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「ザアカイ、急いで降りて来なさい」

2003年3月16日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ19:1‐10

 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりた い」(5節)。主イエスが語られた御言葉です。主の御言葉には力がありま す。主の御言葉は、ザアカイという男の人生に、決定的な変革をもたらしま した。彼の上に起こったその驚くべき出来事を、主イエスは次のように表現 しています。「今日、救いがこの家を訪れた」と。救いが一人の人に訪れま した。救いが一つの家に訪れました。救いは、主の御言葉を通して訪れまし た。私たちは、主がいったい何を語られたのか、その言葉はザアカイに何を 意味したのか、そして、その御言葉は私たちに何を意味するのか、というこ とを考えながら、今日の聖書箇所を御一緒に味わいたいと思います。

●名前を呼ばれるイエス

 「ザアカイ、急いで降りて来なさい」。主はそうザアカイに呼びかけまし た。私たちは、第一に、主がザアカイの名を呼ばれたことに心を向けたいと 思います。

 何よりもまず、それは主イエスがザアカイを、名前を持つ一人の人間とし て関わられたことを意味します。それは人々の関わり方と対照的です。人々 はザアカイのことを何と呼んでいるでしょう。彼らはザアカイを「罪深い男 」と呼んでいるのです。「罪深い男」は彼の名前ではありません。彼を分類 する一つのレッテルです。

 そのようなレッテルを貼られるのには背景があります。彼は、徴税人の頭 でした。徴税人になるためには、間接税の徴税請負の権利を持たなくてはな りません。その権利を買うにはお金が必要です。一般的にその権利はかなり 高額で競り落とされたそうです。そうまでしてその権利を得るのは、儲かる からに他なりません。徴税人の職務には、あらゆる不正が入り込む余地があ りました。それゆえに、彼らは金持ちになれたのです。しかし、それと引き 替えに、彼らはユダヤ人としてのアイデンティティを失いました。異邦人の ために同胞から税金を取り立てて私腹を肥やす徴税人たちは、もはや神の民 とは認められませんでした。人々は彼らを罪人と呼んだのです。それがザア カイであるか、他の人間であるかは問題ではありません。「徴税人」イコー ル「罪人」なのです。

 しかし、主イエスはザアカイを「徴税人よ」と呼んだのでも、「罪人よ」 と呼んだのでもありません。「ザアカイよ」と呼んだのです。主にとってザ アカイはまずザアカイなのであって、徴税人であることや罪人であることが 先に来るのではないのです。そうです、主は私たちにそのように関わられる のです。私たちは、様々なレッテル貼りをします。善い人、悪い人、寛容な 人、偏狭な人、右よりな人、左よりな人、日本人、外国人…。そうやって、 自分自身をも他人をもそのレッテルに従って分類して扱います。しかし、主 イエスにとって、私たちはまず、名前を持つ一人の固有の人間なのです。他 の代理がきかない、一人のかけがえのない存在なのです。そのように関わら れる主の呼びかけを、ザアカイはここで耳にしているのです。

 そしてさらに、主が「ザアカイ」と名前を呼ばれたことは、主御自身がザ アカイを捜し求めておられたことを意味します。

 もちろん、《ザアカイが》主イエスを求めていたことは言うまでもありま せん。彼は「イエスがどんな人か見ようとした」と書かれています。それは 芸能人を見ようとするミーハー的な好奇心とは違うでしょう。いくら背が低 かったとはいえ、群衆にさえぎられて見えなかったとはいえ、大のオトナが いちじく桑の木の登るというのは異常です。彼は金持ちです。悪名高いとい う意味にせよ、彼は有名人です。そのような彼が何かをすれば自ずと注目が 集まります。嫌われ者がアホなことをすれば、嘲りの対象となることは間違 いありません。しかし、それにもかかわらず、彼は木に登ったのです。それ は彼の求めがいかに強烈であったかを示します。彼にはどうしても主イエス が必要だったのです。たった一目見るだけでもいい、それでもいい。それほ どに主イエスを必要としていたのです。

 しかし、その彼が出会った驚くべき言葉は、「ザアカイよ」という言葉で ありました。こちらが見ようとしていたのに、主イエスのほうが目を留めて くださったのです。こちらが主イエスを知ろうとしていたのに、主イエスの ほうが既に知っていてくださったのです。こちらが求めていたはずなのに、 それよりも前に、主イエスが捜し求めていてくださったのです。主イエスは、 失われたものを捜して救うために来てくださったのです。

 私は小さい時、落ち着きのない子供でしたので、よく迷子になりました。 迷子になった子供は、火がついたように泣き叫んで親を捜し求めます。しか し、それ以上に、それ以前に、親は子供を必死に捜し求めているものです。 人の親になって、そのことが良く分かります。そのように、神の方が、御子 を遣わして、迷っている人を捜し求めておられるのです。「ザアカイよ」と 名前を呼ばれる主の御声によって、ザアカイは捜し求めておられる神に出会 っているのです。

●急いで降りて来なさい

 そして呼びかけに続いて、さらに主は言われました。「急いで降りて来な さい」。第二に、私たちはこの招きの言葉に心を留めましょう。

 主はザアカイを知っていました。彼が徴税人であることも知っておられた ことでしょう。しかし、主がザアカイに向かって言ったのは、「生活を改め なさい」ということでも、「これまでの不正を全て償いなさい」ということ でもありませんでした。主は「急いで降りてきなさい」と言われたのです。

 ザアカイが急いで降りて来るのは、まず主イエスのみそば近くに来るため です。ザアカイは「イエスがどんな人か見よう」としておりました。そして、 確かに見ることができました。木の上にいるのですから良く見えます。しか し、ザアカイはただ上から見ているところに留まっていてはならないのです。 木から降りて、主イエスの近くに行かなくてはなりません。そうです、主は 私たちに「降りて来なさい」と言われます。上から眺めるようにして、「イ エスとは何者か。神とはなんぞや。信仰とはなんぞや。救いとはなんぞや」 と、関心を持って目を向けることも大事かもしれません。しかし、それ自体 は何ら救いをもたらすことはないのです。もっと大事なことは、主イエスの 近くに行って、主と向き合うことです。話しかけることです。ザアカイがし ているように、「主よ」と言ってみることです。祈ってみることです。木の 上と下で対話は成り立ちません。木から降りなくてはなりません。

 さらに言うならば、ザアカイが急いで降りて来るのは、主イエスを家にお 迎えするためです。主はこう言われたのです。「今日は、ぜひあなたの家に 泊まりたい」と。主を家にお迎えしなくてはなりません。家とは生活の場で す。そこにはその人の人生があります。その人の罪もあります。ザアカイの 家には、不正によって蓄財した富があったことでしょう。そこに主イエスを お迎えしなくてはなりません。きれいにしてからではありません。汚いまま、 罪にまみれたまま、ともかく主イエスを家にお迎えしなくてはなりません。 生活の中に、人生の中に、主イエスをお迎えしなくてはなりません。

 そして、主を家にお迎えするのは、主との交わりのために他なりません。 主が「泊まりたい」と言われるのは、ただ「宿をかせ」ということではあり ません。ザアカイは主と共に食卓に着くのです。主と共に食事をします。主 と語り合います。主と共に時を過ごすのです。信仰生活とは、主イエスを知 る生活です。それは単に知的に主を知る生活ではなく、主と共に食事をし、 主と共に時を過ごす、命の交わりの生活に他なりません。そのことを良く表 しているのは、この主の日の礼拝です。私たちはこの場所で、主イエスと共 に食事をし、主との交わりを楽しみ、主と共に時を過ごすのです。私たちの 週日の生活は、この場所に起こっていることの延長なのです。

●救いがこの家を訪れた

 その結果、ザアカイに何が起こったでしょうか。ザアカイはこう言い始め ます。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれか から何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」(8節)と。こ れは主イエスとの交わりがもたらした実りです。命が豊かに通い始めた時、 枯れたように見えた木に、再び新芽が現れ、青々と葉が茂り、そして豊かな 実がみのったのです。間違ってはなりません。彼が財産の半分を施したから、 主イエスが来てくださったのではありません。だまし取った額を四倍にして 返したから、主イエスが来てくださったのではありません。これは主イエス との交わりによって生じた実りなのです。

 その実りとは何でしょう。他者と共に生きられるようになった、というこ とです。彼はそれまで貧しい人のことなど考えたこともなかったに違いあり ません。彼はそれまでだまし取られた者の痛みなど考えたこともなかったに 違いありません。しかし、今は違います。主イエスとの交わりが生きたもの となった時、他者との交わりも生きたものとなったのです。彼は決して、神 だけを知り神だけを愛する敬虔な人にはなりませんでした。彼は隣人をも知 り、隣人をも愛する人となったのです。彼は神の民として生きる者となりま した。これこそが神の救いの現れです。救われた人の姿です。「今日、救い がこの家を訪れた」。

 そして、救いは私たちの上にも訪れます。主の御言葉を通して訪れます。 なぜなら、主イエスは失われたものを捜して救うために来られたからです。 主は今日も、失われた現代のザアカイに語られます。「ザアカイよ、急いで 降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と。

 
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