「復活のイエスが共に」                         ルカ24・13‐35 ●エルサレムからエマオへ  「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れ たエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合 っていた」(ルカ24・13‐14)。  「ちょうどこの日」――それは主イエスが十字架にかけられ殺されて三日 目のことでした。歩いていたのは二人の弟子、主イエスの弟子です。愛する 師を失って三日目。死別の悲しみ。心にぽっかりと空いた穴。その魂が抜け てしまったような喪失感を、誰であれ愛する者を失った人ならば、想像する ことができるでしょう。  彼らはエルサレムから離れて歩いていきます。もうエルサレムなどに用は ありません。一週間前には、こんな風にエルサレムを去ることなど、考えも 及ばなかったに違いありません。  あの日、丁度一週間前のあの日曜日、オリーブ山からエルサレムへと向か う道は、人々の熱狂と興奮で沸き返っておりました。主イエスがロバにのっ てエルサレムへと向かっていたからです。人々は自分の服を道に敷いて迎え ました。夥しい群衆と弟子の群れは、声高らかに神を賛美しています。「主 の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高き ところには栄光」と。それはまさに、王の入城でありました。偉大なる預言 者であり王である御方、イスラエルの待ち望んでいたメシアが、エルサレム に入城されたのです。《この方こそ、異邦人の支配からイスラエルを解放し てくださる御方であるに違いない。この御方がエルサレムに到来することに よって、ついに神の国が現れるのだ。新しい時が始まるのだ。何もかもが変 わる。すべてが変わるのだ!》そのように熱狂して主イエスと共にエルサレ ムに入城した人々の中に、これらの弟子たちもいたのです。  わずか一週間前の出来事です。しかし、今や、すべては過ぎ去ってしまい ました。熱狂が過ぎ去ってしまえば残るのは虚しさだけです。《あれはいっ たい何だったのだろう。あの興奮はいったい何だったのだろう。》いずれに せよ、もうそれはどうでも良い過去のことでした。主イエスは死んでしまっ たのです。彼らはエルサレムを去っていきます。すべてが過ぎ去った今、エ ルサレムなどに、もう用はありませんでした。  彼らは、これらの出来事について語り合いながら、エマオに向かって歩い ていきます。語り合ってみたところで、時間が逆戻りするわけではありませ ん。語れば語るほど、無念と後悔が募ります。あのユダが裏切りさえしなけ れば。あのゲッセマネにいた弟子たちが、主イエスを守り得てさえいたなら ば。しかし、それは彼らとて同罪です。弟子という弟子は皆、主イエスを見 捨てて逃げ出したのですから。悔やんでも悔やみきれません。彼らは残る人 生、自分を責め続けて生きていくしかありません。  愛する者を失った喪失感。大きな期待が脆くも崩れ去った後の虚無感。そ して、心を責め苛み続ける罪責感。そして、何をも為しえなかった自分自身 の無力感。私たちにも覚えがあります。彼らの姿は、しばしば私たちの姿で もあります。聖書は私たちの苦悩を知っています。エルサレムからエマオへ と向かう彼らのように、暗い顔をして人生の道のりをとぼとぼと歩いていく 私たちの姿を知っています。  しかし、聖書の中にただ私たち自身の姿を見ることができるだけならば、 あえてこの書を読む理由はないでしょう。そこに私たちの救いがあるとは思 えないからです。しかし、聖書は人間について語るだけでなく、神について 語っている書物です。聖書はキリストを指し示しているのです。そして、キ リストとの関わりにおいて、私たちにいったい何が起こり得るのかを伝えて いるのです。エルサレムを離れてとぼとぼとエマオへと向かっていた彼らに 何が起こったのでしょう。それをさらに御一緒に見ていきましょう。 ●復活のイエスが共に  15節には次のように書かれています。「話し合い論じ合っていると、イ エス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」(15節)。  キリストが静かに近づいて来られました。そして、主が共に歩まれました。 彼らは暗い顔をしてエルサレムを離れエマオへと歩き続けます。主は彼らに 現れて、彼らの前に立ちはだかったのではありません。主は彼らの歩みを否 定されません。エルサレムへ帰れとも言われません。主は彼らと同じ方向に、 共に歩いて行かれたのです。  彼らはその御方が復活されたキリストであることに気づきません。なぜで しょう。ただ「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」と だけ説明されています。これは31節の「二人の目が開け、イエスだと分か った」という言葉と対応しています。要するに、復活のキリストが共に歩ん でくださるということは、彼らにとって決して自明のことではなかった、と いうことです。もちろん、私たちにとっても自明のことではありません。そ れは神によって初めて理解できるこであり、まさにそれは「目が開かれる」 という神の恵みの御業に他ならないということです。  いずれにせよ、私たちが分かった時に、初めてキリストの働きかけが始ま るのではありません。彼らは気づかずして、既にキリストと共に歩いている のです。ここにはキリストと彼らとの関わりにおいて、特に重要な二つのこ とが記されております。  その第一は、キリストが聖書を解き明かしてくださったということです。 25節以下に次のように記されております。「『ああ、物分かりが悪く、心 が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこう いう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モー セとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれ ていることを説明された」(25‐27節)。  彼らはキリストが十字架にかけられたことを知っていました。どれくらい 知っていたでしょうか。キリスト御自身に説明してあげられるほど、彼らは 良く知っていたのです。そして、彼らはキリストの復活についても耳にして いました。仲間の婦人たちから、墓が空になっていたことと、天使たちから 「イエスは生きておられる」と告げられたことについては、既に聞いている のです。しかし、救い主であるはずのキリストが無惨にも十字架にかけられ て死んでしまったことは、まさに不条理極まりないことでしかありませんで した。そして、殺され葬られて三日も経ったキリストが、復活して生きてお られるというメッセージは、それ以上に混乱をもたらす、理解不能なことで しかなかったのです。その意味するところは、出来事そのものに目を向けて いても理解され得ませんでした。その出来事は、聖書全体からの解き明かし によって初めて理解され得ることだからです。その解き明かしを、キリスト がしてくださったのでした。それがここに起こっている第一のことです。  第二は、キリストが共に食事をしてくださったことです。30節に次のよ うに書かれております。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取 り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(30節)。  一行が目指すエマオの村に近づいた時、キリストはなおも先へ行こうとし ておられました。彼らは「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりま すし、もう日も傾いていますから」と言って引き留めます。キリストは共に 泊まるために家に入られました。しかし、ここで不思議なことが起こります。 客として入られたキリストが、食卓の主人として振る舞われたのです。主は パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになりました。丁度、 あの《最後の晩餐》で起こったことが、その小さなテーブルにおいても起こ りました。すると、突然、二人の目が開けたのです。彼らはそこで二つのこ とに気づきます。  一つは、同じ食卓に主イエスが着いておられるということです。そして、 ここまで復活のキリストが共に歩んできてくださったのだ、ということに気 づいたのです。しかし、そこには大変奇妙なことが書かれています。「する と二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(3 1節)と書かれているのです。目が開け、「見えるようになった」のではあ りません。要するに、主が目に見える姿で共にいるかどうかは、本当は重要 ではないということでしょう。重要なことは、ここまで主イエスが共に歩ん でくださっていたのだという事実に気づいたということです。彼らが気づく 前から主が共におられたことに気づいた、ということです。  そして、彼らはもう一つのことに気づきます。彼らはもはや喪失感、虚無 感、罪責感、無力感を抱え、暗い顔をしてエマオに向かっていたあの時の二 人ではない、ということです。気づいてみると、エルサレムを発った時の、 あの冷え切った心ではなくて、彼らの内には燃える心があるのです。屍のよ うであった彼らの内に、いつしか命の火が燃え始めているのです。彼らは言 います。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、 わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。  その炎は、彼らがかつて興奮し熱狂していた時に燃えていた炎とは違いま す。その炎は消えてしまいました。相変わらずイスラエルはローマの支配下 にあります。依然として解放されてはおりません。見たところ何一つ変わっ てはおりません。しかし、今や彼らは、復活のキリストが伴ってくださった こと、これからも伴ってくださることを知ったのです。そのキリストによっ て命の炎を内に頂いたのです。だから、彼らはエルサレムに帰っていくので す。希望のかけらもなかったあのエルサレムに帰っていくのです。復活のキ リストを証しするために。  聖書は、私たちに何が起こり得るのかを語ります。ここに書かれているこ とは、あの二人の弟子だけの、特殊な経験ではありません。教会が今日に至 るまで、繰り返し経験してきたことなのです。聖書が解き明かされ、十字架 と復活の意味が明らかにされます。聖餐においてパンが分けられる時、復活 のキリストが今までも、そしてこれからも、共にいてくださることが示され ます。命の火が燃え始め、そして大きく燃え上がります。これらの出来事の 背後に、復活のキリストがおられるのです。そして、命の炎をいただいた者 として、私たちは再び帰っていくのです。彼らがエルサレムへ帰っていった ように、私たちもまた帰っていくのです。見たところは依然として罪と死が 支配しているように見えるこの世界に、大きな望みを抱きつつ、帰っていく のです。復活のキリストの証人として!