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「罪なき方の有罪判決」

2003年4月6日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ23・13‐25

 今日、私たちは、総督ピラトのもとで行われた裁判の様子をお読みしまし た。キリストの十字架刑は、この裁判の結果として執行されることになりま す。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と、私たちは使徒信条にお いて繰り返し唱えます。私たちの信仰において、この裁判の場面が決して付 随的なものではなく、本質的な重要性を持っていることが分かります。私た ちは、キリストの御受難の意味を理解するためにも、ここに起こっているこ とにしっかりと目を向けなくてはなりません。

●人間の罪が現れたピラトの法廷

 主イエスがピラトのもとで裁かれたのは、祭司長たちがピラトに訴えたか らでした。その日の夜明けに召集された最高法院において宗教裁判が行われ、 主イエスは有罪とされたのです(22・66以下)。しかし、最高法院には 主イエスを法的に死刑に処する権限がありませんでした。そこで彼らはピラ トの法廷に連れて行って訴えたのです。「この男はわが民族を惑わし、皇帝 に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分 かりました」(23・2)と。そこでピラトはユダヤ人たちの訴えを聞いて 取り調べをします。

 この裁判の記述においてまず気が付きますのは、ピラト自身が主イエスに ついて無罪を繰り返し主張しているという事実です。「わたしはこの男に何 の罪も見いだせない」(4節)。「わたしはあなたたちの前で取り調べたが、 訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった」(14節)。 「この男は死刑に当たるようなことは何もしていない」(15節)。「いっ たい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も 見つからなかった」(22節)。にもかかわらず、主イエスは、このピラト の法廷において有罪判決を受けるのです。そして、その判決を根拠として、 主は十字架にかけられることになるのです。この裁判は罪のない者が罪に定 められていくという異常な過程です。この異常な過程に参与しているのは、 祭司長たちと民衆とピラトです。彼らが当事者です。

 まず、祭司長たちですが、彼らは最高法院において主イエスを裁いて有罪 とした人々です。彼らは裁く側におり主イエスは裁かれる側におります。彼 らは自分たちの判決に確信を持っています。ここで主イエスを殺そうとして いる人々は、自分が間違ったことをしているという罪責感に苦しんでいる人 々ではありません。正しい人々です。自らが正しいという確信を持って主を 殺そうとしているのです。

 しかし、人間が自らを正しいと信じて他者を有罪とする時の、その「正し さ」しさがしばしば曲者なのです。彼らが下した判決の背後にいったい何が あったのでしょうか。主イエス逮捕の直前の事情を各福音書は異なった視点 から描いています。例えば、11章45節以下をご覧下さい。ここにはユダ ヤ人の権威者たちがイエス様を殺そうと企むようになった次第が記されてい ます。

 直接のきっかけは、死んで四日経ったラザロという男を主イエスが生き返 らせたという出来事でした。これを見た多くの人々が主イエスを信じるよう になった時、祭司長たちとファリサイ派の人々はこの事態に大きな危機感を 持ったのでした。彼らはすぐに最高法院を招集して話し合います。「この男 は多くのしるしを行なっているが、どうすればよいか。このままにしておけ ば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国 民も滅ぼしてしまうだろう」(ヨハネ11・47-48)。この「滅ぼして しまう」とは「奪ってしまう」という言葉です。つまり、こういうことです。 皆がこの男を信じてしまうと、現在の体制に少なからず混乱が生じるように なる。そうすると、ローマ人たちが介入してきて、自分たちがせっかく得て いる特権と支配権が危なくなる。そういうことを心配しているのです。つま り、彼らの語る宗教的な正義には、非常に利己的保身的な動機が伴っていた ということです。これが往々にして人間の語る正義というものの現実です。

 元の場面に戻ります。そこにはまた、「十字架につけろ」と叫び続ける民 衆がいます。「人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要 求し続けた。その声はますます強くなった」(23節)と書かれています。 彼らは十字架刑という、極めて残酷な刑を要求しているのです。目の前の生 きている人間が、木にかけられて、血を流しながら、苦しみながら、じわじ わと死んでいくことを要求しているのです。そのような人は一人ではありま せん。多くの人々が叫んでいます。彼らはことさらに残酷な人々なのでしょ うか。いいえ、そうではないでしょう。恐らくは、皆、いたって善良な市民 なのだと思います。家に帰れば良き父親、母親であるかもしれません。子供 たちを愛し、彼が健やかに成長することを心から願っている良き父親、子供 が病気になったら寝ずに看病する愛に満ちた母親であるかもしれません。あ るいは近所で評判のやさしい青年であるかもしれません。しかし、そのよう な人々が、ある特定の状況に置かれた時に、突如変わってしまうのです。人 が生きることではなくて死ぬことを強く願うようになる。そのようなことが 起こるのです。

 彼らに何が起こったのでしょう。マルコによる福音書には、「祭司長たち は、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した」(マルコ15・1 1)と書かれています。毎年、祭りの度ごとに、ピラトによる囚人の特赦が 行われていたようです。その頃、バラバという男が捕らえられていました。 「このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである 」(19節)と説明されています。人々が熱狂的にバラバの釈放を求めたと ころを見ると、このバラバは恐らく反ローマ闘争を続けていた熱心党の指導 者であったものと思われます。この「暴動と殺人」は、ローマに対する抵抗 運動の類だったのでしょう。祭司長たちは、そのバラバを使って民衆を扇動 したものと思われます。つまり、「イエスがここで釈放されたら、バラバは 処刑されて殺されることになるぞ。それでも良いのか。いったいバラバとイ エスとどちらを取るのだ。どちらの釈放を要求するのだ」ということです。 そこで彼らは叫び始めたのです。「その男を殺せ。バラバを釈放せよ」と。 そうして、彼らはやがてイエスの死を要求することにおいて一つになってい くのです。

 そして、そこにはまた、ピラトが立っています。彼はローマ帝国の権力を 体現する者としてそこにいます。彼は主イエスの無罪を宣言します。繰り返 し宣言します。しかし、自らが正しいと信じることを貫くことができません。 彼は民衆の声を恐れるのです。ユダヤ人の間において混乱が生じたら、自分 の総督としての地位が危ういと考えたのかもしれません。ヨハネによる福音 書においては、ユダヤ人たちが、イエスを釈放しようとするピラトを脅迫す る次第が記されております。彼らは言うのです。「もし、この男を釈放する なら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いていま す」(ヨハネ19・12)。そうまで言われたならば、イエスを釈放するこ とはできないでしょう。

●神の愛が現れたピラトの法廷

 さて、ここに見るように、この裁きの場面において明らかになってゆくの は、主イエスが無罪であるということです。そして、一方、本当の意味で露 わになっていくのは、むしろ主を取り巻く人間の罪なのです。裁いているの は人間の方なのですが、実に神の裁きのもとにある人間の罪深さが明らかに されていくのです。そのような裁判です。

 そこにはユダヤ人がいます。ピラトはローマ人、異邦人です。ここにはユ ダヤ人と異邦人の両者が関わっています。すなわち、全人類の罪が明らかに されております。また、ここに明らかにされているのは、一人の人間の両面 であるとも言えるでしょう。一方において人間は正しい者の側に立ちます。 正義の側に立って他者を断罪します。時として、死をさえ要求します。しか し、もう一方において、本当に正しいと信じることを為しえないという現実 があります。あのピラトに起こったことは、しばしば私たちにも起こること です。このように、普段は表面に現れていないこれらの罪が、ある特定の状 況のもとに一気に表面化します。丁度、時間を置いた泥水の上澄みがいくら きれいに見えたとしても、かき回せばもとの泥水に戻るのと同じです。

 しかし、この裁判の場面において明らかにされているのは、この世界の罪 深さ、人間の罪深さだけではありません。そこにおいて明らかにされるのは、 神の愛なのです。そこにはキリストが立っておられます。ピラトの法廷の真 ん中に立っておられます。ピラトは架空の人物ではありません。在位期間紀 元26年から36年という、歴史的な日付を持った人物です。その法廷に立 たれたキリストは、確かに歴史の中に立っておられるのです。罪に満ちたこ の世界の、まことに醜いこの歴史の中に、神の御子が立っておられるのです。 それは神が遣わされたからに他なりません。なぜなら、神はそのような罪深 い世界を、罪深い私たちを、なおも愛しておられるからです。

 そして、そこに御子が立っておられるだけではありません。ピラトの法廷 において神の御子が裁かれているのです。裁いたのはピラトです。ローマ帝 国の権力です。しかし、主はピラトに言われました。「神から与えられてい なければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」(ヨハネ19・11)。 そうです。この瞬間、ピラトに裁く権威を与えていたのは、他ならぬ神なの です。「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てら れたものだからです」(ローマ13・1)とパウロも語っているとおりです。

 神は御子を歴史の中に立たせただけでなく、神は御子を裁かれたのでした。 神は無罪であるはずの神の子を有罪とされたのです。キリストはただ十字架 にかけられて殺されたのではありません。キリストは、この有罪判決の結果 として十字架にかけられて殺されたのです。それは、本来、正しい神の裁き のもとにあって有罪を宣言されなくてはならないこの世界に代わって、神の 裁きを受けるためでありました。

 私たちは、この世界をどのように見るのでしょう。私たちの人生をどのよ うに見るのでしょう。この世界に生きるということは、しばしばとても辛い ことです。この世界の罪、他人の罪、そして自分の罪に悩みます。この世界 も、自分の人生も、いっそのこと投げ出してしまいたくなることもあるでし ょう。しかし、この世界は、御子が代わって有罪判決を受けてくださった世 界なのです。そのことを私たちは忘れてはなりません。そして、私たちは、 そのような世界に生きる者として、神の赦しと神の救いに与るようにと招か れているのであります。

 
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