「十字架につけられたキリスト」                      1コリント1・26‐2・5  今日与えられています聖書箇所において、私たちは特に2章2節の御言葉 に注目したいと思います。「なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス ・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に 決めていたからです」(2・2)。このパウロの決心は、今日の私たちに、 何を語っているのでしょうか。 ●神の前で誇ることがないように  その直前には、こう書かれております。「兄弟たち、わたしもそちらに行 ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いま せんでした」(2・1)。パウロがこのことを語るのは、もう一方で、優れ た言葉や知恵をもって語る人々がいたからでしょう。しかし、もちろん優れ た言葉や知恵そのものが悪なのではありません。問題はそれが人間の《誇り 》と結びつく時に生じてまいります。ですから、その前の段落において、人 間の誇りに関わる問題が取り扱われているのです。  パウロはそこでコリントの信徒たちに、「あなたがたが召されたときのこ とを、思い起こしてみなさい」(1・26)と勧めています。そして、人間 的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよ い者が多かったわけでもなかったことを指摘するのです。それは誰の目にも 明らかな事実でありました。そのような彼らが召されてキリスト者とされた のです。神はあえて彼らを選ばれたのでした。それは何のためだったのでし ょうか。それは知恵ある者や力ある者に恥をかかせるためであり、地位のあ る者を無力な者とするためだったのだ、とパウロは言います。これは過激な 言葉です。しかし、それが最終的な事柄ではありません。神の意図しておら れたのは、「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするため」(1・2 9)ということでありました。  さて、ここでなぜ「神の前で誇ることがないようにするため」ということ が、あえて大事なこととして語られねばならなかったのでしょうか。それは 単に、神の前で誇ることが神に対する不遜であり傲慢なことだ、ということ ではありません。実は、差し迫った実際的な問題が生じていたのです。1章 10節を御覧ください。そこでは「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、 心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」と勧告されています。 そのように、この書の1章から4章までは、コリントの教会において生じて いた具体的な不和や仲間争いの問題が取り上げられているのです。そのよう な文脈において、「誇ることがないようにするため」という神の意図が語ら れているのです。  《争い》と《誇り》。これらの間には密接な関係があります。それはパウ ロが語るまでもなく、私たちが経験的に知っていることであります。この世 の様々な争いや不和が生じたり、あるいはいつまでも解決しないのは、多く の場合、私たちが自分の誇りにしがみつき、自分をあくまでも他者より高い 位置に留め置こうとするゆえであると言えるでしょう。  しかし、パウロは一般的な不和や争いについて語っているわけではありま せん。そうではなくて、そのようなことが教会の中において起こっているこ と、まさに神の前に生きていることを自覚している礼拝共同体の中に起こっ ていることを問題にしているのです。  そうです、争いは神の御前において起こっているのです。人は、神の前に おいてさえ自らを誇るものだからです。実際この書簡の中に取り上げられて いるように、具体的な信仰生活に関わることでさえ、礼拝に関わることでさ え、人は神の御前において自らを誇り、自分を他者より高い位置に置こうと するものです。それゆえに、神の前においてさえ、争いが生じるのです。も ちろん、そのようなことは教会の中だけでなく、より小さくは、個々のキリ スト者の家庭においても起こります。複数のキリスト者が共に生活すること ができるのは大きな神の恵みです。しかし、その神の御前において、他者に 対して自らを誇る者であるならば、未信者の家庭以上の争いが生じることも あり得ます。いずれにせよ、そのような具体的な問題を前にしながら、パウ ロはここで、「だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」と 言っているのです。 ●誇る者は主を誇れ  しかし、彼はただ否定的な表現のみを与えているのではありません。誇ら ないことよりも重要なことがあります。それは何を本当に誇ったら良いのか を知ることです。パウロはは言います。「神によってあなたがたはキリスト ・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、 義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおり になるためです」(1・30‐31)。  「誇る者は主を誇れ」。これはエレミヤ書からの引用です。文字通りでは なく要約してあります。もともとは、こう書かれています。「主はこう言わ れる。知恵ある者は、その知恵を誇るな。力ある者は、その力を誇るな。富 ある者は、その富を誇るな。むしろ、誇る者は、この事を誇るがよい、目覚 めてわたしを知ることを。わたしこそ主。この地に慈しみと正義と恵みの業 を行う事、その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。」(エレミヤ9・22 ‐23)。ですから、主を誇るとは、主を知ることを誇ることです。  しかし、《主を知ることを誇る》ということは、方向を誤れば、それこそ 宗教的傲慢に結びつくことになります。実際、コリントのある人々は、自分 たちは特別な宗教的知識を得た人間であると見なしており、自らを《霊の人 》と呼んでおりました。しかし、主を本当の意味で知るということは、他者 より一段高い宗教的エリートになることではありません。なぜなら、主を知 るということは、《神の知恵となり、義と聖と贖いとなってくださった、キ リスト》を知るということであり、そのために《十字架につけられたキリス ト》を知るということに他ならないからです。  義と聖と贖い。これらはすべて私たちが罪人であることと関係しています。 キリストは私たちの義となってくださいました。それは私たちが罪人だから です。キリストと結ばれることは、罪人である私たちがキリストの義をいた だくことに他なりません。そうして罪人である私たちは、キリストのゆえに 義とされ、神との正しい関わりの中に入れられるのです。また、キリストは 私たちの聖となってくださいました。それは私たちが罪人だからです。キリ ストと結ばれることは、罪人である私たちが聖なるものとされることに他な りません。罪人である私たちは、キリストに結ばれて、神のもの、神に属す る者、神の民として生きることができるのです。そして、キリストは私たち の贖いとなってくださいました。それは私たちがもともと罪と死の奴隷であ ったからです。キリストは私たちのために代価を支払い、私たちを罪と死の 縄目から解き放ってくださいました。キリストに結ばれているならば、私た ちはもはや滅びに定められている者ではありません。  そして、これらすべてはキリストが十字架にかかられることを通して実現 したのです。パウロはその事実を指し示します。イエス・キリストは、《十 字架につけられたキリスト》であります。パウロはここで、あえて復活には 言及しておりません。なぜなら、ここで重要なことは、私たちを救うために キリストがどんなに低くなってくださったか、ということだからです。主を 知るということは、キリストを知るということであり、それは私たちのため に「十字架につけられたキリスト」を知ることに他なりません。それは徹底 して低きところまで降ってくださったキリストです。フィリピの信徒への手 紙においては、このキリストが次のように表現されています。「キリストは、 神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。 人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るま で従順でした」(フィリピ2・6)。  キリストを知るということは、このような十字架につけられたキリストを 知ることです。十字架は最も低いところにあるのですから、高いところでは キリストに出会えません。自分を他者より高い位置に置こうとしている限り、 十字架につけられたキリストは知り得ないのです。高いところに身を置く時、 もはやそこに十字架につけられたキリストはおられないのです。  ですから、ここでパウロはあえて、宣教の働きにおける自分の低さ、自分 の弱さを語ります。それはコリントの人たちが出会ったパウロの姿でありま した。「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、 ひどく不安でした」(2・3)と彼は語ります。ここに語られているのは弱 い惨めな姿です。大伝道者パウロというイメージからはほど遠い姿です。し かし、そのようなパウロこそ、まさに「十字架につけられたキリスト以外、 何も知るまいと心に決めていた」パウロであり、十字架につけられたキリス トと共にあったパウロだったのです。  そして、事実、そのようなパウロによって、十字架につけられたキリスト は伝えられたのでした。そのようにしてコリントの教会は誕生したのです。 パウロはその事実を次のように表現します。「わたしの言葉もわたしの宣教 も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。そ れは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるよう になるためでした」(2・4‐5)。そうです、そのようにしてコリントの キリスト者たちは、人間の低さの中に、弱さの中に現れる神の力によって、 キリストを信じたのです。まさに神の力がそのような力であるゆえに、その 力によって、十字架につけられたキリストを信じたのです。パウロはその事 実を思い起こさせようとしているのです。  私たちもまた、この十字架につけられたキリストを信じる者として、ある いは信じるように招かれている者として、ここに集められていることを忘れ てはなりません。その私たちとキリストの位置を視覚的に思い描くならどう なるでしょう。キリストは、円錐の頂点の高いところに位置するのではあり ません。キリストは、いわば円錐を逆さまにした時の、最も低い一番底にお られるのです。この方は十字架につけられたキリストですから。ならば、そ のキリストのもとにいる私たちは、それぞれ高きところに向かえばバラバラ になります。低きところにおられるキリストに向かうなら、私たちは一つと されていくのです。