「主を畏れることは知識の初め」
2003年5月4日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 箴言1・1‐19
五月と六月は礼拝において箴言を開きます。その第一回目の今日、特に注 目したいのは1章7節の言葉です。「主を畏れることは知恵の初め。無知な 者は知恵をも諭しをも侮る」(1・7)。これは箴言全体につけられた標語 であります。
●知恵と愚かさ
この「箴言」は、知恵文学というジャンルに含まれます。他にこれに入る ものは、旧約聖書においては、「ヨブ記」と「コヘレトの言葉」です。旧約 続編の「知恵の書」「シラ書」もこれに当たります。
知恵文学の一つの特徴は、世界の秩序というものに目を向けていることに あります。世界に秩序があり、そこに経験によって知り得る法則がある。な らば、当然そこにおいて、世界の秩序に則した賢い生き方、また逆に世界の 秩序に反した愚かな生き方という二通りの生き方が生じてきます。
その賢い生き方をもたらすのが、ここで「知恵」と呼ばれているものです。 この知恵は、当然のことながら、個人にも共同体にも命をもたらすものとな ります。一方、愚か者は、世界の秩序に反して生きるため、その必然的帰結 として、自らに滅びを招きます。例えば、この章の18節、19節に語られ ているようにです。このような見方は、何もイスラエルの伝統の中に固有の ものではありません。古代オリエント諸国に共通の考え方でありました。で すから、私たちにも、ある程度、抵抗なく入ってきます。特に信仰のことを 考えなくても、箴言に出てくる多くの言葉はよく理解できますし、馴染み深 い考え方も見られます。
さて、このように賢い人、愚かな人を考えます時に、すぐ思い至りますこ とは、それは必ずしも知識の量とは関係がないということです。古代社会の 情報量と現代社会の情報量は比べ物になりませんが、必ずしも現代人の方が 賢く生きているわけではありません。受験戦争を勝ち抜くために、多くの知 識を頭に詰め込んで子供たちは受験に臨みますが、そのことで子供たちが本 当に賢く生きられるようになるかどうかはまた別の話です。いや、むしろま ことに愚かなことを行って逮捕され、新聞沙汰になっているのは、知識を教 える側の教師であったりいたします。この世の中に、知識豊富な愚か者は、 決して少なくありません。
では、何が人を愚か者にするのでしょう。先ほど読みました7節の後半に は次のように書かれております。「無知な者は知恵をも諭しをも侮る」。こ の「無知な者」という訳は誤解を招くかもしれません。これは「愚か者」と いうことなのです。決して知識の欠如を言っているのではありません。ここ で問題になっているのは、知らないことではなくて、侮っていることなので す。知恵と諭しを侮っていることなのです。「諭し」とは指導や訓練のこと です。ある場合には懲らしめをも意味します。愚かな人はどうして愚かにな るのか。それは人間が従うべきこの世界の秩序を知ろうともしない、そのよ うに生きるための教育や訓練をも受けようとしないからだと言うのです。そ れらを侮るからなのです。
先ほど、この知恵文学の見方は、必ずしもイスラエルに固有のことではあ りませんと申しました。しかし、聖書の知恵文学にはイスラエルに固有の事 柄もあります。それは、この世界の秩序の背後に、生ける神の支配を見てい ることです。ですから、究極的には知恵も諭しも神からのものであると理解 され得ます。「知恵や諭しを侮る」ということは、神の支配を侮ることでも あるのです。
ですから、7節の前半部分には「主を畏れることは知恵の初め」と書かれ ていて、後半部分と対比される形になっているのです。この「知恵」は「知 識」という意味の言葉です。どんなに知識を得たとしても、その最初の部分、 その最も基本的な部分に、「主を畏れる」ということがなければ、それは決 して本当の意味で知恵ある賢い生き方と結びつかないということであります。
●主を畏れるとは
では、主を「畏れる」とは、いったい何を意味しているのでしょう。まず は単純に「恐怖を感じる」ことであると言えるでしょう。ここでわざわざ 「畏れる」という漢字が使われていますが、もともと原語において特別な言 葉が使われているわけではありません。この言葉は、単純に人々が恐怖を感 じる時にも使われます。例えば、エジプトを脱出したイスラエル人にエジプ ト軍が追い迫った時、人々が恐怖を感じたようにです(出14・10)。
ですから、「主を畏れる」とは、主を恐ろしく思うことです。主は罪を憎 まれます。主は悪を憎まれます。主は正しく裁かれる御方です。主は世を裁 く権威と力を持っておられます。人間が何をなそうと、それに対して何も為 しえない木偶の坊(でくのぼう)であるならば、恐れる必要はありません。 しかし、そうではない生ける神に対して抱く感情として、ある種の恐怖を感 じるということは、至極当然のことであります。言い換えるならば、「主を 畏れる」とは、主が正しく裁かれる御方であることを真剣に受け止めること であるとも言えるでしょう。
しかし、ある人は言うかもしれません。「それは旧約聖書の話ではありま せんか。新約聖書において、イエスが示された神は裁きの神ではなく愛の神 ですよ。またキリストによって罪の赦しが成就した今、裁きを考えて恐れる のは間違っていますよ」。さて、本当にそうでしょうか。主イエスは誰を恐 れなさいと言われましたか。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者ど もを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい 」(マタイ10・28)と言われたではありませんか。初代教会において、 アナニアとサフィラが神に打たれて死んだ時のことを、聖書は何と伝えてい るでしょう。「教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた」(使徒5・ 11)と書かれているではありませんか。パウロは、異邦人キリスト者に対 して、何と書いているでしょう。「思い上がってはなりません。むしろ恐れ なさい」(ローマ11・20)と書いているではありませんか。このように、 神が正しく裁かれる方であることを考えて恐ろしく思うことは、極めて重要 なことなのです。
しかし、「恐ろしく思う」ことが全てではありません。ですから、わざわ ざ「畏れる」という漢字が使われているのです。そしてまた、ここには 「《主を》畏れることは」と書かれております。「主」とは神の名前です。 もともとは「ヤハウェ」と発音したのだろうと学者は言います。定かなこと は分かりません。いずれにせよ、「主」と訳されているこの名前は、イスラ エルの歴史におけるある特定の出来事と結びついています。それは出エジプ トです。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から 導き出した神である」(出20・2)と言われるのが、この「主」と呼ばれ る御方なのです。「主」は、決して一般化され得ない神であります。その御 方は愛してくださった神であり、救ってくださった神であり、また「憐れみ 深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい」(詩編103・8)神なの です。
そのような神の愛に対する正しい応答は神を愛することです。それゆえに、 愛して救って下さった神に対して、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力 を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6・5)と命じられて いるのです。このように、主に対する正しいあり方は、ただ恐ろしく思うこ とだけではありません。愛することです。「主を畏れる」とは、主を愛し、 信頼し、敬うことでもあるのです。
私はこのことを考えながら、かつて読んだマルチン・ルーサー・キング牧 師の説教の言葉を思い出しました。「…われわれの神の偉大さは、意思が強 固であるとともに、心やさしい方である点にある。また神は、厳格さと温和 さという両方の性質を持っておられる。聖書は、神のこの二つの性質を常に はっきり強調して、神の正義と怒りに現れた強固な意志ならびに神の愛と恵 みに示されたやさしい心を物語っている。神は、二本の腕を広げておられる。 一方の腕は、非常に強力で、正義をもってわれわれを取り囲み、もう一方の 腕は、恵み深くわれわれを抱擁する。神は一方では、イスラエルをそのわが ままな行いのために罰し給うた正義の神であり、他方では、放蕩息子がもど った時、いいようのないほどの喜びで胸がいっぱいになった寛大な父親でい 給う」。
これまで申し上げてきたことを、キング牧師の言葉を借りて言い換えるな らば、まさに、「神のこの二つの性質」を真剣に受け止めつつ主の御前に生 きること、それが「主を畏れる」ことであると言えるでしょう。そのように 「主を畏れること」こそ、知識の初めなのです。
●どのようにして主を畏れる者となるのか
では、どのようにして、人は主を畏れる者となるのでしょう。8節には次 のように書かれています。「わが子よ、父の諭しに聞き従え。母の教えをお ろそかにするな」(8節)。まず大事なのは、主への畏れが自然に生じるの ではないと認識することです。一般的な恐怖は、人間の弱さから自然に生じ ます。しかし、主への畏れは、教えられ、諭され、指導され、訓練されるべ きものです。また二章には次のように書かれています。「わが子よ、わたし の言葉を受け入れ、戒めを大切にして、知恵に耳を傾け、英知に心を向ける なら、分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら、銀を求めるように それを尋ね、宝物を求めるようにそれを捜すなら、あなたは主を畏れること を悟り、神を知ることに到達するであろう」(2・1‐5)。主を畏れるこ とは、一心に求めるところにおいて与えられるのです。
その学びの場は、8節の言葉が示していますように、まずは家庭です。親 は主を畏れることを子供に教えねばなりません。子供は家庭において、主を 畏れることを身につけねばなりません。確かに、知恵も諭しも源は主御自身 ですが、それは直接与えられるわけではなく、人間を通して、その言葉と存 在を通して与えられるのです。「あなたの父母を敬え」という十戒の第五戒 の大きな意味もそこにあります。さらに私たちは、信仰の家族であり共同体 である教会を考えることもできるでしょう。神の家において身につけるべき ことは真に主を畏れて生きる生活です。
そして、家庭にせよ、教会にせよ、共に目を向けるべきところは、キリス トです。キリストにおいて、神がこの歴史の中に、御自身を完全に現された からです。キリストこそ、まさに神の知恵そのものなのです。この御方にお いて、罪を憎み給う神の怒りと、罪を赦し給う神の恵みが完全に現されまし た。それゆえに、この御方を知ることによって、私たちは真に主を畏れる者 とせられるのです。