなくしてもできることがあります。一方において、キリス ト者がキリスト者として為さねばならないことがあります。他方において、 他の人々に委ねるべきこととがあります。そして、時によっては、そのどち らかを選択しなくてはならない狭間に立たされることがあります。「死んで いる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」というのは、なるほど極端 な表現かもしれません。しかし、葬儀に関することでなくとも、そのような 選択の場に立たされることはあり得ます。そして、キリストに従うというこ とは、このように、時としてどれほど重要なことに見えることでも他の人に 任せて、自らは御声に従う、ということでもあるのです。
●後ろを顧みてはならない
最後に、61節以下を御覧ください。「また、別の人も言った。『主よ、 あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。』 イエスはその人に、『鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさ わしくない』と言われた」(61‐62節)。
列王記上19章に、預言者エリヤがエリシャを後継者として召す場面が描 かれています。そこで預言者エリヤがエリシャに自分の外套を彼に投げかけ ると、エリシャはエリヤの後を追ってこう言います。「わたしの父、わたし の母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」(列王記 上19・20)。その時、エリヤは「行ってきなさい」と言ってそのことを 許可しました。その後、エリシャは一軛の牛を屠って料理し、人々に振る舞 って食べさせます。そして、「それから彼は立ってエリヤに従い、彼に仕え た」(同19・21)と書かれているのです。
「まず家族にいとまごいに行かせてください」。その実に当然とも言える 求めを主イエスは退けられた。その厳しさのみに私たちの目は向けられがち です。しかし、どうも家族にいとまごいに行くかどうかが本当の問題ではな さそうです。エリシャの場合、彼が家族にいとまごいに行ったことは、エリ ヤに従う上で何の支障にもならなかったのですから。主が、この人の求めを 退けられたのは、エリシャにとっては支障にならなかったことが、《この人 にとっては》支障になるということでしょう。主は一般論を語っているので はありません。主イエスは相手を見て語っておられるのです。家族にいとま ごいをすることが、《この人にとっては》「鋤に手をかけてから後ろを顧み る」ことになるのです。
問題は家族へのいとまごい云々ではありません。私たちにとっては、他の 事柄が、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる」ことになるかもしれないので す。鋤とはこの場合、牛につけて畑を耕す道具です。牛が動きはじめてから 後ろを振り返るならば、畝が曲がってしまいます。そして、キリストに従う ことにおいても、同様のことが起こります。
どうでしょう。私たちにもまた、キリストに従おうとする時に、もしかし たら後ろ髪引かれる何かがあるかもしれません。家族に関することはその一 例に過ぎません。いずれにせよ、振り返ったらキリストに従うことを困難に する何かがあるかもしれません。後戻りしたらキリストに従うことを困難に する何かがあるかもしれません。もしそうならば、振り返ってはならないの です。戻ってはならないのです。時によっては、「さようなら」も言わずに 関係を断たねばならないこともあるのです。もちろん、それは極端な場合で す。しかし、いずれにせよ、鋤に手をかけたらしっかりと前を向いていなく てはなりません。前を見る、それは神の国に目を向けることです。神の国に 目を向けずして、神の国にふさわしくあることはできません。主イエスに従 うということは、そのようにしっかりと前を見て生きることでもあるのです。
さて、このように、主に従うことを志した三人に語られた主イエスの言葉 を見てきました。主は三人に同じ言葉をかけられませんでした。それぞれの 人に対して異なる言葉を与えています。彼らはそこにおいて、他の誰かにで はなく、彼ら各自に語られた主イエスの言葉を聞いているのです。そのよう に、私たちにとっても大切なことは、私たち自身に対する主の言葉を聞くこ とです。主への従順を一般的な言葉で定義することは大して意味あることで はありません。あなたはこの聖書箇所から何を聞いたのでしょうか。他なら ぬ《あなた》にとって、主に従うということは、いったい何を意味している のでしょうか。