「善いサマリア人」
2003年2月23日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ10・25‐37
今日お読みしました聖書箇所の中で、特に30節以下は「善きサマリア人 のたとえ」として良く知られている譬え話です。今日は、主が語られたこの 物語を共に味わいつつ読み、その意味するところを考えたいと思います。
●それを実行しなさい
まず、この譬え話が語られた場面に目を向けておきましょう。事の発端は、 ある律法の専門家が主イエスに次の質問を投げかけたことでした。「先生、 何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。これはユダヤ 人の間において幾度となく繰り返されてきた問いです。永遠の命に対する希 求。それは人間の究極的な求めです。何をしたら永遠の命を受け継ぐことが できるのか。それは人間の口にすることのできる最終的な問いであり、それ ゆえに最も真剣なる問いであると言えるでしょう。
しかし一方、ルカはこの問いの真意について「イエスを試そうとして言っ た」と記しています。そこには、主イエスに対する敵意があります。何とか 言葉尻を捕らえて陥れてやろうという悪意があります。最も崇高なる真理へ の問いをその手に握りながら、それを悪意の剣として振り回して斬りつけよ うとしているのです。「永遠の命」を問いながら、永遠の命とは対極にある 人間の姿がそこにあります。
それゆえに、主イエスは、問いそのものに直接答えを与えようとはされま せんでした。主は問い返されます。「律法には何と書いてあるか。あなたは それをどう読んでいるか」と。律法の専門家は答えます。「『心を尽くし、 精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しな さい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」。主はその答え を聞かれ、「正しい答えだ」と言われました。しかし、主はさらにこう付け 加えられます。「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」。
「それを実行しなさい」。極めて単純な言葉です。しかし、主の言葉は人 の肺腑をえぐります。正しい答えは知っている。語ることもできる。しかし、 実行してはいない自分自身の姿が突きつけられます。永遠の命に関すること を口にしている者自身が、いかにその永遠の命から遠いかという、その現実 が露わにされます。見てくればかりの衣は主の言葉によって剥ぎ取られてし まうのです。
しかし、人は衣を剥ぎ取られたままではいられません。すぐさま《自分の 正しさ》というぼろ布をまとい直します。自分を正当化しようとするのです。 彼は問い返します。「では、わたしの隣人とはだれですか」。
「隣人とは誰か」と問うということは、「隣人でないのは誰か」と問うこ とでもあります。この二つの問いは一対です。「隣人を自分のように愛しな さい」と言われているのですから、隣人でなければ愛さなくて良いことにな ります。「隣人である」と「隣人でない」の間の線引きをしている限り、愛 さない自分を正当化することはできます。「その人は隣人ではないのだ」と 言えば良いのです。そのように人は愛さない自分をいくらでも正当化できま す。愛さないだけではありません、積極的に人を憎むことも正当化できるの です。敵意や悪意をもって立ち向かうことも正当化できるのです。線の引き 方で、いくらでも正当化できるのです!
そのように自分を正当化しようとした人に対して語られたのが、この「善 きサマリア人のたとえ」という話です。さて、この譬え話はいったい何を語 っているのでしょうか。
●「隣人である」ではなく「隣人になる」
ストーリーは至って単純です。ある人がエルサレムからエリコへ下って行 きました。エルサレムからエリコまで約30キロメートル、標高差1000 メートル以上ある険しい道のりは、危険なことで知られていました。その人 は、その道の途中で強盗に襲われ、身ぐるみをはがれ、半殺しにされて放置 されます。すると、そこに神殿において仕えている祭司が通りかかりました。 彼はその半殺しにされた人を目にします。しかし、道の向こう側を通って行 ってしまうのです。次に、神殿において仕えるレビ人が通りかかります。彼 も強盗に襲われた人を目にします。しかし、彼もまた、道の向こう側を通り 過ぎてしまうのです。
なぜ宗教家がこの可愛そうな人を助けなかったのか。様々な理由は考えら れます。もうその人は死んでいるのだ、と思ったのかも知れません。律法に よるならば、死んだ人に触れた人は七日間汚れます。汚れている間は神殿祭 儀に携わることができません。彼らはその意味で職務に忠実であろうとした のかもしれません。あるいは、まだ近くに強盗が潜んでいると思ったのかも しれません。ならば自分の身が危ぶまれます。一刻も早くそこから立ち去ら ねばなりません。いずれにせよ、主はその理由を語っていませんから、さほ ど重要なことではないでしょう。重要なのは事実です。彼らが向こう側を通 って行ったという事実です。
そこに旅をしていたサマリア人が通りかかります。あえてここで「サマリ ア人」が登場してくることから考えると、この強盗に襲われた人はユダヤ人 であるということなのでしょう。ユダヤ人とサマリア人との間には、長い歴 史的背景を持つ古くからの敵対関係がありました。その根は紀元前八世紀に、 アッシリアがサマリアを征服し、その地に東方の諸民族を入植させた時にま で遡ります。その結果、サマリア人は混血の民となり、その宗教は諸民族の 宗教と混淆したものとなりました。それゆえに、ユダヤ人は、サマリア人を 血と信仰の純粋性を失った民として蔑み、徹底的に忌み嫌ったのです。もち ろん、サマリア人もまたそのようなユダヤ人を深く憎んでおりました。その ような関係にあるサマリア人がそこを通りかかったのです。
同族であり隣人と見なされている祭司とレビ人は「道の向こう側を」通っ ていきました。しかし、隣人と見なされてはいなかったサマリア人は、「そ の人を見て憐れに思い、近寄って」来たのです。彼は傷に油とぶどう酒を注 ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱したのでした。 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出して宿屋の主人に渡し、 「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払いま す」と言ったのです。この人がなぜ助けたのか。その理由を主イエスは「憐 れに思い」としか語りません。彼の心にあったかもしれない様々な動機は大 して重要ではなさそうです。重要なのは事実です。彼が近寄って行ったとい う事実です。
主イエスはこの話をした上で、律法の専門家に問われました。「さて、あ なたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思う か」と。さて、ここで先ほど律法の専門家が自分を正当化しようとして尋ね た問いが言い換えられていることが分かります。彼は「だれが隣人ですか」 と問いました。主は、「だれが隣人になったか」と問い返されるのです。 「だれかが私の隣人《である》」のではなく、「私が隣人《になる》のだ」 と主は言われるのです。そこでは隣人とそうでない者との間の線引きによっ て自己を正当化することはできないのです。
●誰が隣人になったと思うか
しかしよく考えてみると話はさほど単純ではありません。主イエスの譬え 話は、たいてい一ひねりしてあります。もし「だれかがあなたの隣人なので はなく、あなたが隣人になるのだ。既にある隔てを越えて隣人になるのだ」 ということを教えるだけならば、このような譬え話にはならないと思います。 恐らく次のようになるでしょう。「あるサマリア人がエルサレムからエリコ へ下っていく途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人を半殺しにして 立ち去った。すると、そこにユダヤ人が通りかかった。彼はサマリア人を見 て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、宿屋に連れて行って介抱 した」と。なぜなら、主イエスと対話している律法の専門家はユダヤ人なの ですから。その彼に「隣人になりなさい」と教えるだけだったら、隣人にな って助ける人の方をユダヤ人として語るはずだと思うのです。
ところが、主イエスはこの譬え話において、半殺しにされて死に瀕してい る人の方をユダヤ人として語ったのです。この律法の専門家がこの話におい て身を置くべきところはサマリア人の位置ではないのです。彼は事実サマリ ア人ではないのですから。そうではなくて、彼が自分自身を重ね合わせなく てはならないのは、この死にそうな人の方なのです。彼は助けられなくては ならないのです!
これを読んでいる私たちもまた気付かされます。私たちはこの話の中で、 単純にサマリア人と自分を重ねることはできないのです。むしろ私たちは半 殺しにされた死にそうな人なのです。事実そうではありませんか。自分を正 当化しようとして一生懸命にまとっているボロボロの衣を取り去られたら、 そこに露わになるのは私たちの実に惨めな姿です。正しいことは知っている かもしれない。しかし、実行してはいない自分がいます。愛するべきことは 分かっている、しかし、現実には愛さない、愛せない。むしろ敵意を抱き、 悪意の剣を振り回している。そして、そのような自分を一生懸命に正当化し ている自分がいます。まさに永遠の命とは対極にあり、永遠の命とはまった く無縁である現実の姿がそこにあります。滅びに瀕している私たちがいるの です。私たちには助けが必要なのです!
強盗に襲われて瀕死の人に、祭司もレビ人も助けにはなりませんでした。 彼らは律法と祭儀の世界を代表しています。しかし、彼らは助けにならなか ったのです。彼らは向こう側を通って行ってしまったのです。しかし、霞ん でゆくその人の目に、一人の人の姿が映りました。近づいてくる一人の人の 姿が映ったのです。それは彼が忌み嫌っていたサマリア人でした。しかし、 サマリア人が、その人の敵意にもかかわらず、近づいてきて隣人になってく れたのです。このサマリア人とはいったい誰のことでしょうか。それは主イ エスのことに他なりません。この律法の専門家が敵意をもって対している主 イエスこそ、彼の隣人となり、彼を救うために来られた御方だったのです。
それは私たちにとっても同じです。私たちがまだ主を知らなかった時、主 に敵対していた時、主イエスの方から私たちに近づいてきてくれました。憐 れに思って近づいて来てくれたのです。そのままでは死んでしまうから、そ のままでは滅びてしまうから、私たちの隣人になってくれて、その命を、そ の愛のすべてを注いでくださったのです。
「誰が隣人になったと思うか」と主は問われました。主イエスが私たちの 隣人になってくださいました。そこで、主イエスは私たちに言われるのです。 「行って、あなたも同じようにしなさい」と。