「わたしが命のパンである」                            ヨハネ6・35  「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることが なく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6・35)。こ れが今日、私たちに与えられています、主の御言葉です。  「命のパン」。不思議な言葉です。私たちの日常にはない言葉です。「命 のパン」とは何を意味しているのでしょう。33節には、「神のパンは、天 から降って来て、世に命を与えるものである」と語られています。「命のパ ン」とは、「命を与えるパン」という意味のようです。さらに遡りますと、 27節で主は人々にこう勧めておられます。「朽ちる食べ物のためではなく、 いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」。 そうしますと、この「命」とは「永遠の命」のことであり、「命のパン」と は、この「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物」を指してい るものと思われます。 ●天から降って来て命を与えるパン  主イエスはこの「命のパン」について、それは天から降って来て、世に命 を与えるパンであると語られました。《天から降って来るパン》――これも また私たちには馴染みのない言葉です。しかし、ユダヤ人たちにとっては、 極めて身近な言葉でありました。彼らは、聖書の中に、天からのパンについ て記されていることを、良く知っていたからです。それはマナ(マンナ)と 呼ばれる不思議な食べ物のことです。  ユダヤ人の先祖は、モーセに率いられてエジプトを脱出しました。そして ただちに荒れ野に導かれます。荒れ野には食べ物がありません。大喜びでエ ジプトを脱出した彼らは、やがて空腹を訴え、不平を言い始めました。そこ で主はモーセに、「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降ら せる」(出16・4)と言われます。そして、マナという不思議な食べ物を 与えられたのでした。こうして彼らは天からのパンによって養われ、旅を続 けることができたのです。天からのパンは荒れ野にいたイスラエルの民に命 を与え、彼らを生かしました。その意味において、確かにマナは彼らにとっ て「命のパン」でありました。  しかし、神がマナを降らせたのは、単に彼らの肉体的な飢えを満たすため ではありませんでした。モーセはマナについて、次のように民に語っている のです。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことの ないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口 から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった 」(申命記8・3)。大変に逆説的でありますけれど、神がパンを与えたの は、《人がパンだけで生きるのではない》ことを知らせるためだった、と言 うのです。つまり、人が本当の意味で「生きる」ということは、単に食物に よる生命維持以上のことだということです。人が真に「生きる」とは、神の 言葉によって生きることだ、と神は言われるのです。すなわち、神が御言葉 を通して御自身を現され、人が愛と信頼と従順をもって神に応答することで す。そのように人が神と共に生きることです。このような神との交わりこそ が「命」なのです。「永遠の命」とは、永遠なる神との交わりに他なりませ ん。その意味からしますと、命のパンとは、イスラエルの民が食べたマナそ のものではありません。命のパンとは彼らに与えられた神の御言葉なのです。 「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と語られているとおり です。  主イエスは今日の箇所において、そのような「命のパン」について語って おられます。それは、この世界に、生命の根元的な欠乏があることを意味し ています。間違ってはならないのですが、主イエスはここで「精神的なパン 」について語っているのではありません。単に物質的に満たされることだけ でなく、精神的に満たされることが必要だ、ということではありません。精 神的な満足感や充実感が必要なだけならば、様々な事によって満たされ得る のです。事実、多くの人々は、そのような心の必要を満たすために奔走して いるのです。しかし、必要なのは精神的な何か、ではありません。必要なの は「命」なのです。  世界は神との交わりによる真の命に飢えているのです。それは、宗教的に 見えるユダヤ人社会においてさえそうでありました。彼らもまた、「命のパ ン」を必要としていたのです。それは、この主イエスの御言葉が宣べ伝えら れているこの世界においても同じです。この世は「命のパン」を必要として いるのです。この世界は苦しんできました。今も苦しみ続けています。確か に多くの問題がこの世界を苦しめているように見えます。人類どころか生物 全体の存続を脅かしている核問題と環境問題を抱えるこの世界は、まさに死 に瀕した世界に見えます。しかし、本当は、死に瀕して苦しんでいるのは、 そして全く希望を見いだせないのは、解決困難な諸問題のゆえではないので す。神との交わりを失い、命を失っているからなのです。世界は命に飢えて いるのです。「命のパン」が必要なのです。 ●わたしが命のパンである  そこで、主は御自分を指して、「わたしが命のパンである」と言われたの でした。これは驚くべき言葉です。神はこの世界の中からイスラエルの民を 選ばれ、彼らに神の言葉をゆだねられました。神の言葉は、モーセの律法と して、そして預言者の言葉として、彼らに与えられました。神はモーセの律 法を通して、そして預言者の言葉を通して、御自身を現されました。しかし、 主イエスは、「律法と預言者の言葉は命のパンである」とは言われなかった のです。主は、「わたしが命のパンである」と言われたのです。  イエス・キリストが命のパンであるということは、第一に、この御方こそ 神の御言葉であり神の啓示である、ということを意味します。神は、人間の 言葉や文字によってではなく、最終的に御子をお遣わしになることによって 語られたのです。イエス・キリストという一人の御人格をもって、この世に 語りかけられたのです。まさに「言は肉となって、わたしたちの間に宿られ た」(1・14)のです。それは、私たちが神を知りたいと願うなら、神と の交わりに生きるとはいかなることかを知りたいと願うなら、イエス・キリ ストを知らねばならないことを意味しているのです。  そして、第二に、イエス・キリストが命のパンであるということは、実際 にこの御方が私たちに神との交わりを与え、命にあずからせてくださること を意味します。そして、それは丁度、パンが人に食されて肉体に命を与える のと同じ仕方において起こるのです。パンは口に入れられ、噛み砕かれ、消 化されて命を与えます。いわば、パンは自らを与えることによって人に命を 与えるのです。そのように、キリストもまた自らを与えることによって命を 与えるパンとなられたのです。  ですから、主イエスは後に、もっと露骨な表現をもって、御自分の為そう としていることを語られます。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、 その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わ たしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活さ せる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからで ある」(6・53‐55)と主は言われるのです。  「わたしの肉を食べよ。わたしの血を飲め」。このことが一体何を意味す るのか、その時聞いていた者は誰一人理解できなかったに違いありません。 しかし、やがて弟子たちはその意味するところを知るに至ります。そして、 私たちも聖書を通してその意味を知っています。それは主イエスが肉を裂か れ、血を流し給うた、あの十字架の出来事を指し示していたのです。あの十 字架上の主イエスの姿は、まさに「わたしの肉を食べよ。わたしの血を飲め 」という主イエスの叫びそのものだったのです。  私たちを神との交わりへと導き、命を与えるためには、そのように主イエ スが自分自身を与え尽くして死ななくてはなりませんでした。なぜなら、私 たちが神と共に生きるためには、まず私たち自身の罪が取り除かれなくては ならないからです。罪は私たちが忘れ去ることによって除かれるのではあり ません。私たちが忘れても、罪は残ります。それは神の御前に残るのです。 罪は命をもって贖われねばなりません。そこで、キリストは「世の罪を取り 除く神の小羊」(1・29)となってくださいました。キリストは贖いの犠 牲となってくださったのです。こうして、主は御自分を与えることにより、 私たちに命を与える「命のパン」となってくださったのです。 ●わたしのもとに来る者は飢えることがない  しかし、よく考えてみますと、「パンが与えられること」イコール「飢え 渇きを免れること」ではありません。パンを手にしている人が飢えて死ぬこ とはあり得るのです。その人がパンを食べなかったら、やはり飢えて死ぬの です。確かに、主は私たちが生きるための「命のパン」となってくださいま した。「命のパン」は既に与えられております。しかし、そのことは自動的 に命の飢えを免れ、滅びを免れることを意味してはいません。人は「命のパ ン」のもとに来て、それを食べなくてはなりません。それゆえに、主は「わ たしが命のパンである」と言われただけではなく、さらに次のように言われ たのです。「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信 じる者は決して渇くことがない」と。  キリストのもとに来る者とは、キリストを信じる者です。命のパンである キリストを食べるとは、キリストを信じることです。ここで語られているの は、イエスという一人の御方と、私たち自身との、人格的な関係です。私た ちは、単にキリスト教という宗教を信じるように求められているのではあり ません。単に聖書という聖典を信じるように求められているのでもありませ ん。単に主イエスの《教え》を信じるようにと言われているのでもありませ ん。ただ単に、キリストについての「何か」を信じるようにと求められてい るのではありません。《主イエスを》信じるようにと呼びかけられているの です。主イエスを信じる者は、永遠の命を得るのです。いや、そこに既に神 との交わりがあるのなら、永遠の命を得ているのです(ヨハネ6・47)。  キリストは、今もあなたを招いておられます。「わたしが命のパンである。 わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決し て渇くことがない」と。