「愚か者の方がまだ希望が持てる」

                         箴言26・1‐12

 今日の聖書箇所には、「愚か者」に関する格言がまとめられております。
愚か者に対する実に辛辣な言葉が情け容赦なく繰り返されております。しか
し、間違えてはならないのですが、ここで言う「愚か者」とは、決して無学
な者や無知な者のことではありません。失敗ばかりしている人やどじを踏ん
でばかりいる人のことでもありません。そうではなくて、ここで問題となっ
ている「愚かさ」とは、人が選び得る一つの基本的な生き方のことなのです。

 9章で「知恵」と「愚かさ」について書かれていたことを思い起こしてく
ださい。「知恵」と「愚かさ」が二人の女として描かれておりました。そし
て、その両者が招いているのです。箴言は、「主を畏れることは知恵の初め
」(9・10)と語ります。であるならば、「主を畏れないことが、愚かさ
の初めである」と言うこともできるでしょう。その両者が招いています。人
はどちらをも選ぶことができます。人は、主を畏れ、主がこの世界に与えた
秩序に則し、主の御心に従って生きようとすることもできます。主を畏れる
ことなく、主がこの世界に与えた秩序にも逆らい、主の御心に逆らって生き
ようとすることもできます。箴言が語るところによれば、人は初めから賢い
人なのではなく、初めから愚か者なのでもありません。人は愚か者として生
きることを選んで愚か者となるのです。ですから、箴言全体は、そのような
愚か者に対して、非常に手厳しく語っているのです。


●愚か者の受くべき分

 今日の聖書箇所を読みますと、まず1節から3節までに、愚か者の受くべ
き分がいかなるものであるか、ということについて語られております。

 「夏の雪、刈り入れ時の雨」。夏に雪は降りません。もし降ったとしたら、
とても不自然です。神の創造したこの世界の秩序に反します。またパレスチ
ナにおいて、刈り入れの季節に雨は降りません。もし雨が降ったとしたら不
自然です。そのように、愚か者に名誉が与えられるとするならば、それは不
自然なことです。そのように、「愚か者に名誉はふさわしくない」と最初の
格言は語ります。

 「ふさわしくない」ことが起こるということは、実際、たいへん恐ろしい
ことです。パレスチナの自然の中に生きる人は、そのことを良く知っていま
す。自然の調和が崩れれば、不作になり飢饉になります。雨が降るべき時に
降らず、降るべきでない時に降るならば、それは大きな被害をもたらします。
そのように、愚か者が名誉を得るということは、本人の幸いにはなりません。
周囲の幸いにもなりません。被害をもたらします。「ふさわしくない」とは
そういうことです。そして、実際に、受けた名誉を正しく扱うことができず、
不自然さのもたらす被害を、自分自身と周囲にもたらした人々の事例は、枚
挙にいとまがありません。

 では愚か者にふさわしいものとは何でしょう。2節には「鳥は渡って行く
もの、つばめは飛び去るもの」と語られております。いかなる鳥も自然の秩
序に従って飛びます。鳥が飛ぶとしたら、そこには神の創造の秩序のもとに
ある、なんらかの理由があります。この格言は、そのような鳥と呪いを並置
します。呪いも飛んでいきます。その際に、滅茶苦茶な飛び方はしません。
神の秩序に従って飛んでいきます。そこには理由があります。「理由のない
呪いが襲うことはない」のです。理由があれば、呪いは飛んできます。人が
神の秩序に逆らい、あえて愚か者として生きるなら、呪いが厳しく臨みます。
続く3節の格言は、そのことを示しているのでしょう。

 「馬に鞭、ろばにくつわ」。動物が正しく制御されるためには、鞭やくつ
わが用いられます。そのように、愚か者が正しくコントロールされるために
は、打ち叩くための杖が用いられます。「愚か者の背には杖」とはそういう
ことです。神を畏れず、神に逆らって生きるなら、自分自身が痛い思いをし
なくてはなりません。愚か者の受くべき分は、本来名誉なのではなく、この
杖であるというのが、この最初の三つの格言が語っていることであります。


●愚か者にいかに関わるべきか

 続いて箴言は、愚か者にいかに関わるべきかを、興味深い仕方で語ります。
「愚か者にはその無知にふさわしい答えをするな、あなたが彼に似た者とな
らぬために。愚か者にはその無知にふさわしい答えをせよ。彼が自分を賢者
だと思い込まぬために」(4‐5節)。

 ここで言う「無知」とは、何かを知らないことではありません。知識の欠
如ではありません。それは「愚かさ」という意味の言葉です。この一組の格
言において、一方では「その愚かさにふさわしい答えをするな」と勧めます。
他方では「その愚かさにふさわしい答えをせよ」と勧めます。この両者は明
らかに矛盾した勧めです。私たちはこの言葉をどのように理解したら良いで
しょう。

 ここで私たちは、主イエスが反対者たちになさった答えの仕方を思い起こ
すべきでしょう。主イエスに反対するユダヤ人たちは、しばしば主イエスに
困難な質問をあびせかけました。その際、しばしば主イエスは、彼らの質問
に直接答えてはおられません。まさに、「愚か者にはその無知にふさわしい
答えをするな」を実行しているのです。

 例えば、すぐに思い起こされるのは、ファリサイ派やヘロデ派のユダヤ人
たちがやってきて、主イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして語った次
のような質問です。「ところで、皇帝に税金を納めるのは、律法に適ってい
るでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めては
ならないのでしょうか」(マルコ12・14)。その時に、主は彼らに「デ
ナリオン銀貨を持って来て見せなさい」と言い、彼らが持って来ると、逆に
彼らに問いかけられました。「これは、だれの肖像と銘か」。彼らは「皇帝
のものです」と答えます。すると、主イエスは言われました。「皇帝のもの
は皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マルコ12・17)。

 そのように、神を畏れず、神の律法に関わる問いをもって他者を陥れよう
としているユダヤ人たちに対し、その愚かさにつきあって、愚かさに直接答
えることをしませんでした。「愚か者にはその無知にふさわしい答えをする
な、あなたが彼に似た者とならぬために」と語られているように。しかし、
見方によっては、主イエスは彼らの愚かさに最もふさわしい答えをした、と
も言うことができます。その答えによって、彼らの愚かさが暴露されること
になったからです。主イエスに質問した人々は皆、恥じ入って帰っていった
ことでしょう。「愚か者にはその無知にふさわしい答えをせよ。彼が自分を
賢者だと思い込まぬために」と書かれているように、主は答えをされたので
す。


●どんでん返し

 そして、さらに愚か者に関する辛辣な一連の格言が続きます。

 「愚か者に物事を託して送る者は、足を切られ、不法を呑み込まされる」
(6節)。誰かを使いに出すのは、自分の足の代わりにするためでしょう。
しかし、愚か者を使いに出すことは、自分の足の代わりになるどころか、む
しろ足を切り落とされるようなものだ、とこの格言は語ります。正しく事柄
が遂行されないばかりでなく、むしろ被害を被ることになる、ということで
す。「不法を呑み込まされる」というのも同じ意味であろうと思います。

 「愚か者の口にすることわざは、歩けない人の弱い足」(7節)。「愚か
者の口にすることわざは、酔っぱらいの手に刺さるとげ」(9節)。9節は、
新改訳聖書では次のようになっています。「愚かな者が口にする箴言は、酔
った人が手にして振り上げるいばらのようだ」。訳としてはこのほうが一般
的のようです。愚か者が格言をやたらに口にすることは、無意味なばかりで
なく(7節)、むしろ危ないことであり、迷惑なことだ(9節)ということ
です。(不敬虔な人がやたらに聖書の言葉を引用するのも、似たようなこと
かもしれません)。

 「愚か者に名誉を与えるのは、石投げ紐に石を袋ごとつがえるようなもの
だ」(8節)「愚か者を雇い、通りすがりの人を雇うのは、射手が何でもか
まわず射抜くようなものだ」(10節)。8節の後半は、「石投げ紐に石を
結びつける」というのが直訳です。石投げ紐は、石を投げるためのものです。
それに石を結びつけたら飛びません。愚かなことです。そのように、愚か者
に名誉を結びつけるのは、それこそ愚かなことだ、ということです。同様に
愚かなこととして語られているのは、愚か者を雇うことです。それは通りす
がりの人を雇うようなものであり、射手が何でもかまわず射抜くようなこと
に比べられています。

 「犬が自分の吐いたものに戻るように、愚か者は自分の愚かさを繰り返す
」(11節)。この格言は新約聖書にも引用されています(2ペトロ2・2
2)。意味は明白で、特に説明を要しないでしょう。

 さて、このように、愚か者に対する厳しい言葉が続くのですが、12節で、
驚くべきどんでん返しが起こります。「自分を賢者と思い込んでいる者を見
たか。彼よりは愚か者の方がまだ希望が持てる」(12節)。これまで繰り
返し「愚か者」が問題とされてきたのですが、それよりももっと質が悪く、
始末に負えないのはどのような人か――それは「自分を賢者と思い込んでい
る者」だというのです。そのような者に比べれば、愚か者のほうがまだ希望
がある、というのです。どうも、この12節にこそ、この一連の格言の主眼
点がありそうです。いわば、これまでに書かれていたことは、この12節に
至るための準備であったとも言えるでしょう。

 実際、この説教をここまで読む間に、皆さんは何を考えて来られましたで
しょうか。私たちがこの聖書箇所を読みます時、どのような事が起こって来
るでしょうか。いつの間にか、この「愚か者」を他人事のように考え、具体
的に誰かの顔を思い浮かべて読んでいるかもしれません。それは、神に対す
る不遜な不敬虔な言葉を繰り返す家族の誰かであるかもしれませんし、信仰
に関して意地悪な質問を繰り返す、身近な友人かもしれません。あるいは神
を畏れず、悪を悪とも思わず、平気で不道徳なことを繰り返す知人の誰かか
もしれません。そのような事を考えている内に、私たち自身は、いつの間に
か自分を賢者の位置につけているものです。しかし、聖書は言うのです。そ
のような私たちよりも、「愚か者の方がまだ希望が持てる」と。

 主イエスがファリサイ派の人たちに言った言葉が思い起こされます。「今
あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」(ヨ
ハネ9・41 聖書協会訳)。