「共に並んで立つ者として」
2003年6月29日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 箴言8・31、フィリピ4・8
●共に創造された人間として
イスラエルの民は、常に異なる宗教と文化を持つ諸国民との関わりの中に 置かれていました。ソロモン王の時代、周辺諸国との貿易は盛んに行われる ようになり、急速に国際化が進みました。ソロモン王の後、王国は分裂し、 やがて北王国はアッシリアによって滅ぼされ、南王国はバビロニアによって 滅ぼされます。生き残ったイスラエルの民は、固有の国土を失い、異教の大 国の支配下に置かれました。こうして、イスラエルの民は、バビロニア、ペ ルシャ、ギリシャの支配のもとに生き続けたのです。そのように諸国民との 関わり、あるいは諸国民の支配下に置かれている民として、イスラエルがそ のアイデンティティを保ち続けることは何よりも重要なことでありました。 彼らは自分たちが何者であるかを、常に心に留めねばならなかったのです。
それゆえに、聖書はイスラエルの父祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブ について語ります。聖書はイスラエルの出エジプトについて語ります。聖書 はシナイ山における主との契約について語ります。聖書はイスラエルに与え られた律法について語ります。聖書は来るべきイスラエルのメシアについて 語ります。これら全てにおいて、《神の選び》ということが非常に重要なこ ととして語られます。イスラエルは、他の民族とは異なるのです。イスラエ ルはイスラエルであることを忘れてはならず、他の民族とは異なることを忘 れてはならなかったのです。
さて、同じように教会もまた、この世界において、様々な異なる宗教と文 化を持つ人々との関わりの中に置かれております。この国において、いまだ キリスト者は全人口の一パーセントに満たない少数者であり続けています。 教会が置かれている地域の住民のほとんどはキリスト者ではありません。私 たちが日常生活を共にし、仕事を共にしている人々は、ほとんどの場合キリ スト者ではありません。そのような国に存在する教会として、教会がキリス トの教会としてのアイデンティティを保ち続けることは極めて重要なことで す。
それゆえに、私たちは、キリストに目を向け続けます。キリストの物語を 語り続けます。キリストの受肉、十字架、復活、昇天、支配、再臨を語り続 けます。私たちは洗礼と聖餐を重んじます。私たちは、そのキリストの体の 部分であることを言い表します。教会はキリストの体であり、キリスト者は その体に属する者です。この世はキリストの体ではありません。そこには区 別があります。私たちは、この世も教会も同じだとは言いません。教会は教 会としての意識を持ち続けねばなりません。キリスト者は自分がキリスト者 であることを意識せねばなりません。
しかし、その一方において、私たちは、旧約聖書の中に、「箴言」のよう な書物が含まれていることも見落としてはなりません。イスラエルの民の選 びと使命、そしてイスラエルに与えられた特別な神の啓示について語る旧約 聖書の中に、その同じ聖書の中に、箴言もまた含まれているのです。既にこ の二ヶ月間、この書を読んできてお気づきのことと思いますが、箴言には全 くイスラエルへの言及がありません。(唯一の例外は冒頭の「イスラエルの 王、ダビデの子、ソロモンの箴言」だけです。しかし、これは表題です。) 箴言はイスラエルにではなく、人間に、そして世界に目を向けます。箴言に 書かれていることは、基本的に、何もイスラエルの民だから心に留めなくて はならないのではありません。この世界に生きる者として、人間として、耳 を傾けるべき言葉なのです。
例えば、「明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないの だから」(27・1)という格言があります。このことについては、イスラ エルの民であろうがなかろうが関係ありません。日本にいる私についても、 あなたについても言えることです。実際、箴言の中には「マサの王レムエル が母から受けた諭しの言葉」(31・1)なるものも含まれております。マ サは歴代誌によりますとイシュマエルの子ですから(歴代誌上1・29)、 アラビアの方の一部族であると考えられます。それゆえに、この部分をアラ ビアの格言集からの引用であると考える人もおります。また、「箴言」と古 代エジプトの知恵文学である「アメン・エム・オペトの教え」との密接な関 係も、今から80年も前から論じられてきたことです。
そのように、箴言の中には、イスラエルの伝統という文脈から生まれてき たのではない、むしろイスラエル以外の国々において生まれた格言が少なか らず導入されているものと思われます。イスラエルの人々にとって、外国人 と共通した格言を持つことや、外国で生まれた格言に手を加えて取り入れる ことは、一向に問題ではなかったのです。なぜでしょうか。箴言においては、 神による《救済》ではなく、神による《創造》ということに目が向けられて いるからです。
例えば、先ほどお読みしました、8章31節には、次のように書かれてお りました。「主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に 楽しむ」。「主(ヤハウェ)」はイスラエルをエジプトから導き出された神 です。イスラエルに御自分を啓示された神です。しかし、その主が天地の創 造主であると信じるということは、その信仰の視野に「主の造られた地上の 人々」(直訳は「神の地である世界」)が入ってくるということでもありま す。主とイスラエルの関係ではなくて、主と「人の子ら」の関係が視野に入 って来るということです。そこでは当然のことながら、イスラエルと他の人 々との違いよりも、むしろ人間として共通のことに目が向けられることにな ります。神に造られた人間としてイスラエルの民も諸国民も同じ地平に立つ のです。
●共に並んで立つ者として
さて、先ほども申しましたように、教会が教会としての意識を持ち続け、 キリスト者がキリスト者であることを意識し続けることは重要なことです。 しかし、教会が教会のことだけを考え、それだけで完結しているとするなら ば、それは悪しき教会主義であり、極めて不健全なあり方であると言えるで しょう。なぜなら、教会はこの世に遣わされているからです。イエス・キリ ストの父なる神は、イエス・キリストをこの世に遣わされた方であり、キリ ストを頭とする教会もまた、この世に遣わされたものとして、この世の中に 存在するのです。教会は神の言葉を宣べ伝えるものとして、この世界と向き 合います。キリスト者は伝道する者として遣わされ、この世の他の人々と向 き合って立つのです。
しかし、それだけで十分ではありません。箴言が私たちに教えているのは、 もう一つの立ち方です。父なる神は、イエス・キリストを遣わされた救済の 神であると同時に、天地を創られた創造の神であると私たちは信じているの です。そこでは創造された人間と世界が視野に入ってまいります。そこでは 教会とこの世の違い、キリスト者と非キリスト者の違いよりも、むしろ共に 主によって造られた人間として共通のことに目が向けられることになります。 キリスト者はただ向き合って立つだけでなく、同じ人間として共感しながら 共に並んで立つのです。実際、それこそ、キリストが私たちに対して行って くださったことではありませんか。キリストは、人間として、私たちと同じ 地平に立ってくださったのです。それゆえに教会が世に遣わされるのも、キ リスト者が世に遣わされるのも、人間として人間に遣わされるのです。
そのような、箴言の教える私たちの《立ち方》との関連で思い起こされる のは、今日もう一箇所お読みしましたフィリピの信徒への手紙4章8節のパ ウロの言葉です。「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高い こと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名 誉なことを、また、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい 」(フィリピ4・8)。
ここで語られています「真実なこと」「気高いこと」「正しいこと」云々 といった徳目は、ギリシアの思想家による徳目表の中にすべて見い出される ものです。特に、「徳」と訳されている《アレテー》という言葉は、もとも と物事固有の長所や卓越性を意味しました。例えば、畑の土や良いことや、 刀が良く切れることなどです。そのように個々の人間についてもアレテーと いうことが考えられます。これはギリシアの道徳思想において重要な言葉で ありました。ともかく、パウロがここで教会の中のことを言っているのでは なく、フィリピの教会が置かれている異教的な社会、キリスト者が生まれ育 ってきた異教的環境を念頭に置いていることは明らかです。そこにアレテー を見出したら、それを心に留めなさい、と言っているのです。
このパウロの言葉は、私たちにとって大きな意味を持っています。という のも、私たちは知らず知らずの内に、非常に傲慢になっているものだからで す。その昔、留学先において宣教師大会に参加した内村鑑三が、当時の海外 宣教のあり方について次のように書いています。「実際、ミッションの本義 はただ異教徒の暗黒を基督信徒の光明と比較して描くことによってのみ支持 され得るものと想像しているかと思われる或る人々がある。そこで彼らは異 教徒をまっ黒な正方形によって、プロテスタント基督信徒を白色正方形によ って示す図表を作る。伝道用の雑誌、論評、新聞は、いずれも異教徒の不幸、 堕落、はなはだしい迷信の物語でいっぱいである、そして彼らの高貴性、神 聖性、きわめてキリストらしい性格についての物語はほとんどその紙面に現 れない。…」(「余は如何にして基督信徒となりし乎」)。このようなこと は何も海外宣教の話だけではありません。身近な伝道において、私たちもま た、そのような「或る人々」と同じになっているかも知れません。伝道熱心 な人ほど、そうなりやすいものです。
先に申しましたように、私たちが日常生活を共にし、仕事を共にしている 人々は、ほとんどの場合キリスト者ではありません。そこには未信者の夫、 未信者の妻、未信者の同僚や友人たちが共にいます。そこでそれらの方々に 対して、キリスト者として向き合うことは大事ですが、しばしばもっと重要 なことは、神に創造された者として、同じ人間として、共に並んで立つこと であるかもしれません。そして、身近なそれらの方々の中に、パウロが言い ますように、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、す べて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や賞賛 に値することを見出してそれを心に留めることだろうと思うのです。そのよ うに同じ人間として共に立ってこそ、人間に与えられたキリストの救いの恵 みもまた共有されていくことになるのです。
このように、これまで礼拝で読んできました箴言は、私たちが教会として、 キリスト者として、この世の中にどのように立つかということを教えてくれ る書物でもあるのです。