「祈り続けなさい」
2003年3月30日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ18・1‐8
今年度最後の主日となりました。今日私たちに与えられていますのは、一 つのたとえ話です。私たちはこのたとえ話を通して語りかけ給う主の御言葉 に導かれつつ、この一年を締めくくり、新しい年度へと向かいたいと思いま す。
●金と力がモノを言う世界
今日の主イエスのたとえ話には「不正な裁判官」が出てきます。不正な裁 判官が存在するということは何を意味しているでしょうか。不正な裁判官が 存在するということは、《正しいか否か》で物事は決まらないということを 意味します。言い換えるならば、不正な裁判官が存在することは、その世界 においては《正しいか否か》が最終的に重要なのではなく、金と力がモノを 言う世界だ、ということを意味します。
このたとえ話には「一人のやもめ」が出てきます。この場合、この「やも め」は大金持ちの未亡人ではありません。明らかに社会的に弱い立場にある 人の代表です。彼女にはお金がありません。彼女には力がありません。それ ゆえに、彼女は不当に苦しめられております。彼女は訴えます。「相手を裁 いて、わたしを守ってください」と。ところが、彼女の訴えは聞き入れられ ません。裁判官が取り合おうとしないのです。残念ながら事柄は彼女が《正 しいか否か》によって動いてはいきません。彼女にはお金と力がないからで す。このたとえ話が描き出している世界、それは金と力がモノを言う世界な のです。
そのような世界は、このたとえ話を聴いている主イエスの弟子たちにとっ て、極めて身近なものでした。そこには強大なローマ帝国の支配がありまし た。ローマの兵士たちが被支配民族に対して危害を加えても、ほとんどの場 合正当に裁かれることはありませんでした。また、そこには、アンナス家な どの大祭司家を頂点とする、祭司貴族、大地主などの支配がありました。往 々にして力ある者たちの支配下にあって問題となるのは、正しいか否かでは ありません。彼らの利益になるか否かです。彼らに不利益をもたらすとなれ ば、正しいか否かにかかわらず、抑圧され、弾圧され、握りつぶされてしま う――それがいつでも弱者の運命でした。そのようにして多くの弱い人々の 血が流されました。主イエスの直弟子たちも、後の教会も、往々にして置か れていたのは、そのような弱者の立場でありました。彼らが見ていたのは、 確かに金と力がモノを言う世界に他ならなかったのです。
さて、《金と力がモノを言う》ということならば、主イエスの時代から二 千年を経た今日の世界もまた同じであろうと思います。去る20日(日本時 間)、アメリカとイギリスによる対イラク攻撃が開始しました。世界中の多 くの人々が反対の声を上げていました。世界中で一千万人以上の人々が反戦 集会とデモに集まり声を上げました。ドイツが反対していました。国連安保 理常任理事国の内、フランス、ロシア、中国が反対していました。にもかか わらず攻撃は開始されました。この軍事行動の是非については世界の教会に おいても見解が分かれます。私は全面的に反対です。これは絶対に起こって はならないことであったと今でも信じています。しかし、ここではイラク攻 撃の是非を論じることが目的ではありません。今日の聖書箇所との関連で注 目したいのは明らかな一つの事実です。このことが最終的に起こり得たのは、 決して事柄が《正しいか否か》ということによるのではなかった、という事 実です。
アメリカとイギリスが、国連安保理による武力行使容認決議もなしに、国 際世論を無視するような形であっても、ともかく軍事行動を起こし得たのは、 この軍事行動の正しさが明白だったからではなく、攻撃の正当性を誰も否定 できなかったからでもありません。そうではなくて、アメリカが圧倒的な軍 事力を持っているからです。力があるからです。アメリカが核を保有してい なかったら、大量破壊兵器を保有していなかったら、この武力行使はあり得 ませんでした。あるいは、アメリカが経済的に他国に大きく依存している極 めて貧しい国だったならば、このような軍事行動は、たとえ起こしたくても 起こし得ませんでした。その意味において、去る20日は、結局この世界は 金と力がモノを言う世界であることを、全世界が認めざるを得なかった日に 他なりません。
私たちは確かにそのような世界に生きております。さて、私たちはそのよ うな世界に、なお希望が持てるのでしょうか。希望をもって関わっていくこ とができるのでしょうか。このような世界の中にこれから生きていく子供た ちに、私たちはなおも希望を語ることができるでしょうか。それともキリス ト者はこの世のことは早々に諦めて、あの世のことだけ考えて生きるべきで しょうか。実際、私たちはこれまで繰り返し繰り返し、失望してきたのでは ないでしょうか。全世界が関わる大きな事から、身近な日常の小さな事に至 るまで、私たちは失望と落胆を繰り返してきたのではないでしょうか。「結 局は、力がなければだめなのか。強い者の勝ちなのか。結局、問題は、正し いか否かということではなくて、強いか弱いかということなのか…」と思い 知らされてきたのではないでしょうか。
●気を落とさずに祈り続けよ
しかし、そのような私たちにこそ、主の御言葉は語られているのです。今 日のたとえ話は何のために語られたのでしょうか。「イエスは、気を落とさ ずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを 話された」(1節)と書かれているのです。そうです、これがこのたとえ話 の目的です。主は、このたとえ話を通して私たちに言われるのです、「諦め るな!絶対に諦めるな!失望するな!落胆するな!祈り続けよ!」と。
ここに登場するやもめは、不正な裁判官のいる世界に生きています。その ような世界の中で、彼女にはお金も力もありません。しかし、彼女は諦めま せん。落胆していません。失望していません。彼女は訴え続けるのです。そ して、ついに事態が動きます。4節以下に次のように書かれているとおりで す。「裁判官は、しばらくの間は取り合おうとしなかった。しかし、その後 に考えた。『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あの やもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。さ もないと、ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目に遭わすにち がいない』」(4‐5節)。
主イエスは、神のことを語るのに、祈りのことを教えるのに、このような 不正な裁判官の話を持ち出されます。私はこのような主イエスの語り口が大 好きです。思慮深い父親の姿を描き出して、「同じように神は…」というふ うに語るのではなくて、よりによって悪代官を引っぱり出してくるのです。 なぜわざわざ不正な裁判官の話をするのでしょう。それはこの裁判官が動い たことの《意外性》を強調するために他なりません。意外な事が起こるので す。驚くべきことが起こるのです。弱い者のためになど動くはずのない裁判 官が、金のない者のために動くことなどあり得ないはずの裁判官が、ついに 動いたのです。それは人間の常識を越えています。予想もつかないような驚 くべきことが起こったのです。なぜでしょう。彼女が落胆していなかったか らです。失望してはいなかったからです。諦めなかったからです。
諦めさえしなければ、この世の悪代官にさえ、起こり得ないような事が起 こるのです。「まして神は」と主イエスは続けます。ここで主が教えている のは、単に《諦めないこと》ではありません。《諦めないで祈ること》です。 祈りは独り言ではありません。聴いていてくださる方がおられるのです。不 正な裁判官ならぬ、真の最終的な裁判官が耳を傾けてくださるのです。それ ゆえに、この世の金と力だけがモノを言うのではありません。本当の意味で モノを言われる御方がおられます。真に力ある方がモノを言われるのです。 そして、その力をもって介入されるのです。「言っておくが、神は速やかに 裁いてくださる」(8節)とはそういうことです。
諦めないところにおいて、不正な裁判官にさえ驚くべきことが起こったよ うに、ましてや神は、人間の思いを遙かに越えた、驚くべき仕方で動いてく ださるに違いありません。それが終末における神の審判ということであるな らば、もはや私たちは想像することさえできません。ただ分かっていること は、もはや神の審判の前では、最終的にこの世の金も力も口を閉ざすであろ うということです。そこでは神の御心に適っているか否か、神の御前におい て正しいか否かだけが問題になるのです。
そして、私たちは最終的な神の裁きにおいて現れる神の御心が、既にこの 歴史の中において現れたことを知っています。他ならぬこのたとえ話を語ら れた主イエス自身の上に現れたのです。考えてみてください。あの聖なる正 しい方(使徒3・14)は、この世の金と力とはまったく無縁の方でありま した。あの十字架にかかられたお姿は、この世的に見るならば、弱さの極み 以外の何ものでもありませんでした。あの十字架の上において、主イエスは 自分自身の手足すら動かすことができなかったのです!この世の力が、よっ てたかってあの御方を十字架の上に釘付けました。そして殺して墓穴の中に 放り込み、大きな石で蓋をして封印し、その周りにローマの兵士を配備した のです。まさにこの世の力は、真に正しい方を、墓の中に閉じこめることに 成功したのでした。あの時、この世界は本当の意味で、金と力がモノを言う 世界となったのです。しかし、神はそのような世界をそのままにされません でした。驚くべき仕方で介入されたのです。神はキリストを死人の中よりよ みがえらされたのです。神が決定的な仕方で動かれました。世界が大きく動 きました。歴史が大きく動きました。そして、この神が、この世界の最終的 な結論を握っておられるのです。
だから諦めてはならないのです。気を落としていてはならないのです。私 たちは、自分自身についても、この世界についても、決して見切りを付けて はなりません。私たちは主イエスに起こったことが、最終的にこの世界全体 に起こることを信じて祈り続けなくてはなりません。神の義が貫かれ、神の 愛と命のみが支配することを信じて祈り続けなくてはなりません。
主は言われました。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を 見いだすだろうか」(8節)。本当に重要なことは、この地上がどれだけ酷 い有様であるかではありません。終わりの時まで、この地上に信仰があるか 否かです。この地上に、信じて祈り続けている人々がいるか否かなのです。 私たちが向かおうとしている新しい一年、それはさらに終わりの日へと向か う一年です。主が、再臨の時まで地上に信仰が見だされることを望んでおら れることを覚えつつ、絶えず祈り続ける一年としたいと思います。