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「実のならないいちじく」

2003年3月2日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ13・6‐9

 今日、私たちに与えられていますのは、ぶどう園に植えられたいちじくの 木を題材とした主イエスのたとえ話です。ぶどう園にいちじくが植えられて いるのは不自然に聞こえますが、実際にはそう珍しいことではなかったよう です。ぶどうと共に古くからイスラエルにおいて親しまれてきたいちじくは、 ぶどうをからませる立木として用いられることもあったとのこと。いずれに せよ、ぶどう園の良い土地に植えられているのですから、当然、実がなるこ とも期待されます。ところがそこに、何年も実のならないいちじくの木があ りました。主イエスは次のように語り始めます。「ある人がぶどう園にいち じくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった」(6節)。そ こで、ついに、ぶどう園の主人は園丁に、その木を切り倒すことを命じるの です。

●切り倒してしまえ!

 まず、ぶどう園の主人の言葉を聞いてみましょう。彼は言います。「もう 三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためし がない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか」(7節)。

 このたとえ話の直前には次のような言葉があります。「あなたがたも悔い 改めなければ、皆同じように滅びる」(5節)。つまり、このたとえ話は、 「神の裁き」という文脈の中で語られているのです。この主人の言葉と神の 裁きが重なりますとき、この言葉はたいへん厳しいものとして響いてまいり ます。「切り倒してしまえ!」その言葉に、私たちは冷血漢で無慈悲な男の 姿を想像します。そこに、情け容赦なく裁きを下される怒りの神というイメ ージが重なってきます。この主人の言葉に抵抗を覚える人は、決して少なく ないであろうと思います。

 しかし、考えてみると、この主人が命じていることは、何も特別なことで はないのです。通常、私たちが考えることと少しも変わらないのです。

 私はモノを捨てることが苦手です。使いもしないものをいつまでも取って おく性質は、どうも祖母から受け継いだようです。ですから、使うこともな い役にも立たないものが沢山残って場所を塞ぐようになります。昨年の四月 に引っ越しをした時、そのような不要品がかなり多くあることが判明しまし た。そこで結局ほとんどを捨ててしまったのです。捨てたのは私ではなく、 私の妻ですが。そして、それらを捨てたからといって、実際何ら困ることは ないのです。結局、彼女の判断は正しかったと思います。役に立たないもの をいつまでも取っておく人は、賢い人とは呼ばれません。役に立たない、使 わないモノは捨てるのが常識なのです。

 この物語に出てくるいちじくは、本来実をつけるべき樹齢になっても実が つきませんでした。二年経ち、三年経っても実をつけませんでした。そもそ も、モーセの律法によるならば、実がついたとしてもすぐに食べられるわけ ではありません。三年の間は食べられません。四年目の実は主への献げもの となります。そして、五年目から食べられるのです。ですから、仮に三年目 に実ったとしても、食べられるのはその四年先です。実際には、三年目にも 実はなっていないのです。それを考えるならば、このいちじくが無駄に土地 をふさいでいると判断されても不思議ではありません。「切り倒せ」という のは、極めて常識的な判断です。この主人の姿に多少なりとも抵抗を覚える 人でありましても、いざ自分がその場に立ったら、真っ先に「切り倒してし まえ」と言っているかもしれません。それほど、いわば当然のことなのです。

 しかも、さらに言うならば、このたとえ話には旧約聖書の背景があります。 旧約聖書において、イスラエルの民が、しばしばいちじくやぶどうなどの果 物に喩えられているのです。例えば、今日のたとえ話における主人の状況に 類似したものとして、イザヤ書に次のような言葉が出てきます。「わたしは 歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛 する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石を除き、良いぶ どうを植えた。その真ん中に見張りの塔を立て、酒ぶねを掘り、良いぶどう が実るのを待った。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。…わたし がぶどう畑のためになすべきことで、何か、しなかったことがまだあるとい うのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ、酸っぱいぶどう が実ったのか」(イザヤ5・1‐4)。

 いちじくとぶどうの違いはあります。しかし、期待が裏切られたという点 においては共通です。このいちじくの木は役に立たないだけではありません。 そこには、信頼と期待を裏切り続けてきた人間の姿が重ね合わされているの です。イザヤ書において、神は「わたしがぶどう畑のためになすべきことで、 何か、しなかったことがまだあるというのか」と嘆きの声をあげておられま す。この主イエスのたとえにおいても同じです。いちじくは道端に自生した ものではありません。ぶどう園に植えられているのです。良い地に植えられ ているのです。そこには植物の世話をする園丁もおります。このたとえ話の 旧約的背景を考えます時、そのいちじくは放っておかれた木ではありません。 既に手をかけられてきたことが前提とされているのです。つまり、《それに もかかわらず》「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ている のに、見つけたためしがない」ということなのです。ですから「切り倒せ」 というのは、極めて常識的な判断なのです。

 さて、私たちはここで、神の裁きということについて、改めて考えて見る 必要があります。私たちはしばしば神の怒りの描写に抵抗を覚えます。この たとえ話の厳しい主人の言葉に抵抗を覚えます。しかし、この主人の言って いることが、決して不当なことでも異常なことでもないように、神が私たち に怒りを現され、裁きを下されたとしても、それは本来、不当なことでも異 常なことでもないのです。むしろ、本当に大切なことは、私たちはもともと 裁かれて切り倒されても仕方のない存在なのだ、ということを認めることな のです。この世界を神が裁かれ滅ぼされたとしても、それは決して不当なこ とでも異常なことでもないのです。

●今年もこのままにしておいてください

 そのことを理解する時、このたとえ話において特別な驚くべきことが語ら れているのは、その前半ではなくて、むしろ後半なのだということが見えて まいります。「切り倒せ」という主人の言葉は正常な判断なのであって、む しろ極めて異常な言葉はその後に来る園丁の言葉なのです。

 それでは、彼の言葉に耳を傾けてみましょう。園丁は主人に答えました。 「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥 やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそ れでもだめなら、切り倒してください」(8‐9節)。

 園丁は実のならないいちじくの木を来年まで残すことを求めます。この木 が残ったとしても、園丁にとっては何の得にもなりません。むしろ、周りを 掘ったり、肥やしをやったりという、余計な労苦が増えるだけです。しかし、 それにもかかわらず、園丁はこの木のために主人に執り成します。そして、 このたとえはその園丁の言葉で終わるのです。言外に語られているのは、園 丁の言葉を結局主人は退けなかったということでしょう。この物語の展開と して、それは当然のことではなく、むしろ驚くべきことなのです。

 そして、その驚くべきことが、このたとえ話の中だけでなく、たとえ話の 外で、現実の世界においても起こったのです。このたとえ話はルカによる福 音書にしか出てきません。そして、同じようにルカによる福音書だけが伝え ているキリストの言葉があります。キリストが十字架にかけられた時、主は 次のように祈られたのです。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をし ているのか知らないのです」(23・34)。どうぞ、今年もこのままにし ておいてください。切り倒さないでください。来年は実がなるかもしれませ ん。そう言って、ただ場所をふさいでいただけの実のならないいちじくの木 に、異常なほどに執着し、憐れみを示したあの園丁の姿を、私たちはあの十 字架の上に見るのです。

 いや、あの十字架の上だけではありません。主イエスの執り成しは、あの 時に終わってしまったのではありません。主の執り成しは、今も続いている のです。パウロは次のように記しています。「だれがわたしたちを罪に定め ることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキ リスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してく ださるのです」(ローマ8・34)。

 実は、この聖書箇所から説教をするのは、今日が初めてではありません。 丁度二年前の三月に、ここから説教をしております。その時から一年、そし てさらに一年の月日が流れました。そして、なお、この世界は存在していま す。教会もまた存在しています。私たちは、変わることなく御前に出ること が許されています。あの日と同じように今日も主を礼拝をしています。これ は当たり前のことでしょうか。そうではないだろうと思うのです。実を結ぶ ことのなかった木を残すために「もう一年」と願い求める園丁、そしてその 申し出を良しとして待つことを良しとする主人。このたとえに語られている 驚くべきことが、現に私たちの上に起こっているのです。

 さて、園丁の言葉は、「もしそれでもだめなら、切り倒してください」で 終わります。そして、その一年後、結局このいちじくの木は実を結んだのか、 それとも実を結ぶことなく切り倒されたのかについては、何も語られてはお りません。それは、主イエスのたとえ話の意図した中心が、最終的に切り倒 されるのか、残されるのか、ということにはないことを意味しているのでし ょう。そんなことはどうでも良いのです。私たちが目を向けるべきところは、 あくまでも、本来切り倒されるはずだった木が、今ここで残された、という 点にあるのです。

 最初に申しましたように、このたとえ話は「神の裁き」という文脈におい て語られております。神の裁きということを考えます時に、私たちの思いは どうしても、《終わりの日》に私たちは切り倒されるのか、それとも救われ るのか、ということに向いてしまいます。しかし、主イエスのたとえ話は、 《終わりの日》に向こうとする私たちの目を《今、この時》へと引き戻しま す。重要なのは、《終わりの日》ではなく、キリストの執り成しのもとにあ り、神の寛容と忍耐が示されている《今、この時》だからです。この水曜日 から、教会の暦は受難節(レント)に入ります。私たちは一年経って、今年 もこの時を迎えることができました。特に悔い改めの時として、今年もその 期間を過ごすことが許されております。悔い改めということが関わっている のは、いつでも《今、この時》です。私たちは現在、今こうして恵みとして 与えられている時を、真剣に受け止めねばなりません。パウロが次のように 語っているとおりです。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(2コリン ト6・2)であると。

 
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