説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡

「執り成したもう主」

2003年4月13日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 篠山ベテル教会牧師 服部泰樹
聖書 ルカによる福音書23:32‐43

受難週を迎えました。今朝わたしたちは、主の受難を思いつつ、二つの十 字架上の言葉に目を留めたいと願います。

● 十字架の前に立つ人々

 十字架のもとにいた人々はどのような人々だったのでしょうか。そこには まず、主を十字架につけ、衣を分け合う兵士たちがいました。彼らはその直 前、主の着ている物を剥ぎ取り、赤い外套(紫の服)を着せ、茨で編んだ冠 を頭に載せ、右手に葦の棒を持たせ、その足元にひざまずき、あるいは敬礼 し、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、主を侮辱しこの上もなく辱め、葦の 棒を取り上げて幾度も主の頭をたたき続け、唾を吐きかけた者たちです。十 字架上の主に向かって「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 (23・37)と言って罵る者たちです。

 さらには、謀略によって主を罠にはめ、何の理由もなく十字架刑に追いや った祭司長や律法学者たちがいます。主の存在を妬み、疎ましく思い、亡き 者にしようと企み、ついにそれを成し遂げた者たちがいます。「他人は救っ たのに、自分は救えない。メシヤ、イスラエルの王、今すぐ十字架から降り るがいい。それを見たら、信じてやろう。」代わる代わる主を侮辱し続ける 者たちです。

 そしてさらに、通りかかる人々も、「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、 神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」(マタイ2 7・40)。そう言ってイエスを罵る者たちです。

 また、ただ立ち尽くし、呆然と見守るしかない人々もそこにはいます。弟 子でありながら、ユダヤ人たちを恐れ、その事を隠しつつ立尽す人もいたで しょう。

● 十字架上のイエス

 「そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が 何をしているのか知らないのです』」(23・34)。

 その時です。十字架につけられたその時に、主はこの執り成しの祈りをな されたのです。

 鞭打たれ、茨の冠をかぶらされ、手に(おそらくは足にも)釘を打たれ、 肉体的にも、精神的にも、霊的にも苦痛の、激痛の只中におられたであろう 主がこの祈りをなされたのです。自分自身のためではなく、十字架のもとに 集まる全ての人々のために祈るのです。

 そこに集まっている人々こそ、十字架に追いやった人々です。そればかり か、嘲り、侮辱し、自分たちのした事・していることを誇る者たちです。主 はまさにその人々のために祈ったのです。

 いったい彼らは自分のしていることを自覚していなかったのでしょうか。 先ほど見てきましたように、そこにいる全ての人々はそれぞれ自分のしてい ることを知っています。自覚しています。

 兵士たちは、十字架刑に処され、惨めな姿をさらしているイエスなるユダ ヤ人を、蔑み、嘲笑い、唾を吐きかけその持ち物をクジで分け合っているの です。 

 祭司長、律法学者たちは、自分たちの謀略をまんまと遂行し、今や勝利に 酔い、勝ち誇って、主を嘲り、侮辱しているのです。

 民衆にしても同様、かつての希望や、期待は今や消えうせ、絶望と共に、 あるいはそれゆえの怒りにも似た思いを込め、罵って行くのです。

 主の執り成しはまさにその人々のためになされたものでした。その祈りは 彼らの心に届いたのでしょうか。その執り成しのもと、彼らは自らを省み、 悔い改めたのでしょうか。事実は何も変わりませんでした。嘲る者は嘲り、 侮辱する者は侮辱し続けるばかりです。

 ところで、主は、降りる力がなかったのでしょうか。自らを救う力がなか ったのでしょうか。主は公生涯に入られる前に誘惑を受けられました。「石 をパンにせよ、神殿の屋根から飛び降りよ、」このようなわたしたちには誘 惑にはなり得ません。なぜなら出来るはずがないからです。しかし、主にと っては違いました。誘惑となり得たのです。力あるお方がその力をどのよう に使うのか。そこに誘惑は働くのです。オリーブ山(ゲッセマネ)における 主の祈りは「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。し かし、わたしの願いではなく、御心のままに行って下さい」(22・42) でありました。明らかに、主は自分を救うことが出来なかったのではなく、 そうされなかったのです。降りることが出来なかったのではなく、降りなか ったのです。父なる神の御心をむねに、罪の贖いとして十字架を受け入れた のです。

 そのようなお方が執り成し祈りました。彼らは自分たちがしていることを 自覚していました。しかしそれは、父なる神の御心も、十字架の意味も、主 の執り成しの意味も何一つ理解できずに知らずに、主を嘲り続ける人々の姿 なのです。主の執り成しは、憐れみは、その最もふさわしくないと誰もが思 えるような人々に向かってなされたのです。主は、そこに集まる全ての人々 のために執り成されました。人々がその意味に気付こうが気付くまいが主は 必要があるから祈ったのです。主の祈りは、その関心は、全ての人々に注が れるのです。しかしそれでも、そのような主の思いな無視されます。そして おそらくは、この最も苦しい中から、ご自分を嘲り、十字架につけ、殺そう としている者たちのための祈りの言葉は、敗者の戯言、負け犬の遠吠えにし か聞こえなかったのではないでしょうか。

● 左右の罪人

 「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。『お前 はメシヤではないか。自分自身と我々を救ってみろ。』すると、もう一人の 方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、 この方は何も悪いことをしていない』」(23・39‐41)。

 聖書は、主のほかに二人の強盗が一人は右に、一人は左にそれぞれ主と共 に十字架刑に処せられたことを伝えます。その二人のやり取りの言葉です。 どうもこの罪人たちは、主のことを少なからず知っていたようです。主の働 きを見たり、聞いたりしていたのかも知れません。誰だって死ぬのはいやで す。生にしがみつきたくもなります。まして十字架刑で死ぬ事など誰も望ま ないでしょう。罪人の一人が発した言葉は理解できるように思います。今自 分の隣にいる人物は、メシヤ、偉大な預言者とうわさされ、数々の奇蹟を行 い、力あるお方と言われる人物なのです。この際なんとしても助かりたいと 思うのは当然だと思います。

 「誰一人、耳を貸そうともしない執り成しの祈りなんかより、今足もとの 奴らが言っているように、お前自身を、そして俺たちをこの窮状から救って くれ。」彼はそう叫ぶのです。

 わたしたちだって、案外同じような事を主に向かって叫んでいるのではな いでしょうか。「綺麗事など結構です。そんなことより今この窮状を救って ください。病を癒してください。貧しさから救ってください。理不尽な扱か ら、不当な扱いから救ってください。こうしてください。ああしてください。 」と今この時も主に向かって叫んでいるのではないでしょうか。「あなたが 真に神なら、わたしの願いを聞き届けてください。もし願いをかなえてくだ さるならあなたを信じます。」このような姿勢がわたしたちの内にもあるの ではないでしょうか。本当の必要に気付かず、ただ目前の窮状が好転したり、 危機が回避されることだけを求める姿が。

 ところが、ここに割って入った人物がいます。もう一人の罪人です。彼は 主を挟んでもう一方の罪人をたしなめます。彼だってもちろん助かりたかっ たに違いありません。同じように極限状態に置かれているのです。しかし、 その極限状態の中でなお彼は主の姿を見つめます。主の言葉に耳を傾けます。 そして自分の罪に向かいます。

 もはや、彼らには成すすべがありません。十字架上で死ぬしかないのです。 どんなに抗っても、どんなに後悔しても彼らの置かれた状態は変わりません。 もはや彼らの未来は閉ざされたのです。それが自分自身の行いの報いである 事も想い返します。いまさら何を取り繕ったって無意味です。にもかかわら ず、彼の思いは主の言葉に向かいます。執り成しの祈りに向かうのです。直 接的には自分に向けられたのではないとも言える主の言葉に向かうのです。

 彼はその人生最後のときに、その存在のすべてを賭けて主に願います。 「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してく ださい」(23・42)と。彼は共にいさせてくださいとは言いません。否 言えないのです。ただ思い出してくださいとしか。彼は、明らかに十字架か らの、目の前の困難からの解放ではなく、来るべき時に目を向けています。 言葉を変えるなら、十字架が取り去られることを願うのではなく、神の国、 神の支配のうちに身を置くことを願うのです。身を置くことが赦されずとも せめて記憶の片隅にでもわたしを留めてほしいと願うのです。

奇しくもここに、主の執り成しの意味をすなわち神の前に本当に必要なこ とを知らない者とそれに気付いた者の典型的な両者がいました。極限の状態 で祈る主の言葉に、同じように極限状態の中で主に向かい、目前の危機から の救いを叫ぶ者と、罪の執り成しの必要に気付いた者がそこにはいました。

● 主の答え

 「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒 に楽園にいる』と言われた」(23・43)。

主は彼の願いを聞き届けられます。それもかれの願いをはるかに越えて。 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という最善の言葉をもって。十 字架という最悪の状態が主の言葉によって最善へと移された瞬間です。罪人 たちにはもはや時間がありません。悔い改めその人生をやり直す時間があり ません。そのような絶望的な全てが閉ざされたそのような状況すら主のもと では取り払われました。主の言葉は、一人の罪人のその願いが確かに聞き届 けられたことを示すのです。

 しかし、彼の置かれた状況は何一つ変わりませんでした。十字架刑によっ てその生涯を閉じたのです。主の執り成しの祈りも、約束の言葉も、時の流 れの中に虚しく潰えてたように思えます。その場に居合せて、そのやり取り を見聞きした者たちにとっては死に行く者への最後の配慮程度にしか、おそ らくは虚しいやり取りにしか見えなかったであろうと思います。

 その場に居合わせた者たちにとっての事実は、それらのやり取りがどうで あれ、主は死に、そして罪人たちも死んでいったということでありましょう。 人々は去り、主は墓に葬られました。全ては絶望のうちに、歴史の中に埋も れていったかのようです。

 しかし、状況は一変します。それは主の復活によってです。虚しく十字架 の前に消し去られたように思えた、執り成しの祈り・約束の言葉は、決して 絶望に埋もれてしまうことはなかったのです。最も愚かで、力のないと思わ れた主の祈りが、言葉が、約束が、世の全ての現実を越えて、時間も、空間 も、絶望も全てを越えて光り輝く瞬間がそこにはあります。わたしたちは主 の復活と共に、この罪人の姿を天に見ます。全ての希望をそこに見るのです。

 かつて十字架上で主がなされた出来事は、その祈りと、言葉と、約束は、 主の死と復活を通し、時間を超えて今わたしたちに迫ります。光り輝く命の 言葉として、真実の言葉として迫ります。

 だからこそ、わたしたちはその目を十字架に向けなければなりません。執 り成したもう主の姿に、その言葉に目と、耳と、心を向けなければなりませ ん。主が命をかけて執り成す姿がそこにはあるからです。そして、わたした ちは、その主の御前に今日を生きるのです。今この時も執り成したもう主の 言葉と、約束の中を。

 
説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡