「献堂10周年を記念して」

                         ローマ12・1‐2

 1993年7月4日。岡町に建てられた新しい礼拝堂にて、第一回目の礼
拝が献げられました。それから10年の歳月が流れ、この七月第一聖日に、
献堂10周年の記念の礼拝を御前に献げようとしております。あの日、この
場所における最初の礼拝において読まれましたのは、ローマの信徒への手紙
12章の御言葉でした。そして、10年後の今日、この礼拝において再び同
じ御言葉が朗読されました。この礼拝に集まられた方々の大部分は、あの日、
この場所にはおられなかった方々です。それらの方々には、あの最初の礼拝
において語られた御言葉をぜひ共有していただきたいと思います。そして、
あの日ここにおられた方は、その時主がお語りくださったことを、ぜひ思い
起こしていただきたいと思うのです。


●体を献げなさい

 さて、「献堂」という言葉によって表現されていますように、この場所は
主に献げられた場所です。主を礼拝するために献げられた場所であります。

 10年前まで、この群れは、ここから少し離れた服部会館で聖日礼拝を行
っておりました。そこは普段は葬式などに使われる場所でありました。日曜
日でも、午前中に葬式が入れば移動しなくてはならない。そのようば場所で
ありました。日曜日の朝、私たちはその場所を整え、椅子を並べ、聖餐卓と
してのテーブルを置き、説教台を据え、礼拝の場を作りました。(今日、私
たちの礼拝堂にあります聖餐卓の形はその名残です。この聖餐卓は、かつて
服部会館において聖餐卓として使っていました会議用スチールテーブルをか
たどって作ってあります。)そして、礼拝が終われば、すぐに場所を元どお
りに戻さねばなりません。それは小さな群れにとって、労苦を伴うことでし
た。しかし、教会の皆さんは労苦を惜しみませんでした。この群れは、礼拝
を相応しく捧げるために、労苦を惜しまない群れでありました。

 この礼拝堂が建設され、献堂されたのも、その礼拝に対する熱情のゆえで
ありました。一々椅子を並べないで済むように、ということではありません。
楽をするためではありませんでした。ただひとえに、礼拝を相応しく捧げた
いという、その思いによって、この礼拝堂は建設されたのです。実際、会堂
建設は大きな労苦と犠牲を伴う作業でありました。皆は、具体的に財を献げ、
時間を献げ、労力を献げ、礼拝堂の建設計画に携わりました。こうして、こ
の礼拝堂は、主に献げられたのです。この群れは、礼拝を相応しく捧げるた
めに、労苦を惜しみませんでした。それは今日においても変わらないと私は
信じております。

 パウロは、今日読まれた聖書箇所において、私たちのなすべき礼拝とは、
《自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる》ことだと言
っております。礼拝とは「献げる」ことです。礼拝とは献身です。ここで毎
週行われているのは、讃美歌付きキリスト教講演会ではありません。自分自
身を献げることが中心です。献金奉仕者が「これは私たちの献身のしるしで
す」と祈るのは、単なる決まり文句ではありません。献金は確かに具体的な
献身のしるしです。なぜなら、献金に象徴されていますように、体を献げる
とは、単に心を献げることとは違うからです。体を献げるとは、この体が関
わる具体的な生活を献げることに他ならないからです。

 実際、週ごとの礼拝を捧げ続けるということは、具体的に生活を献げるこ
となくしてあり得ないことです。生活を主のために整え、礼拝のための時間
を作り出し、その時間を献げるということでなければ、礼拝を捧げ続けるこ
とはできません。また、時間そのものを本当の意味で主に献げ、主のものと
して聖別するのでなくては、毎回遅刻をしないで時間どおりここに集まると
いうこともできないでしょう。また逆に言えば、そのような礼拝こそ、日曜
日だけでない、全生活に渡る献身へと、私たちを導くものとなるのです。

 そして、そのように、体を献げて神を礼拝する者となることこそ、神を信
じて生きることに他ならないのです。神を信じて生きるということは、単に
「神は存在する」と信じていることではありません。そんなことなら、悪霊
どもでさえ信じています(ヤコブ2・19)。神を信じて生活をするという
ことは、好きな時に聖書を開き、お祈りをし、敬虔な気分に浸ることではあ
りません。神に体を献げて、神を礼拝して生きることであります。そのよう
な献身としての礼拝のためにこそ、この場所は献げられているのです。


●神の憐れみによって

 しかし、私たちが心に留めなくてはならない、もう一つの大事なことがあ
ります。私たちの献身としての礼拝が成り立つのは、単に私たちの《献身的
な思い》や《礼拝に対する熱情》や《相応しい準備》によるのではない、と
いうことです。

 「自分の体を…献げなさい」という勧めは何に基づいてなされているでし
ょう。パウロは「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」と言っている
のです。礼拝が成り立つのは、私たちの側の何かによるのではなくて、ただ
神の憐れみによるのです。このパウロの勧めは、神の憐れみによって語られ
得るのです。このことを忘れてはなりません。

 さらに言いますならば、神の憐れみとは何であるかと問います時に、そこ
には「こういうわけで」と書かれております。「こういうわけで」とは、ど
ういうわけでしょう。それは当然の事ながら、前に書かれていることを指し
ています。1章から11章までに書かれていることを指しているのです。そ
こに書かれていますのは、イエス・キリストの十字架と復活を通して与えら
れている神の救いについてです。ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、
すべて信じる者を義とし、新しい命に生かし、神の栄光に与かる希望に生か
してくださる神の救いの御業を指して、「こういうわけで」と言っているの
です。

 それは、イエス・キリストを通して表された神の愛を指している、と言っ
ても良いでしょう。8章38節以下には、このように勧めているパウロの確
信が次のように書かれておりました。「わたしは確信しています。死も、命
も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたした
ちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離
すことはできないのです」(ローマ8・38‐39)。この神の愛、私たち
を救ってくださる神の愛の御業によって礼拝は成り立っているのです。

 実際、この礼拝堂そのものが、その事実を示しています。前面には聖餐卓
があります。牧師がその後ろに立つことによって、私たちは聖餐卓を囲んで
礼拝をしております。聖餐卓は聖餐のためにあります。聖餐はキリストの体
と血とに他なりません。それはキリストの十字架による罪の贖いを指し示し
ます。礼拝が聖餐卓を囲んで行われるということは、このキリストによる罪
の贖いなくして礼拝が成り立たないことを示しているのです。

 私たちは、いつでも聖餐卓を囲んで礼拝していることを忘れてはなりませ
ん。そうでないと、礼拝に関わることにおいてさえ、私たちは傲慢になりま
す。私たちが献げるものは受け入れられて当然であるかのように、いつの間
にか傲慢にもそう考えてしまうのです。

 実際、そうではありませんか。献金を献げれば受け入れられて当然。それ
が労苦して蓄えたお金であったり、生活を切りつめて献げたお金であれば、
なおさらそのように思うものでしょう。賛美を献げれば受け入れられて当然。
聖歌隊の方々のように、一生懸命に練習し、準備してきたのなら、なおさら
そう思うものでしょう。様々な奉仕は神に受け入れられて当然。そのために
時間を割き、苦労して奉仕しているのなら、なおさらそのように思うもので
しょう。もし、それが受け入れられなければ、あの旧約聖書のカインのよう
に、烈火のごとく怒って顔を伏せるかもしれません(創世記4・5)。しか
し、忘れてはなりません。私たちの礼拝は、私たちの献身は、聖餐卓があっ
て初めて成り立つのです。すなわち、キリストの十字架と復活があって、そ
こに現された神の愛があって、初めて成り立つのです。

 私たちはここでパウロが、「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献
げなさい」と語られているこの言葉を、文字通りに、重く受け止めねばなり
ません。「神に献げるのだから、私たちに為しえる最高のものを献げるべき
だ」と言われます。そのような心は大事です。神に献げるのに、いい加減な
ものを献げて良いはずがありません。しかし、もう一方において、私たちが、
為しえるところの最高のものを献げたら、それがそのまま《神に喜ばれる》
《聖なる》いけにえになるなどと考えたら、それはとんでもない思い上がり
です。本当の意味において、《神に喜ばれる》《聖なる》という言葉を冠し
得るのは、ただイエス・キリストの犠牲だけです。罪のないあの御方が御自
分の体を献げられた、あの犠牲だけです。

 イエス・キリストではない、私たちの体が、この体が関わるすべての営み
が、「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして」献げられ得るとするなら
ば、それは神が憐れみをもってそのように受け入れてくださるからに他なり
ません。それはただ神の赦しによるのです。私たちは、あの完全なる犠牲を
献げられたキリストと結ばれ、一つになって、神に赦されて、受け入れてい
ただくのです。

 しかし、実は、ここにこそ、礼拝の生活における最大の喜びがあるのです。
私たちがこの体を伴って生きるこの人生に与えられた最大の喜びがあるので
す。私たちが、この私たちのような者が、このような者の体が、その体を伴
った生活が、《神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ》として受け入れていた
だけるのです!私たちは、神の御前にあって決して無意味な存在ではありま
せん。神の裁きのもとにあって、ただ滅びていくだけの存在ではありません。
神に喜ばれる聖なる生けるいけにえです。私たちはもはや自分のものではな
く、神のものです。私たちがここで頌栄を歌い、そして祝祷を受ける時、私
たちは神に受け入れられたいけにえとして、神のものとして、再びこの世に
出ていくのです。そのような礼拝、喜ばしい礼拝のためにこそ、この場所は
献げられているのです。