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「受けるべき力」

2003年6月8日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録1・8

 復活されたキリストは、天に上げられる前、使徒たちにこう言われました。 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エル サレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るま で、わたしの証人となる」(1・8)。これが今日、聖霊降臨祭の礼拝にお いて、私たちに与えられている御言葉です。

 「あなたがたはわたしの証人となる」。主イエスは復活の後、四十日にわ たって使徒たちに現れ、御自分が生きていることを彼らに示されました。さ らにキリストは、使徒たちをこの世に遣わされます。使徒たちは、復活のキ リストにまみえただけでなく、キリストの復活とその御支配のリアリティを 証言するために世に遣わされました。キリストによって救われただけではな く、キリストによる救いを証しするために、救いを地の果てにまでもたらす ために、世に遣わされました。そして、教会は今もなお、キリスト復活の証 言を携えて、この世に存在しています。キリスト者は、キリストを信ずるだ けでなく、キリストによって救われたということに留まらず、復活のキリス トと共に生き、キリストを証しするために、この世に存在しているのです。

 「あなたがたはわたしの証人となる」。どのようにして証人となるのでし ょう。主は言われました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは 力を受ける」と。確かに、復活のキリストとの出会いは、使徒たちにとって 深い霊的な体験であったに違いありません。しかし、彼らはその体験によっ て、キリストの証人となるのではありません。キリストの証人となるために は、神からの力を受けなくてはならないのです。

 さて、果たして私たちはいったい本気でそう考えているでしょうか。その ように、力が必要であると考えているのでしょうか。今日の私たちの教会に 問題があるとするならば、それは弱さにあるのではないと思います。問題は 強さにあるのです。力があり過ぎるのです。だから、力が必要だと思いもし ないし、求めもしない。私たちは今日、聖霊降臨祭を祝うに当たり、教会が 世にあってキリストの復活とその支配とを証言するために、上よりの力が必 要なのだということを心に留めなくてはなりません。キリスト者がこの世に あってキリストを証しするためには、上よりの力が必要なのです。

●超自然的な働きを行う力

 この使徒言行録の文脈において、この「力」の第一義的な意味は明らかで す。それは、超自然的な働きを行う力であります。この「力」という言葉は、 複数になりますと、新共同訳では、通常、「奇跡」と訳されます。主イエス によって、そして後に使徒たちによって行われた数々の奇跡を意味します。 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」。その力の現 れは、第一に、使徒たちが行った奇跡として描かれているのです。

 使徒言行録を読みますと、このような超自然的な力の現れが、初期の教会 の宣教にとって重要な意味合いを持っていたことが分かります。確かに言葉 を語るのは人間です。地上を歩き回り、その言葉をもってキリストを証しす るのは人間です。しかし、使徒の働きに数々の奇跡が描かれているというこ とは、取りも直さず、教会の働きが、究極的には、神の力の現れに他ならな いことを示しているのです。聖書に描かれている宣教の働きの進展は、明ら かに、緻密な戦略、効果的な宣伝、機能的な組織、そしてそれらを可能とす る有能な人間の存在、などによって成し遂げられたのではありません。それ ゆえに、使徒たちや他のキリスト者たちが、元来いかなる能力を持っていた かということは、基本的にはまったく問題とされてはいないのです。彼らの 働きは、明らかに彼らの生来の能力を超えたものでありました。ですから、 ユダヤ人の権威者たちは、ペトロやヨハネが「無学な普通の人であること」 (4・13)を知って驚いたのです。

 実際、教会を単なる人間の集団としか考えず、人間の行うことにすべて依 存していると考える時、教会の働きも、キリスト者としての生活も、閉塞状 況に落ち込むことになります。神の御業が自分たちの限界を超え出ることを 信じられなくなる時、もはや実質的には何も期待できなくなるのです。私た ち自身の能力、人間の力の為しえることなど、たかが知れているからです。 私たちはいかなる時にも、まず神の力の現れが神の奇跡として伝えられてい たことを忘れてはならないのです。もちろん、神の力の現れについて語りま す時、この現代の日本という状況において、例えば超自然的な病気の癒しな どを強調すべきか否かについては、なお議論の余地があるでしょう。もしか したら、そのことは、肉体の癒しそのものを救いとする様々な新興宗教との 不要な混同を招くかもしれません。しかし、いずれにせよ、次の一点につい ては強調されても強調され過ぎることはないでしょう。すなわち、キリスト を証しするということは、私たちが生来の能力を用いること以上の何かを意 味している、ということです。私たちには力が必要なのです。上よりの力が 必要なのです。

●恐れを克服させる力

 さて、私たちはさらにこの「力」について、使徒言行録の記述に即して、 いくつかのことを考えてみましょう。

 第二に、この「力」とは、恐れを克服させる力であると言うことができる でしょう。それは、証人を人々の前に立たせ、勇気をもって語らせる神の力 であります。

 「あなたがたはわたしの証人となる」。証人はキリストの復活を証言しま す。つまり、人間が十字架にかけたキリストを、神が復活させたことを証言 するのです。それは人間が神に逆らっていることを明らかにすることを意味 します。人間が神の御前に悔い改めなくてはならないことを明らかに示すこ とです。またそれは同時に、人間が誰に従うべきかを語ることでもあります。 この十字架にかけられた方こそ、人間が従うべき真の王であり主であること をあからさまに語ることです。この御方を信じて従うところにこそ救いがあ ることを語ることであります。

 このメッセージは、自分の罪を認め、キリストの前に膝を屈める者にとり ましては救いの使信となります。しかし、自分を正しい者とし、自分を絶対 化する者にとりましては、まことに受け入れがたい使信とならざるを得ませ ん。特に、この世の権力が自らを絶対化する時、そしてキリスト者の信仰の 良心をさえ支配しようとする時、まことの王がおられるという使信は、実に 都合の悪いものとなります。それゆえに、この証しを力をもって封じようと いたします。しかし、キリストを証しするということは、そのような場にお いても、キリストを証言することでもあるのです。

 実際、ペトロとヨハネは、エルサレムの最高法院において、「決してイエ スの名によって話したり、教えたりしないように」と命じられました。彼ら はキリストを証しすることを禁じられたのです。しかし、彼らはこう答えた のでした。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかど うか、考えてください。わたしたちは見たことや聞いたことを話さないでは いられないのです」(4・19‐20)。

 さて、私たちは、このペトロとヨハネの言葉が、彼らの生来の強さから出 た言葉ではないことを知っています。私たちは、ルカの書いた第一巻目の福 音書において、イエスを見捨てて散って行った弟子たちの姿、そして、イエ スを三度も否んだペトロの姿を伝えられているからです。いったい彼らに何 が起こったのでしょう。復活のキリストとの出会いがありました。そして、 ――聖霊の降臨です。主が約束された通り、上よりの力が与えられたのです。

 私たちがそのように、例えば国家権力と対峙して、キリストを証しする場 面があるかもしれませんし、あるいはないかもしれません。しかし、いずれ にせよ、イエスがキリストであり、従うべき主であると語ることは、キリス トを受け入れてはいないこの世界の中で語るわけですから、当然、勇気を必 要といたします。実際、そうではありませんか。私たちは、確かに、恐れを 克服させる神の力を必要としているのです。

●隔ての壁を取り壊す力

 第三に、聖霊によって与えられる力は、隔ての壁を取り壊す力であると言 うことができます。

 主イエスは、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、ま た、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と言われました。使徒言行 録は、その言葉の通り、エルサレムから始まって、ユダヤとサマリア、さら にローマに至るまで福音が伝えられていった次第を伝えています。それは実 に困難な道筋でありました。そして、その困難さは、ただ単に、福音に敵対 する人々が存在していたということによるのではありません。キリストの証 しが地の果てにまで届けられることを妨げていたのは、何よりも彼ら自身が 造り上げていた隔ての壁に他ならなかったのです。

 サマリアには、ユダヤ人と決して融和することのなかったサマリア人がい ました。そして地の果てには異邦人がいるのです。しかし、使徒たちは当初、 ユダヤ人以外にキリストを伝える意志など、まったくありませんでした。サ マリア人がいる教会、異邦人がいる教会など、考えも及ばなかったのです。 この隔ての壁、特にユダヤ人と異邦人を隔てる壁が取り壊されることが、い かに困難であったかを、使徒言行録は正直に伝えております。それは最終的 に、聖霊の力によって取り壊されるしかなかったのです。

 「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。この言葉が実現したから こそ、ここにも教会が存在しております。異邦人キリスト者である、私たち がここに存在しているのです。聖霊が隔ての壁を壊してくださったからです。 そして、今、私たちに同じ言葉が与えられております。「地の果てに至るま で、わたしの証人となる」と。ならば、私たちもまた、自分とは全く異なる 他者との出会いを想定しなくてはなりません。「地の果てに至るまで」です から。

 しかし、実際はどうかと言えば、まったく身近な隣人の、実に小さな違い をも受け入れることに困難を感じているのが実状です。私たちは生来、同質 の者たちが集まった、居心地の良い教会を形作り、そこでぬくぬくと過ごし ていたいのです。「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」という言葉 など忘れて、そうしていたいのです。そのような私たちですから、なおのこ と、力を必要としています。私たちが築いてしまっている隔ての壁を打ち壊 してくれる、聖霊の力を必要としているのです。

 
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