「人間の責任と限界」

                     箴言10・24、20・24

 箴言第10章から第二の区分に入ります。22章16節まで続きます。冒
頭には「ソロモンの格言集」という表題が付けられています。この部分は箴
言全体の中心です。

 表題の通り、これは格言を収集したものです。全部で375の二行詩格言
から成っています。今日は、その内の二つだけを取り上げました。しかし、
この二つだけでなく、ぜひこの全体を読み通していただきたいと思います。
ともかく、単純に面白いと感じられることでしょう。ある格言は、そのユー
モラスな表現のゆえに笑いをこらえることが困難です。ある格言については、
「そうだ、その通り」と共感することでしょう。ある格言によって、痛いと
ころを突かれるかもしれません。あるいは、ある格言を読んで、「聖書にこ
んなことが書かれていていいの?」と思われるかもしれません。ともかく、
この機会に、楽しみながら、そして様々なことを思い巡らしながら、ソロモ
ンの格言集を読み、いにしえの信仰者の心と生活に触れていただきたいと思
います。


●人間の責任

 では、もう一度、10章24節をお読みしましょう。

	神に逆らう者は危惧する事に襲われる。
	神に従う人の願いはかなえられる。(10・24)

 「神に逆らう者」「神に従う人」というのは意訳です。原文に「神に」と
いう言葉はありません。直訳すると、「悪人」と「義人」です。悪人とは、
この世界の秩序に反して生きる人です。義人とは、この世界の秩序に則して
生きる人です。ですから、これまでに出てきました、「愚かな者」「賢い人
」と、基本的には同じ内容です。このような二分の仕方は、何もイスラエル
に独特のことではなく、古代オリエント諸国に共通した見方でありましたし、
私たちにもそのまま理解できます。

 しかし、イスラエルの人々は、ただ単にこの世界の秩序に目を向けていた
のではありません。この世界の秩序に、創造者の知恵を見ていたのです。こ
の世界の秩序の背後に、確かに世界の創造主なる生ける唯一の神がおられる
ことに目を向けていたのです。ですから、「悪人」と「義人」ではなく、
「神に逆らう者」「神に従う人」と意訳することは間違いではありません。
悪人は、神の立てた秩序に逆らっているのですから、神に逆らっているので
す。義人は、神の立てた秩序に従っているのですから、神に従っているので
す。この世界が神の創造された世界であるならば、人は神と無関係に生きる
ことはできません。意識しようがしまいが、その思いと行動において、人は
《従う》にせよ《逆らう》にせよ、神との関わりに生きているのです。

 さて、「神に逆らう者」は、この神の秩序に逆らいながらも、その秩序の
外に出て行くことはできません。ですから、必然的にその秩序がもたらす帰
結を感じ取ることになります。もしある人が巨大なコンクリートの壁に向か
って時速140キロで車を走らせ突き進んでいくならば、その人は自然な結
末として、車は大破し自分は死ぬことを予想するでしょう。そのように、悪
を行う者の脳裏には、結果として起こり得る「危惧する事」が浮かび上がっ
てまいります。悪を行う者には、そのように不安と恐れがつきまとうのです。

 そして、この格言は、そのような悪人が、確かに「危惧する事に襲われる
」と教えているのです。「襲われる」というのは「来る」という言葉です。
神が特に裁きを下すと言うよりは、むしろ悪を行う者が危惧する事は、その
人のところに自動的にやって来ると語られているのです。

 一方、神に従う者についても、その予期したことの実現が語られています。
そのことは、「神に従う人の願いはかなえられる」と表現されています。神
に従う人は、神の秩序に則した願いを抱きます。それは丁度、坂道の傾斜に
逆らってではなく、傾斜に沿ってボールを投げるようなものです。そのボー
ルは弾みながら下まで転がっていくことでしょう。そのように、神に従う人
の御心に適った願いは、神の創造した秩序の中で、神によってかなえられる
のです。

 このように、「神に逆らう者」と「神に従う人」が対比される形で、この
格言は記されております。このように第一行と第二行が対比をなすような書
き方を《対立的並行法》などと申します。この「ソロモンの格言集」、特に
その前半部分に、そのような対比を示している格言が多く見られます。

 このような対比する二行は、私たちの前に二つの選択肢があることを示し
ています。箴言を読んでいきますと、繰り返し繰り返し、その事実を突きつ
けられます。私たちは、選べないことのみに取り囲まれているのではありま
せん。選べることがあるのです。今日の聖書箇所で言いますならば、人は
「神に逆らう者」として危惧する事がやってくるのを待つこともできますし、
「神に従う者」として、願いがかなえられることを待つこともできるのです。
それが選択肢である限り、私たちの責任が問われます。選択するのは、他な
らぬ私たち自身だからです。人生は選択の連続です。その意味において、私
たちは自らの人生に責任を負わねばなりません。


●それほど単純だろうか?

 しかし、ここで私たちはどうしても立ち止まらざるを得なくなります。は
たして人生はそれほど単純だろうか。はたして世界の歴史はそれほど単純だ
ろうか。そう考えざるを得ないからです。

 実際、悪を行う者が、危惧することに襲われないこともあるのではないか。
実際、神に従う者が、危惧してもいなかった災いに襲われることがあるでは
ないか。同じ旧約聖書の中でヨブという人がこう叫んでいます。「なぜ、神
に逆らう者が生き永らえ、年を重ねてなお、力を増し加えるのか。子孫は彼
らを囲んで確かに続き、その末を目の前に見ることができる。その家は平和
で、何の恐れもなく、神の鞭が彼らに下ることはない。…彼らは幸せに人生
を送り、安らかに陰府に赴く」(ヨブ21・7‐13)。この人の言い分は
もっともなことではないでしょうか。

 しかし、私たちはここで、そのような余りに単純過ぎると思えるような格
言が、あえて聖書の中に収められていることの意味を考えたいと思うのです。

 箴言10章以下を読みますと、誰でもこれが多くの格言の雑多な収集であ
ることに気づきます。秩序正しく分類されているわけではありません。意図
的に配置されているわけでもありません。相互の間には何の脈絡もありませ
ん。これらの収集は、かなり古くにまで遡ると言われます。ソロモンの時代、
あるいはそれ以前にまで遡ります。そのような古い格言の収集が、要するに、
分類もされず、意図的な配置換えもされず、文脈のない雑多な収集のまま、
手つかずに残されたのです。

 その間、イスラエルの人々は国家の崩壊を経験しました。捕囚を経験しま
した。そして、解放を経験しました。国家の再建を経験しました。支配者の
交替を経験しました。秩序から無秩序へ。無秩序から秩序へ。イスラエルの
民は激変を経験しました。しかし、彼らはこのソロモンの格言集を保持した
のです。実に素朴な、馬鹿馬鹿しいほど素朴な格言を、そのまま手元に置い
たのです。彼らは単純な人たちだから、このような格言集を残したのではあ
りません。人生の複雑さ、歴史の複雑さをいやというほど経験した民が、し
かもなお《人生はそんなに単純なものか、歴史はそんなに単純なものか》な
どと言わずに、これらの格言をそのまま残したのです。

 つまり、彼らは、目の前の秩序が崩壊しようが、また新しい秩序が再建さ
れようが、この世界がどれほど複雑に変化しようが、あえて変わることのな
い神の秩序が厳然と存在していることへの信頼を持って生きたのです。その
素朴な信頼を持ち続けたのです。ある人は、彼らが向けていた神を、「世界
秩序の隠れた保証人」と表現しました。単純に格言のとおりになるかどうか
よりも、そのような信頼すべき保証人が確かにおられる、ということが重要
だったのです。


●人間の限界と神への信頼

 ですから、その同じ収集の中に、私たちが先ほど読んだもう一つの聖書箇
所のような言葉が、一見矛盾するような言葉が、ごく当たり前のように置か
れているのです。

	人の一歩一歩を定めるのは主である。
	人は自らの道について何を理解していようか。
                   (20・24)

 先に見たように、確かに正しい選択をすることは大事です。その選択に従
って計画を立てて進んでいくことは大事なことです。どんな選択をしたって
結局は同じさ、どう生きたところで同じことさ、などと言ってはならないの
です。この世界は秩序のない混沌ではないからです。

 そして、正しい選択をして進んでいくためには知恵が必要です。ここに記
されている多くの格言は、そのような知恵を伝えることを目的としています。
人は神の御心に適った選択をして進んでいくことができるよう、神の秩序に
ついて知り得ることを知り、得られる知恵を獲得しなくてはなりません。そ
れは人間の責任です。人は神の支配について、無知であってはなりません。

 しかし、一方、私たちは神の支配のすべてを知り得ると思ってはならない
のです。確かに選択をするのは人間です。人はそのことに責任を持たねばな
りません。しかし、人間は自分が進んでいく道筋のすべてを手中に収めてい
るのではないのです。神の支配は、いつでも人間の知識を越えています。人
の知り得ない神の計画と導きがあるのです。人の一歩一歩は、人の手の内に
あるのではなく、主の御手の内にあるのであり、そこから私たちはいただく
のです。ですから、箴言という書は、一方において知恵を得ることを勧め、
正しい選択をすることを勧め、自らの歩みに責任をもって関わることを勧め、
他方において、「人は自らの道について何を理解していようか」と語るので
す。

 私たちは知恵を求めつつも、最終的にすべてを知り得ない神の御支配のも
とに、自ら謙らねばなりません。「主を畏れることは知恵のはじめ」とは、
ここにおいても当てはまります。自らの選択に責任をもって生きるにせよ、
自分の道を理解できないことを認めて謙るにせよ、私たちに必要とされてい
るのは、「世界秩序の隠れた保証人」に対する、素朴な信頼なのです。