「遠く離れた息子たち」
2003年3月9日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ15・11‐32
「ミッション・バラバ」という伝道団体があります。テレビで何回か放映 されましたし、「親分はイエス様」という映画にもなりましたから、ご存じ の方も多いことでしょう。彼らは皆、元ヤクザです。ですので、人々はその 変化の大きさに関心を抱きます。テレビの放映も取り上げ方はだいたいいつ も同じです。彼らが《いかに悪いことをしてきたか》が語られ、現在いかに 《まじめな良い牧師になっているか》が語られます。人々は「キリスト教に よって更正した人々」の物語として受け止めます。そして、多くの人々は、 自分の周りに少なからずいる「悪い人々」を思い浮かべながら、ブラウン管 に目を向けることになります。
今日お読みしました主イエスのたとえ話も、もしかしたらそのように読ま れるかも知れません。新共同訳においてこの部分につけられた《「放蕩息子 」のたとえ》という小見出しが、既にその方向性を示しています。しかし、 ここで少なくとも二つの点に注意しなくてはなりません。
第一に、《「放蕩息子」のたとえ》と言っても、この物語には彼の放蕩生 活そのものの描写がありません。ただ一言、「そこで放蕩の限りを尽くして、 財産を無駄使いしてしまった」(13節)と書かれているだけです。彼がど れだけ悪い人間であったか、だらしない人間であったか、という類のことに は一切触れられておりません。この息子の人間性そのものは、この物語の関 心外にあるようです。第二に、この「放蕩息子」が更正したということも全 く記されておりません。彼は腹をへらして帰ってきただけです。その後、彼 が親思いの立派な息子になったなどとは一言も書かれてはおりません。この 息子の人間性の変化そのものも、この物語の関心外にあるようです。
では、この物語の重点はどこに置かれているのでしょうか。主はこの親子 を描くことによって、何を伝えようとしておられるのでしょうか。
●遠く離れていた弟
そこでまず、この下の息子に目を向けてみましょう。この息子はどこにい るのでしょう。彼は「遠い国」(13節)におります。しかし、彼は決心し て言います。「ここをたち、父のところに行って言おう。…」(18節)。 そして、行動に移します。「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った 」(20節)。彼は歩きます。そして、懐かしい家の見えるところにまでや ってきます。しかし、聖書は言います。「ところが、まだ遠く離れていたの に」と。「遠く離れていたのに」何が起こったのでしょう。「父親は息子を 見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」のです。
この一連の描写において、大きな変化が起こっています。それはこの息子 の人間性の変化ではありません。そうではなくて、《距離》の変化です。遠 く離れていた父と子の間の距離が近づくのです。そして、最終的に、その距 離はゼロになるのです。
この息子と父親の距離。それは息子が旅立った時に生じた距離であると言 えます。彼は自ら「遠い国」に旅立ったのですから。しかし、この息子と父 親の距離は、旅立って初めて生じたのではない、と言うこともできます。彼 は父親に言いました。「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分 け前をください」(12節)と。どこの世界でもそうですが、ユダヤ人の世 界においても、生前に父が子に財産を分与することは通常いたしません。仮 に何らかの事情のゆえに財産を分与したとしましても、父親が生きている限 り、全財産はあくまでも父親の権威のもとに置かれます。子供は所有権を得 るだけであって、処分する権利は持たないのです。ところが、この息子は財 産分与を求めただけではなく、全部を金に換えて旅立ちます。これは単に慣 例を無視した行為ではありません。彼は既に父親を死んだ者と見なした、と いうことを意味します。当然のことながら、この息子はそれまで自力で生き てきたわけではありません。生きるために必要なものを、父親より与えられ て生きてきたのです。しかし、一切を父から受けてきたにもかかわらず、彼 は父親を既に死んでいる存在と見なしていたのです。そこに父と子の驚くべ き距離があります。息子は父から既に遠く離れていたのです。
しかし、彼がその距離を現実のこととして実感したのは、彼が実際に遠く 離れ、父から与えられてきたものを失った時でした。彼は飢えます。豚の食 べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたいと思うほどに飢えるのです。その 時に彼は父のもとにはパンがあったことを思い出します。飢えている彼は、 その父から遠く離れてしまっていることに気づきます。パンが手元にないこ とによって気づくのです。
このようなことが、確かに、神と人との間で起こります。人は父なる神か らすべてを受けているにもかかわらず、あたかもそれらが元々自分のもので あるかのように生きています。神によって生かされている者であるのに、既 に神が死んでしまっているかのように生きています。それでも、必要なもの が与えられている時には、その距離に気づきません。自分が父から遠くにい ることに気づきません。それに気づくのは、与えられているものを失う時で す。食べ物も隣人も健康も、そして自分の命さえ、もともと自分の所有では ないことに気づきます。その惨めさの中で、与えてくださっていた方との間 の絶望的な距離に気づくのです。
しかし、そこでなお人間のできることがあります。帰ろうと決心すること です。方向を転じて具体的に一歩踏み出すことです。この息子はただ考え込 んでいたのではありません。実際に「彼はそこをたち、父親のもとに行った 」のです。そうです、人間には決心して為しえることがあります。それは、 毎週、礼拝の場へと足を運ぶことであるかもしれません。決心して洗礼を受 けることであるかもしれません。聖餐のパンとぶどう酒を口に運ぶことであ るかもしれません。キリスト者の交わりの中に生きることであるかもしれま せん。いずれにせよ、人が決心して為しえることがあるのです。
しかし、人間の決心と行為がすべてなのではありません。彼は「まだ遠く 離れていた」のです。家の近くまで来ていながら、父と子との間には、まだ 長い長い距離があったのです。自分で言っている通り、もう息子と呼ばれる 資格はないからです。その距離を埋めたのは、息子ではなく、父親でありま した。父親が息子を見つけたのです。父親が憐れに思ったのです。父親が走 ったのです。そうです、父親が走ったのです!そして、首を抱き、接吻しま した。父親によって、その距離はゼロになりました。そして、父親は僕たち に命じます。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指 輪をはめてやり、足に履き物を履かせなさい」(22節)と。父は帰って来 た息子を息子として扱います。そこで息子は本当の意味で息子となるのです。
そのように、最終的に人と神との距離を埋めてくださるのは神御自身です。 父が子に走り寄ります。神が人に走り寄ります。父なる神が御子を世に遣わ されたとはそういうことです。御子を十字架にかけられ、罪を贖ってくださ ったゆえに、距離がゼロとなるのです。私たちはそうして、神に受け入れら れて、本当の意味で、神の子となるのです。
●遠く離れていた兄
しかし、話はそれで終わりません。その息子には兄がおりました。弟息子 が帰ってきた時、兄は畑におりました。父親が帰ってきた息子のために「食 べて祝おう」と言って祝宴を開き、弟が父のもとで飲み食いしていた時、兄 は畑でせっせと働いていたのです。畑から帰って音楽や踊りのざわめきを耳 にした兄が、その祝宴の理由を知って怒り狂います。祝宴に加わろうとはし ません。無理もなかろうと思います。彼の主張は正当です。兄は父親にこう 言いました。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言い つけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会を するために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あ なたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来 ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」(15・29‐30)。
とりあえず、私たちは、彼の言葉を額面どおりに受け取ることにしましょ う。事実、言いつけに背いたことは一度もなかったのでしょう。彼も人間な のだから、親に隠れて悪いことの一つや二つしているものさ、などと言って、 この兄を悪者にする必要はありません。いずれにせよ、彼が本当に正しい人 間かどうかということは、この際、どうでも良いのです。あの帰ってきた息 子が真に更正して真面目になったかどうかを、このたとえ話が問題にしてい ないようにです。弟息子と父との間で重要であったのはその距離でした。こ の兄と父との間でも重要なことは同じです。両者の間の距離なのです。
父はこの兄息子に言います。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。 わたしのものは全部お前のものだ」(31節)。そうです、兄はいつも父と 一緒にいたはずでした。しかし、彼は今、父の喜びを自分の喜びとすること ができません。父と喜びを共有することができません。父が喜びとしている 自分の弟を、この兄息子は「あなたのあの息子」(30節)と呼んでいます。 この兄は自分の弟から遠いところに身を置いています。それゆえに、父の喜 びからも遠いところに身を置いているのです。結果的に、かつて弟息子が父 から遠く離れていたように、兄もまた父から遠く離れているのです!
ここにおいても、その距離を埋めるために行為するのは父親です。父親の 方が家から出てきて、入ろうとしない兄をなだめに近づきます。父は兄息子 の心に語りかけ、父と喜びを共にするよう招くのです。それゆえ、彼にとっ て悔い改めとは、より良い人間になることではありません。父が愛している 兄弟を受け入れ、父と共に祝宴の席に着くことなのです。
さて、最初に触れましたミッション・バラバの人たち。人々は、悪いヤク ザが良い人間になったという変化にのみ関心を向けがちです。しかし、彼ら がその身をもって証ししているのは、彼らの人間性の変化などではないので す。悪い人が良い人になることよりも、もっと大事なことがあるのです。そ れは父なる神から遠く離れていた者が、父のもとに帰ってくることです。彼 らは帰ってきた人々なのです。
そして、父から遠く離れているのは、必ずしもヤクザだけではありません。 この世の悪人だけではありません。この世においては正しいとされている人 もまた、その人が固執する己れの正しさのゆえに、父から遠くにいるかもし れないのです。その意味において、このたとえ話に出てくる兄と弟は、すべ ての人間を代表しているとも言えるでしょう。これは私の物語であり、そし て、あなたの物語なのです。