「人間の尊厳」
2003年6月22日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 創世記1・27
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。 男と女に創造された」(27節)。これが今日、私たちに与えられている御 言葉です。この御言葉は、私たちが神の被造物であることを教えています。 しかも、神にかたどって造られた被造物であると教えています。そして、神 にかたどって創造されたということと、男と女に創造されたということの間 には、何らかの関係があることが示されています。私たちは今日、このこと の意味を良く考えたいと思います。
●神によって創造された
第一に、私たち人間は神の被造物であると聖書は教えています。これは私 たちにとって何を意味しているのでしょうか。
創世記第一章には、神の天地創造の御業が物語られております。一読して 分かりますように、万物の創造は、「神は言われた」「そのようになった」 という単純な繰り返しによって表現されております。しかし、人間の創造の 段に至って、私たちは例外に出会います。そこでは次のように物語られてい るのです。「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。 そして海の魚、空の鳥、家畜、地を這うものすべてを支配させよう」(26 節)と
。 ひとりの神が「我々」と語るのは奇妙な感じがしますが、とりあえずはこ れを、天使たちに囲まれた神の姿を念頭に置いた表現、あるいは神の偉大さ の表現と見ておくことにしましょう。いずれにせよ、ここで重要なのは、 「人を造ろう」という言葉です。ここには神の意志による決断が殊更に言い 表されております。人間、すなわち私たちの存在の根拠は、神の意志的な決 断にある、ということが強調されているのです。簡単に言うならば、私たち が存在するのは、神がそう望まれたからだ、ということです。私たちは神に 望まれて存在しているのです。
この言葉が私たちにとって決定的に重要な意味を持つのは、一般的にその ようには考えられていないからです。この世においては、しばしば「子供を つくる」という表現が用いられます。そして、実際、今日人工授精などの操 作は、珍しいことではなくなりました。それゆえに、子供の存在の根拠は、 その親、あるいは他の人間の意志的な決断にあるかのように考えられてしま います。
その結果、どのようなことが起こってくるでしょうか。ある人間が存在す る意味があるか否かを、人間が判断し、人間が決定する、ということが起こ ってまいります。人間を「つくった」のが人間の意志によるならば、人間の 存在の意味を決めるのも人間であることになるからです。そして、実際、 「私なんて存在する意味なんてない。存在しない方が良い」と考える人もい れば、「あんな人、いない方が良いのに!」と心の中で叫んでいる人もおり ます。その判断が実行に移されれば、自殺にせよ他殺にせよ、殺人が起こり ます。これが、人間の意志を存在の根拠とすることの結果です。
しかし、聖書の使信は、その見方に真っ向から対立いたします。人間の存 在の根拠は、神の意志的な決断にあると語るのです。あなたは神に望まれて 存在しているのだ、と聖書は語るのです。だから、私たちは、自分について も、他の誰かについても、決して「いない方が良い」と言ってはならないの です。人間は病気になることもあります。怪我をすることもあります。今ま でできたことができなくなることも起こり得ます。役に立てた人が役に立て なくなる。むしろ、周囲の重荷になることもあります。しかし、決して、 「いない方が良い」と言ってはならないのです。なぜなら、人間は自分で自 分を造ったのでもないし、周りの他の人間が造ったわけでもないからです。 私たちは、神の被造物なのです。私たちが存在するのは、神がそう望まれた からなのです。
●神にかたどって創造された
そして、第二に、聖書は、私たち人間について、「神にかたどって創造さ れた」と語ります。それは私たちにとって、何を意味しているのでしょうか。
この部分は、直訳すれば、「神の像(かたち)に創造された」となります。 その「神の像」とは、そもそも一体何を意味するのでしょうか。この「神の 像」は、しばしばラテン語で「イマゴ・デイ(Imago Dei)」などと表現され、 今日に至るまで多くの議論がなされてきた言葉です。ここでその議論に立ち 入ることはできません。今日は、単純に一つのことを考えることに留めまし ょう。
二ヶ月ほど前まで、イラクのバグダッドにはサダム・フセインの像が立っ ていました。(フィルドス広場に立つフセインの像が倒されて市内を引きず り回される場面が繰り返しテレビで放映されていました。)あの像がまだ立 っていた時、人々はそれを指して単に「銅像だ」とは言わなかったに違いあ りません。「フセイン大統領だ」と言ったことでしょう。もちろん、あの銅 像はフセインの実物と同一ではありません。しかし、あの銅像は、実際にサ ダム・フセインとイラク全土に対するその支配を、その存在をもって表現し ていたのです。
私たちが、神の像として創造されたということも、同じように考えること ができます。一方において、銅像とフセインが同一ではないように、人間と 神とは同一ではあり得ません。そこには限りない距離があります。人間は被 造物であって、創造者と同一ではありません。人間は神にはなりません。し かし、もう一方において、人間は神とその支配を、その存在をもって表現す るために、この世界の中に置かれています。私もあなたも、本来、神を表現 する像として、この世に存在しているのです。神がそう望まれたのです。
この神の「像(ツェレム)」という言葉は、彫像や塑像を表す言葉であり、 聖書においては、しばしば偶像を指す言葉でもあります。イスラエルの民に は、偶像礼拝禁止の戒めが与えられていたことを思い起こしてください。神 は、人間の手によって作られた像をもって御自分が表現されることを禁じら れました。偶像によって、神は表現され得ないのです。しかし、もう一方に おいて、生きている人間が神の像なのだ、そのような神の像として創造され たのだ、と聖書は語っているのです。
この使信は、この聖書箇所の時代的な背景を考えると、特別な意味合いを 持って響いてまいります。この詩文による天地創造物語が記されたのは、紀 元前6世紀、戦争で国を失いバビロニアへと移された捕囚の民が、礼拝で用 いるためであったと言われます。その頃、捕囚民が目の当たりにしていたの は、巨大なバビロニアの神々の神殿であり、神々の像が人々の手によって運 ばれる、華やかな祭儀でありました。貧しく惨めな捕囚民が、戦勝国である バビロニアの神々とその偶像に心惹かれていったとしても、不思議ではあり ません。しかし、そのような人々に、この物語は力強く訴えかけていたので す。「繁栄と力の偶像に心惹かれてはならない。むしろ、何もかも失ってし まった、貧しく惨めで見窄らしい、そんなあなたがたの存在そのものが神の 像なのだ。創られた人間そのものが、バビロニアをも支配する天地の創り主 の像なのだ」と。「神にかたどって創造された」――それは戦争によって人 間の尊厳など吹き飛んでしまった時代にあって、なおも人々が人間としての 尊厳をもって生きる土台でありました。そして、それは今日の私たちにとっ ても同じなのです。
●男と女に創造された
そして最後に、「男と女に創造された」と書かれていることの意味を考え たいと思います。
男女の別、雌雄の別があるのは、何も人間だけではありません。しかし、 ここでは他の動物の創造において語られなかったことが語られております。 人間の創造が、単数の人間の創造として語られると共に、あえて複数の人間 の創造として語られているのです。この複数の人間は、当然のことながら、 全く無関係の二者ではありません。「男と女に創造された」という言葉にお いて想定されているのは、この二人の間の結婚関係であり、そこから生じる 家庭です。彼らは、共に生きる二人の人間に他なりません。そして、「二人 の人間として創造された」ではなく、「男と女に創造された」とありますよ うに、神は初めから彼らを互いに異なる者として創造されました。その意味 において、ここで創造された「男と女」は、この世界において異なる人と人 とが共に生きる、ありとあらゆる関係を代表していると言って良いでしょう。 異なる者たちが愛し合って共に生きる。そのような存在として、神は人間を 創造されたのです。
そして、この「男と女に創造された」という言葉は、「神にかたどって創 造された」という言葉に続けて語られているのです。人間が神を表す神の像 であるのは、単独の人間としてではなく、他者と共に生きる人間としてであ る、ということです。人間は単に神との関係のゆえに「神の像」なのではあ りません。本来、他者との関係があって、人は「神の像」なのです。なぜな ら、「神は愛だからです」(1ヨハネ4・7)。神は溢れ出る愛をもってこ の世界を創造されました。神は溢れ出る愛をもってこの世界を存在へと呼び 出されました。そして、その神の愛による創造と、神の愛による支配とを、 この世界の中に表現する像として、人間は創造されました。それゆえに、神 の像として創造された人間の本質は、愛における交わりにあるのです。
そのように、他者との関係があって、人は初めて「神の像」であるならば、 人間の尊厳もまた、他の人間との関係があって、初めて語ることができると 言えるでしょう。他者と生きることを放棄する時、愛することを放棄する時、 人間はその尊厳をも失うのです。
最後に新約聖書を一箇所お読みいたします。「だから、以前のような生き 方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底か ら新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づ いた正しい清い生活を送るようにしなければなりません。だから、偽りを捨 て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一 部なのです」(エフェソ4・22‐25)。私たちが人間であるかぎり、形 式的には神の像は残っていると言えます。しかし、神の像の実質は、罪のゆ えに失われてしまいました。それゆえに、ここでは「神にかたどって造られ た新しい人を身に着けよ」と語られているのです。キリストは、失われた神 の像を回復するために来てくださいました。キリストは、神にかたどって造 られた新しい人を、私たちに身に着けさせてくださいます。キリストは、私 たちを特別な人間にするために来られたのではありません。神に創造された 本来の人間にするために来られたのです。