「体のよみがえり」
2003年4月27日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ24・36‐49
旧約聖書のある詩人は、人の一生を次のように表現しました。「朝が来れ ば花を咲かせ、やがてうつろい、夕べにはしおれ、枯れていきます」(詩編 90・6)。確かに、私たちは生まれ、ある限られた日数を生き、そして必 ず死にます。ある人は長く生き、ある人は短く生き、いずれにせよ必ず死に ます。彼はまた言います。「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人 が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は 過ぎ、わたしたちは飛び去ります」(同10節)と。そのような人生の途上 において、人は幾度自らに問いかけることでしょう。果たして私の一生に意 味はあるのか、と。
人が何かを一生懸命に積み上げている時、そのような問いは無縁であるか もしれません。しかし、積み上げたものは崩れるものです。そして、再び積 み上げ、また崩れます。人の一生は、ある意味でその繰り返しです。そして、 やがてその視界に、《死》という避けがたい現実が否応なしに飛び込んでき ます時、内側においてある決定的な崩壊が起こります。何かが音を立てて崩 れていきます。その時に、人は皆、やはり自らに問わざるを得ないでしょう。 果たして私の一生に意味はあるのか、と。
しかし、そのように問わざるを得ない私たちに、神から与えられている信 仰の言葉があります。それは、私たちが使徒信条を唱える時、しばしば戸惑 いつつ口にする「我は体のよみがえりを信ず」という言葉です。今日、私た ちは、毎週口にしているその言葉について、思いを巡らしたいと思います。
●体のよみがえりを信ず
ところで、先ほど、「戸惑いつつ」と申しました。そうではありませんで しょうか。これが「我は霊魂の不滅を信ず」という言葉なら、どんなに口に しやすいことでしょう。葬式において、亡くなった人に向かって弔辞を語る 人がいます。その人は、たとえ口にせずともその心の中でこう言っているの です。「我は霊魂の不滅を信ず」と。そのような人は決して少なくありませ ん。
実は、その点に関しては、初代教会の置かれていたギリシア・ローマ世界 においても、事情は少しも変わりませんでした。霊魂が人間の本質であり、 善なるものであり、不死であり不滅であるということは、多くの人々にとっ て、極めて自明のことだったのです。しかし、そのような人々の間で、なお 教会は「我は霊魂の不滅を信ず」ではなくて、「我は体のよみがえりを信ず 」という言葉をもって信仰を言い表してきたのです。人々が抵抗を覚えよう と、戸惑いを覚えようと、そう語り続けて今日に至っているのです。なぜで しょう。それは、この両者の意味することが、決定的に異なるからです。 「体のよみがえり」という言葉でなければ、表現することのできない信仰の 内容があるのです。
「我は体のよみがえりを信ず」と言う場合、その「体」とは何でしょうか。 それは、他ならぬ、それぞれ固有の人生を生きてきた、この「体」に他なり ません。「私の一生に意味はあるのか」と問うている、その一生を生きてい る「体」のことであります。他ならぬその体が復活するのです。正確に言う ならば、神によって復活させられるのです。それは何を意味するのでしょう。 この体をもって生きたその一生を、神が徹底的に肯定してくださるというこ とを意味するのです。その一生に価値を認め、その一生に神が報いてくださ るということです。
確かに体の復活は不可解です。復活した体が正確にどのような状態である か定かではありません。「死んだ者がどんなふうに復活するのか」という問 いに対して、パウロが言葉を尽くして説明してはいるものの(1コリント1 5・35以下)、はっきり言って良く分かりません。しかし、それでもなお 次のことは言い得るでしょう。神が体を復活させるとするならば、その体は 神にとって決して無意味なものではあり得ない。従って、その体をもって生 きた一生もまた、神の御前に無意味なものではあり得ない、ということです。
●キリストの体の復活
さて、そのような「体のよみがえりを信ず」という信仰を、教会はどこか ら得たのでしょうか。それは言うまでもなく、イエス・キリストの復活から です。復活したキリストが、弟子たちに現れたからです。キリストの復活な くして、弟子たちの復活信仰などあり得なかったし、もちろん私たちの復活 の希望など、あろうはずがありません。その事情を伝えているのが、今日の 聖書箇所であります。
注目すべきは、38節以下の主イエスの言葉です。「なぜ、うろたえてい るのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさ しくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがた に見えるとおり、わたしにはそれがある」(38‐39節)。
明らかに強調点は、キリストの復活が「体のよみがえり」だったことにあ ります。主イエスは死んでも霊魂は生き続けた、ということではないのです。 「亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれが ある」と主は言われました。その言葉がどれほど奇妙に聞こえようと、キリ ストの体のよみがえりを伝えるために、それが聖書にあえて記されているの です。
そこで重要なのは、その直前の「まさしくわたしだ」という言葉です。復 活して現れたのは、「まさしくわたし」、すなわち彼らが知っている生前の イエスと同じイエスです。しかも、そのことを示すために、主はこう言われ るのです。「わたしの手や足を見なさい」と。
私たちなら、普通このようなことは言いません。自分であることを示すの には、「わたしの顔を見なさい」と言うでしょう。手や足は誰のものであっ ても、それほど違わないからです。しかし、主イエスは「手や足を見なさい 」と言われました。主イエスの手や足は他の人とは違うからです。そこには 釘の跡があるのです。それは十字架上で死んだしるしです。つまり、キリス トの体のよみがえりは、《十字架で死んだ体》のよみがえりなのです。十字 架で終わった生涯を生きた体のよみがえりなのです。
考えても見てください。もし本当にこの一生の終わりが十字架であり、そ れが全てであるならば、それこそ「この人の一生には何か意味があるのか」 と問わざるを得ないではありませんか。この方は人々を愛して生きました。 愛し抜いて生きました。しかし、結局愛は負けました。この世の力に負けま した。罪の力に負けました。結局は何も変わりませんでした。あの十字架の 死は敗北の死以外の何ものでもありませんでした。敗北の死によって全ては 無に帰しました。もし、それが全てなら、いったいいかなる意味を、その一 生に見いだすことができるでしょう。
しかし、十字架の死は終わりではなかったのです。神はこのイエスを、十 字架で死んだその体を、復活させ給うたのです。いわば、その体を復活させ ることによって、その体が生きた一生をも、無に帰したはずの一生をも、復 活させ給うたのです。神はあの御方の一生を、徹底的に肯定されたのです。 その一生を真に意味あるものとして、神御自身が報いてくださったのです。 このキリストの体の復活こそ、私たちが体のよみがえりを信じる信仰の土台 なのです。
●イエスのわざに貼られた証印
しかしここで、なお一つのことが語られねばなりません。というのも、キ リストの復活と私たちの復活は、単純に結びつかないからです。なぜでしょ うか。キリストと私たちは違うからです。決定的な違いは、キリストには罪 がなかったけれど、私たちは罪人であるという事実です。キリストは神への 完全なる従順をもって生きられた御方であるけれど、私たちはしばしば心に おいても行いにおいても神に背いて生きてきた者だ、ということです。神が キリストを復活させたからと言って、どうして神が罪人である私たちをも復 活させてくださると言えるでしょう。
先ほど、神が私たちの一生に報いてくださるのだ、ということを言いまし た。しかし、「神が報いてくださる」という言葉は、決して単純ではありま せん。もし、罪ある私たちの一生に、神が正しく「報いてくださる」ならば どうなるでしょう。むしろ、それは私たちにとって、裁きと滅びしか意味し ないのではないでしょうか。このように、キリストの復活は、単純に私たち の復活の希望と結びつかないのです。
しかし、私たちはここでもう一度、キリストの復活が十字架にかけられて 死んだ体の復活であったことを思い起こさねばなりません。キリストは復活 して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」と言われたのです。 十字架の釘の跡を示して、「まさしくわたしだ」と言われたのです。あの十 字架の死は、ただ単にこの世のもろもろの死を指し示しているだけではあり ません。あの十字架の死は、私たちの罪を贖うための死であり、苦難のメシ アの死に他ならないのです。
罪を贖うために私たちに代わって死んだ御方の体を、あの釘の跡と共に、 神は復活させられたのです。神はメシアの生涯と贖罪の死を徹底的に肯定さ れたのです。完全に受け入れてくださったのです。ある英国の神学者は、こ のことを次のように表現しています。「キリスト者にとって、復活は十字架 におけるイエスのわざに貼られた神の証印なのである」と。このように、キ リストの体の復活が示しているのは、キリストによる罪の贖いの御業が完全 に《有効》である、という事実なのです。
それゆえに、キリストは聖書を悟らせるために弟子たちの心の目を開いて、 次のように語られたのでした。「次のように書いてある。『メシアは苦しみ を受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改 めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と」(46‐4 7節)。キリストの十字架と復活こそ、「罪の赦しを得させる悔い改め」の 根拠です。そして、そのように与えられる「罪の赦し」こそ、私たちが体の 復活を最終的な希望とする根拠なのです。ですから、私たちは使徒信条にお いても、ただ「我は体のよみがえりを信ず」とだけ言うのではなく、「我は 罪の赦し、体のよみがえり、とこしえの命を信ず」と言うのです。
私たちに罪の赦しが与えられるなら、もはや私たちはこの体をもって生き るこの一生について、「果たして私の一生に意味はあるのか」と自らに問う 必要はありません。神はこの体を復活させてくださいます。そして、この体 をもって生きたこの一生もまた生きるのです。それが人の目にどのように映 ろうとも、たとえ「得るところは労苦と災いにすぎません」というような一 生であっても、その一生は神の御前において、真に意味あるものとされるの です。