「主は振り返って見つめられた」
2003年3月23日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ22:54‐62
●強い人ペトロ
今日の聖書箇所に登場してきますのは、ペトロという人です。彼はユダヤ 人です。彼の家が通常のユダヤ人の家庭なら、彼もまた律法の教育を受けた ことでしょう。そして、13歳になると成人と見なされ、「律法の子」と呼 ばれます。共同体に属する者として律法の義務が科せられます。彼は責任あ る大人として定められたことをきちんと果たすという強さを要求されること になります。律法を守ることができないということは、律法違反を咎められ るだけではなく、一人前の人間として、まことに恥ずかしいことであったに 違いありません。
彼はまた漁師の子です。彼は兄弟と共に親元で漁師となる訓練を受け、や がて一人前の漁師になったことでしょう。一人前の漁師になるのは容易いこ とではなかったはずです。舟の上では自分の責任を果たさねばなりません。 そこでは自分の役割に責任を負う強さが要求されます。舟の上で自分の弱さ をさらけ出して狼狽えたり、他の漁師たちの足手まといになることは、とて も恥ずかしいことだったに違いありません。
しかし、ここまでペトロについて申しましたことは、何も特別なことでは ありません。私たちにも身近なことです。この国の子供たちの多くは「人様 に迷惑をかけないように」と言って育てられます。人の手を借りずに自分の ことはきちんと自分で出来る子が《しっかりした良い子》と呼ばれます。人 の手を煩わせてばっかりいる子は、「いつまで経ってもダメねえ」と陰口を たたかれます。この国においても、やはり賞賛されるのは自立した強い人で す。弱いこと、人の助けを必要とすることは、恥ずかしいことと見なされま す。ですから、人生の最後まで、「あたしゃ子供や孫の世話なんかにならな い!」と言って生きられることを理想としている人も少なくありません。
ところが、現実は理想とは異なります。自分の弱さが露わになってしまう ことがあります。人の迷惑になってしまうこともあります。人の助けを得な かったらどうにもならない時があります。恥ずかしいことを幾度となく繰り 返します。しかし、本来は強いことが良いことだと思っていますので、その ような弱さは往々にして覆い隠されることになります。なんとか体面を繕い ます。弱さを見せないようにします。自分でも見ないようにいたします。自 分の記憶からも消し去ろうとするかもしれません。
どうも、ペトロもそうだったようです。福音書において、このペトロも他 の弟子たちも、しばしば自分の弱さをさらけ出しています。例えばこんなこ とがありました。ある日主イエスと弟子たちがガリラヤ湖畔におりました時、 主は「湖の向こう岸に渡ろう」と言い出されました。そこで主イエスと弟子 たちは船出いたします。ところが突風が湖に吹き下ろしてきて、彼らは水を かぶり、危なくなりました。弟子たちは狼狽えたます。見ると主イエスは眠 り込んでいるではありませんか。彼らは主を起こしていいました。「先生、 先生、おぼれそうです」。すると、主は風と荒波とを叱って静め、弟子たち にこう言われたのです。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(8・25) と。なんともプロの漁師としての面目丸つぶれです。恥ずかしいことです。 しかし、このような出来事も、やがて心の奥深くにしまい込まれていったよ うです。
そして、やがて主との《最後の晩餐》の場面に至ります。ペトロと他の弟 子たちは、そこでいったい何をしていたのでしょうか。聖書はこんな彼らの 姿を伝えております。「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがい ちばん偉いだろうか、という議論も起こった」(22・24)。新共同訳で は、ここで議論していたのが「使徒たち」であったことを訳出しています (原文は「彼ら」。22・14参照)。この場合、使徒たちというのは、弟 子たちの中でも特に主イエスの身近にいた十二人です。その中でリーダー格 がペトロです。
福音書はここに至るまでに、主イエスと多くの人々との出会いを書き記し てきました。汚れた霊に憑かれた男が解放されました。重い皮膚病を患って いた人が清められ、社会に復帰していきました。友人たちに連れて来られた 中風の者が罪の赦しの宣言を受け、癒されました。お腹をすかしていた五千 人以上の人々にパンが与えられました。盲人の物乞いの目が癒されました。 そして、今、メシアの救いを求めて多くの人々が主イエスについてきます。 その一行は巨大な群衆を形成していました。さて、そのような人々との関わ りの中で、「使徒たち」はどこにいたのでしょう。彼らはいつでも、癒され る人々の側ではなく、癒す主イエスの側におりました。助けられる側ではな く、助ける側に身を置いていたのです。彼らは、癒された盲人の物乞いや重 い皮膚病の人と自分の間に明らかに一線を引いていたと思います。少なくと も、自分たちはそのような癒しを必要としていなかったからです。五千人も の人々にパンが与えられた時にも、彼らは《パンを配る人々》でありました。 彼らは他ならぬ「使徒たち」です。そして、今、彼らは誰が一番その中で偉 いのかを議論しているのです。もちろん、ペトロも自分が最も偉い者である ことを主張していたことでしょう。
●弱い人ペトロ
その時でした。主はシモン・ペトロに驚くべきことを語られたのです。 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけるこ とを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が 無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力 づけてやりなさい」(22・31‐32)。
ペトロはサタンの試みの前でまったく無力な弱い人間として語られていま す。主イエスの執り成しの祈りなくして、彼は信仰を保持することができま せん。シモンにこそ主イエスの助けが必要であることが語られているのです。 しかし、シモンは自らの弱さを認めようとはしません。彼は、あの舟の中で 主イエスを起こすことしかできなかった自分の姿を、ここで思い起こすこと はありませんでした。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と問われたあ の時の出来事は、心の奥底にしまい込まれていたのです。それゆえ、ペトロ は「主よ、御一緒なら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」 (33節)と言い張ります。しかし、主は次のように言われたのでした。 「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知 らないと言うだろう」(34節)。
実際にどうなったでしょうか。今日お読みしました聖書箇所に記されてい ました。主イエスが捕えられ、大祭司の家に連れていかれましたとき、ペト ロは遠くからついて行きました。そして屋敷の中庭まで入り込み、人々と共 に火にあたりながら、事の成り行きを見守っていたのです。するとその時、 ある女中がペトロを見つめながら、「この人も一緒にいました」と言いまし た。突然の指摘に驚いたペトロは、とっさにこれを打ち消します。「わたし はあの人を知らない」と。それからしばらくして、ほかの人がペトロを見て、 「お前もあの連中の仲間だ」と言いました。ペトロは再び「いや、そうでは ない」と打ち消します。そして、一時間ほど経って、また別の人が、「確か にこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張りました。ペトロは 三度主イエスと一緒であったことを否定します。「あなたの言うことは分か らない」。すると、まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いたのでし た。
ここでルカによる福音書だけが、短い言葉ですが非常に印象的な言葉をも ってこの情景を描写しています。その後にこう続くのです。「主は振り向い てペトロを見つめられた」(61節)。これまで、ペトロは主イエスの眼差 しが向けられる多くの人々を見てきたはずです。「ダビデの子イエスよ、わ たしを憐れんでください」(18・38)と叫び続けた盲人の物乞いに向け られた主イエスの憐れみの眼差し。恐らくその主イエスの隣りに立って、ペ トロもまた主と共に憐れみの眼差しを向けていたに違いありません。そこで 憐れみを叫び求める人とペトロは、決して一つとはなりませんでした。この 盲人は憐れみを必要とする弱い立場にいる人であって、一方ペトロは主イエ スと共に立つ強い人だったのです。最後まで、命がけで主イエスに従い、主 と行動を共にし、主の御心を行おうとしている強い人だったのです。しかし、 ここにおいて、主イエスの眼差しは、今ペトロに向けられています。ペトロ は主の眼差しが他ならぬ自分に向けられていることを知ることになるのです。
その時、彼は思い起こします。「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わた しを知らないと言うだろう」という主の言葉を。しかし、ペトロが思い起こ したのは、それだけではなかったはずです。主は他のことも語られたからで す。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを小麦のようにふるいにかける ことを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰 が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを 力づけてやりなさい。」こう語られた主の言葉をペトロは思い起こしたに違 いありません。ペトロは確かにここで、主の憐れみの眼差しの前にいるので す。主イエスに祈られている者として、主の眼差しの前にいるのです。
だから彼は泣いたのです。激しく大声を上げて泣いたのです。弱い自分を 悲しみ、罪深い自分を悲しんで、激しく泣いたのです。泣くことができたの です。彼はユダヤ人として、漁師として、そして使徒の一人として、将来は メシアの王国のナンバー2になるべき人間として、強くなくてはなりません でした。他の人々のために泣くことはあっても、自分の弱さと罪深さを泣い ているわけにはいかないでしょう。しかし、もういいんです。主イエスは何 もかもご存じだったのです。どんなに強がって見せたって、虚勢を張って見 せたって、主イエスはすべてご存じだったのです。だからペトロは泣いたの です。自分自身のありのままの姿を認めて激しく泣いたのです。
これがペトロです。後の大使徒ペトロです。この物語は四つの福音書すべ てに記されています。後の使徒ペトロは、この出来事を繰り返し繰り返し人 々に語ったに違いありません。なぜなら、あの時の涙なくして、後のペトロ はなかったからです。
レントに入って三週目となりました。この期間は、主の眼差しの御前で大 いに泣くべき時です。自分の罪のゆえに、自分の情けない哀れな姿のゆえに、 大いに泣きましょう。そして、私たちは自分の強さによってではなく、主の 憐れみによって再び立ち上がらせていただき、復活の主イエスの食卓から、 共に命のパンをいただきたいと思うのです。ペトロがそうであったように!