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「知恵の声」

2003年5月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 箴言8・22‐36

 愚か者になることを望む人はいません。誰でも愚かに生きるよりは賢く生 きたいと願っていることでしょう。賢く生きるためには知恵が必要です。し かし、知恵を得るためには、本当に必要とされている知恵がなんであるかを 知らねばなりません。聖書は、知恵について何と語っているでしょうか。今 日の箇所で、私たちは、「わたしは知恵。熟慮と共に住まい、知識と慎重さ を備えている」(12節)と語る声を耳にします。私たちが知恵を得るため には、この知恵の声に耳を傾けねばなりません。

●わたしは知恵

 初めに、22節から26節までを御覧ください。ここには、知恵が天地創 造の前に存在していたこと、が語られております。

22      主は、その道の初めにわたしを造られた。
         いにしえの御業になお、先立って。
23      永遠の昔、わたしは祝別されていた。
         太初、大地に先立って。
24      わたしは生み出されていた
        深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき。
25      山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが
         わたしは生み出されていた。
26      大地も野も、地上の最初の塵も
         まだ造られていなかった。

 知恵は主によって「造られた」と書かれています。「造られた」とは「得 られた」とも訳される言葉です。後で「生み出されていた」とありますから、 必ずしも、神によって「創造された」という意味ではありません。いずれに せよ、万物の創造に先立って、知恵は先在していたのです。「いにしえの御 業になお、先立って」と書かれているとおりです。つまり、その知恵とは、 万物の創造に関わっている神の知恵に他ならないのです。

 この世界の創造に、神の知恵が関わっているという認識は、この世界を見 つめる人々に共通した、素朴な認識だったのだろうと思います。例えば、詩 編104編では、詩人が、「主よ、御業はいかにおびただしいことか。あな たはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ち ている」(詩104・24)と、驚嘆の声を上げています。この箴言を記し た人々もまた、この創造の世界を見る時に、それに先立った神の知恵があっ たことを認めずにはおれなかったのでしょう。

 そして、知恵が生み出された時、先立って何もなかったことが強調されて います。そこには「地上の最初の塵も、また造られていなかった」と書かれ ています。創世記に記されている創造物語には、「主なる神は、土の塵で人 を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」(創2・7)とあります。 しかし、神の知恵は、その塵すら存在しない時に、すでにそこにあったので す。当然のことながら、知恵は人が生み出したのではなく、人が創造された 時に、既に先にそこに存在していたのです。

 知恵は人を介して伝えられます。この箴言という書の意図もまた、「これ は知恵と諭しをわきまえ、分別ある言葉を理解するため、云々」(1・2) と書かれております。知恵は人が与え、人が受け取ります。しかし、それは 人が生み出したのではありません。人は何も生み出してはいません。人は最 初からある、もともと存在する、天地創造の前から存在する、神の知恵を受 け取っているに過ぎないのです。その事実への畏れを失ってはなりません。 人は知恵に関わるにあたり、まず主を畏れ、主の前に謙らねばならないので す。

 次に、27節から29節までを御覧ください。ここには、知恵が混沌を限 界づけ、秩序をもたらしたこと、が語られております。

27      わたしはそこにいた
         主が天をその位置に備え
         深淵の面に輪を描いて境界とされたとき
28      主が上から雲に力をもたせ
         深淵の源に勢いを与えられたとき
29      この原始の海に境界を定め
         水が岸を越えないようにし
         大地の基を定められたとき。

 ここに出てきます「深淵」や「海」は混沌を表す象徴的存在です。しかし、 神がその知恵をもって、その深淵に境界を与え、原始の海に境界を与えて、 無秩序の中に秩序を生み出されたのです。ここに書かれていることは、創世 記において、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を 動いていた」(創1・1)という状態に対して、神が「光あれ」と命じられ、 さらに光と闇を分けられた、という記述に相当します。創世記においても、 天地創造とは、混沌の中に秩序が生み出される過程として描かれています。 箴言は、特にそこに、創造に先立って生み出された神の知恵が働いていたこ とを記しているのです。

 先ほど、「この世界の創造に、神の知恵が関わっているという認識は、こ の世界を見つめる人々に共通した素朴な認識だったのだろう」と申しました。 さらに言いますならば、人々は、特にこの創造世界の《秩序》というものに、 神の知恵を見たのだろうと思います。そして、これは非常に大切な認識です。 なぜなら、それは根本的には、人間の知恵がこの世界に秩序をもたらしてい るのではないことを意味するからです。

 時として、私たちは、混沌の海に境界線を引いたのは人間であるかのよう に、傲慢に考えているものです。人間が何とかして保たなかったら、世界は 混沌に帰してしまうかのように、私たち自身が何とかして保たなかったら、 私たちの人生は崩壊して混沌に帰してしまうかのように考えているのです。 しかし、そうではないのです。この世界に秩序を与えたのは、人間がまだ存 在していなかったときに、既にそこにあった神の知恵なのです。世界にして も、人生にしても、綻びが現れ、無秩序へと向かってしまうのは、私たちが 保たないからではありません。むしろ、私たちが自らの知恵をもって秩序を 保てるかのように考えるからです。そうして、もともと秩序を与えた神を拒 否し、神の知恵を拒否するからなのです。

 第三に、30節から31節までを御覧ください。ここには、知恵が主を喜 ばせると共に、人間の喜びとなること、が記されております。

30      御もとにあって、わたしは巧みな者となり
         日々、主を楽しませる者となって
         絶えず主の御前で楽を奏し
31      主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し
         人の子らと共に楽しむ。

 知恵は「巧みな者」となったと書かれています。これは技術者です。出エ ジプト記に、ベツァルエルとオホリアブという、聖所建設にたずさわった技 術者たちが出てきます。「主は、彼(ベツァルエル)とダン族のアヒサマク の子オホリアブに、知恵の心を満たして、すべての工芸に従事させ、彫刻師、 意匠を考案する者、更に、青、紫、緋色の毛糸、亜麻糸を使ってつづれ織や 縁取りをする者など、あらゆる種類の工芸に従事する者とし、意匠を考案す る者とされた」(出35・34‐35)。恐らく、ここで万物の創造にたず さわっている神の知恵も、そのようなイメージで語られているのでしょう。

 しかし、そこに想定されているのは、喜びのない労働ではありません。そ の知恵はもう一方において、日々、主を楽しませる存在として語られている のです。「楽を奏し」は意訳で、「遊ぶ」「笑う」というような言葉です。 その言葉をもって、喜びや楽しみを表現しているのでしょう。

 そして、ここで初めて「人の子ら」が出てきます。私たち人間のことです。 知恵と共にあって、人間もまた喜び楽しむのです。聖書はこの地上における 人間の喜びや楽しみを否定しません。私たちは神がその知恵をもって創造さ れたこの世界を楽しんだら良いのです。この神の世界に生きるこの人生を、 大いに喜び楽しんだらよいのです。しかし、そこで大事なことは、どのよう にしたら、本当の意味で喜び楽しむことができるのか、ということです。こ の世界が創造される前に既にあり、この世界の創造において共にあった、神 の知恵が共にあってこそ、人はこの世界を本当の意味で喜び楽しむことがで きるのです。神の知恵と共にない愚かな人は、どんなに自分の願望が叶った としても、どんなに多くの物を与えられたとしても、この世界を本当の意味 で喜び楽しむことはできないのです。

●わたしに聞き従え

 それゆえに、結論として、この「知恵」に聞き従うように、と命じられて いるのです。32節から36節までを御覧ください。

32      さて、子らよ、わたしに聞き従え。
         わたしの道を守る者は、いかに幸いなことか。
33      諭しに聞き従って知恵を得よ。
         なおざりにしてはならない。
34      わたしに聞き従う者、日々、わたしの扉をうかがい
         戸口の柱を見守る者は、いかに幸いなことか。
35      わたしを見いだす者は命を見いだし
         主に喜び迎えていただくことができる。
36      わたしを見失う者は魂をそこなう。
         わたしを憎む者は死を愛する者。 」

 では、私たちはどこに、この「知恵」を見いだしたら良いのでしょうか。 後の時代に書かれました「シラ書」(旧約続編の中にあります)では、この 「知恵」がモーセの律法と同一視されております。その中にやはり「知恵」 が語るくだりがあり、その後に、「これらすべてはいと高き神の契約の書、 モーセが守るよう命じた律法であり、ヤコブの諸会堂が受け継いだものであ る」(シラ書24・23)と説明されているのです。紀元前二世紀頃の人々 が、律法こそがこの世界を創造された神の知恵であり、律法を見いだしそれ を守ることこそ、命を見いだすことであると考えていたことが分かります。

 しかし、私たちはヨハネによる福音書の冒頭において、次のように書かれ ていることを知っています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言 は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。 成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1・1 ‐3)。ここで先の「知恵」と同一視されているのは「言」、すなわち肉を 取られ人間となられる以前から、神と共にあった《先在のキリスト》です。

 要するに、キリスト者はモーセの律法の中にではなく、この地上に現れた 一人の御人格の中に、イエス・キリストという御人格の中に、その生涯と死 と復活の中に、神の知恵を見いだしたのです。天地創造の前にあり、天地創 造と共にあった神の知恵を見い出したのです。ですから、キリスト者にとり ましては、あの「子らよ、わたしに聞き従え」という招きは、律法の文字に 聞き従うことではなくて、私たちのために十字架にかかられ、復活され、今 も生きておられるキリストに従うことに他ならないのです。

 冒頭に申しました。賢く生きるためには知恵が必要です。知恵を得ねばな りません。その知恵とはイエス・キリストです。イエス・キリストを見いだ す者は、命を見いだすのです。

 
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