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「知恵の招き、愚かさの招き」

2003年5月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 箴言9・1‐6、13‐18

●未熟な者に呼びかける声

 今日の聖書箇所には、全く同じ呼びかけの言葉が二回出てきます。4節と 16節です。「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい」。箴言を読んでいま すと、この「浅はかな者」あるいは「浅はかさ」という言葉に繰り返し出会 います。この言葉は、聖書全体で19回出てきますが、その内の15回は箴 言に出てきます。箴言を理解する上で重要な言葉であることが分かります。

 日本語で「浅はか」と言いますと、思慮が足りないことを意味しますが、 聖書のこの言葉は、もともとは単純さを意味する言葉です。その単純さは未 熟さと結びつきます。例えば、1章4節に同じ言葉が出てくるのですが、そ こでは「未熟な者」と訳されています。ですから、同じ節で「若者」と言い 換えられているのです。要するに成熟を必要としている、ということです。 しかし、成熟を必要としているということでありますならば、必ずしも年齢 的に若いということに限られないかもしれません。幾つになりましても、本 当の意味で成熟した人間となることは、私たちの課題であるからです。その 意味において、ここに書かれていることは、私たちすべての者に関係してい ると言えるでしょう。

 さて、そのような「浅はかな者」「未熟な者」に対して呼びかける声があ る、というのが今日の箇所の伝えている事柄です。それは一方向からではあ りません。二つの方向から聞こえてきます。この聖書箇所の表現によります ならば、二人の女性から呼びかけの声を聞くのです。一人の女性は「知恵」 といいます。(これは8章に見ましたように、天地を創造した神の知恵です。 )もう一人の女性は「愚かさ」といいます。この二人の呼びかけは、どちら も未熟な私たちに対する成熟への呼びかけです。「浅はかな者、未熟な者は だれでも立ち寄るがよい」と。しかし、呼びかけの言葉は同じでも、その二 人の有様と、語る内容は全く異なっております。今日お読みしました二つの 箇所において、この二人の女性の二つの呼びかけが対比されているのです。 その違いにしっかりと目を留めなくてはなりません。

●異なる招き方

 第一に、その二人の招き方が異なります。

 愚かさという女の方から見ていきましょう。彼女は「騒々しい女だ」と表 現されています。「騒々しい女」という言葉で、私たちは電車の中で大声で 話し込んでいる中年女性を想像するかもしれません。しかし、箴言において 「騒々しい女」という言葉は、あるイメージを伴っています。それは7章に 出てきました。「騒々しく、わがままで、自分の家に足の落ち着くことがな い」(7・11)、そういう女です。つまり、そこに描かれているように、 遊女のように若者を誘惑する、身持ちの悪いふしだらな女性がイメージされ ているのです。

 ここで「自分の家の門口に座り込んだり、町の高い所に席を構えたりして 道行く人に呼びかける」のは、まさに遊女の姿です。彼女は直接的に身を現 し、自ら声をかけるのです。そのような売春婦やふしだらな女の誘惑のよう に、愚かさの呼びかけは直接的です。人間の理性的な思考にではなく、人間 の直接的な感覚に訴えます。人間の欲望に直接働きかけます。愚かさの呼び かけは、しばしば非常に分かりやすく、魅力的です。ですから、その声に惹 かれていく者も多いのです。

 一方、知恵は直接人々と出会いません。彼女は家を建て、食卓を整えて待 っています。本当の豊かさを用意して、そこに待っているのです。彼女は、 自ら赴くのではなく、はしためを人々のところに遣わして呼びかけます。遣 わされた者は、知恵の言葉を知恵に代わって伝えます。

 人々が目にするのははしためです。彼らは彼女の言葉を聞くのです。直接、 用意されているご馳走を目にするわけではありません。はしための姿も、必 ずしも魅力的ではないでしょう。そのように、知恵の呼びかけは、直接的に 感覚に訴えるものではありません。知恵の呼びかけは、愚かさの呼びかけほ ど、直接的に魅力的なものとは感じられないもののようです。ですから、聞 いた者は、自ら良く考え、自分の意志をもって知恵を求めて知恵の家へと赴 かねばなりません。そうして初めて、その人は知恵とその用意したすべての 豊かさに与ることができるのです。

●異なるメッセージ

 第二に、その二人の呼びかけの内容が異なります。

 愚かさという女は意志の弱い者に言います。「盗んだ水は甘く、隠れて食 べるパンはうまいものだ」(17節)と。「意志の弱い者」という表現は、 単に意志薄弱なだけでなく、理解力も欠落していることを意味しています。 その時の感覚的なことだけに動かされ、事の結末についてまで、きちんと考 えることができないことです。それもまた未熟さの現れに他なりません。そ のような未熟な者に、愚かさという女は、悪の魅力について語ります。そし て、実際、悪いことはしばしばとても魅力的に見えるものです。それは実際、 口に甘く、そして美味しく感じるものなのです。

 そのような悪の甘さ、罪の美味しさを知ることが、成熟への道であるとい う呼びかけは、いつの時代にも聞かれるものです。そうです、「悪いことの 楽しさを知ることが、大人になることなのだ」という声が聞こえてくるので す。一方において、隠れて煙草を吸って、酒を飲んで、異性と肉体関係を持 って、あげくの果てには売春までやって、それで大人になった気になってい る子供たちがいます。他方において、自分のやってきた悪事を自慢げに話し、 それが酸いも甘いも噛み分けた人間になることだと吹聴する大人たちがおり ます。そのような「大人の世界」をさも魅力的に描く小説家がいます。その ようなテレビのドラマが放映されます。この時代にも、愚かさという女の呼 び声は、私たちの周りに響き渡っております。実に魅力的な呼び声として!

 一方、知恵から遣わされた使者は、人々にこう呼びかけます。「わたしの パンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい」と。とはいえ、使者の手に パンはありません。酒もありません。人々の目に見せることができません。 しかし、彼女は、本当の豊かさがある知恵の家を指し示します。そして、確 かに、実に豊かな食卓が、既に準備されているのです。そこに開かれている のは、どんな人でも、どんな未熟な人でも連なることのできる、まことの命 の祝宴です。繰り返します。使者が伝える知恵の言葉を聞いて、良く考えて、 自ら求めて赴く者こそが、この豊かさに与るのです。

●異なる結果

 そして、第三に、その二人の呼びかけがもたらす結果が異なります。

 愚かさの招きは魅力的です。悪の味わいは甘美です。それが未熟さを取り 除き成熟を与えるように見えます。しかし、聖書はそこでこう付け加えるの です。「そこに死霊がいることを知る者はない。彼女に招かれた者は深い陰 府に落ちる」(18節)と。死霊は死の世界にいるものです。しかし、愚か さの招きに誘われて、罪の甘美さに人が酔いしれている時、その人のすぐ隣 りに死霊がうようよしているのです。つまり、その人は生きながら、既に死 の世界にいるということです。そのようなところに、生命の喜びも力もあろ うはずがありません。生きながらにして既に死んでいるのです!ですから、 行き着くさきも死の世界の深みです。命の光が全く届かない死の暗闇こそが、 愚かさの招きに従う人の行き着くところであり、その人の刈り取る運命です。

 一方、先に挙げた知恵の使者の招きは、6節へと続きます。この節は、原 文では三つの命令文から成っています。「浅はかさ(未熟さ)を捨てよ!生 きよ!分別の道を進め!」悪の甘さや罪の美味しさを体験することによって ではなく、知恵のパンと酒によって、神の知恵の養いによって、人は成熟す るのです。そのことによって、本当の意味で「生きる」ことができるのです。 生命の喜びと力に満ち溢れて生きることができるのです。そして、その人は 「分別の道」すなわち、知恵と愚かさを識別する者の道を、さらにまっすぐ に進んで行くのです。

●キリストの招き

 さて、先にも申しましたように、この擬人化されて表現されている知恵は、 この世界の創造に伴った神の知恵に他なりません。そして、この知恵は、単 に人格として聖書の中に描かれているに留まらず、実際に一人の御人格とし て現れてくださったのです。イエス・キリストという御方の内に、人は神の 知恵の完全なる現れを見たのです。この御方こそ、まことに生ける神の御言 葉です。この御方こそ、命の糧を豊かに備えて、私たちを食卓へと招いてく ださる御方です。私たちは、この御方のもとに来て、真の命に与るのです。

 とはいえ、確かに、ここに描かれているように、知恵は直接人々に姿を現 すわけではありません。使者を通して呼びかけます。そして、使者は、知恵 と同一ではなく、知恵のはしために過ぎません。そのように、キリストが遣 わされた使徒たちは、キリストそのものではありませんでした。彼らは欠け に満ちた人間に過ぎませんでした。私たちが手にする聖書もまた、キリスト を伝えるものですが、キリストそのものではありません。聖書は直接天から 降ってきたのではなく、この地上において、歴史の中で、人間の手によって 書かれたという側面を持っています。同様に、教会も、牧師も、礼拝におい て語られる説教も、聖餐のパンと葡萄酒も、キリストそのものではなく、キ リストを指し示すはしために過ぎません。これらはこの世界の中にあり、こ の歴史の中に存在する、まことに粗末な欠けに満ちたものに過ぎません。

 しかし、そのような使者を通して、知恵は、キリストは、呼びかけておら れるのです。この世界には、愚かさという女の呼びかけだけが響いているの ではなく、確かにもう一つの声が響いているのです。愚かさの語る言葉はし ばしば魅力的です。しかし、私たちは愚かさの声に従って、滅びへと向かっ てはなりません。キリストの声にこそ、聞き従わねばなりません。「わたし のパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい、浅はかさを捨て、命を得 るために、分別の道を進むために」と、キリストは今も招いていてくださる のですから。

 
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