「キリストの体・聖霊の神殿」
2003年7月20日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1コリント6・12‐20
今日の聖書箇所には「体」という言葉が繰り返し現れます。聖書における この「体」という言葉は、単に精神と区別された肉体を指しているのではあ りません。精神も肉体もすべて含めた人間全体を意味する言葉です。この私 の全体、それが私の「体」です。この「体」をどう理解するかは私たちにと って極めて重要です。信仰者が自分の「体」をどのように理解するかによっ て、信仰生活のあり方そのものが決まってくるからです。今日の聖書箇所に は、私たちの体に関する重要な二つの理解が示されています。第一に、私た ちの体はキリストの体の一部である、ということです。第二に、私たちの体 は聖霊が宿ってくださる神殿である、ということです。今日、私たちは、こ のように私たちの体について語られている聖書の御言葉に耳を傾け、その意 味するところを思い巡らしたいと思います。
●キリストの体の部分
初めに15節を御覧ください。「あなたがたは、自分の体がキリストの体 の一部だとは知らないのか」(6・15)とパウロは言います。「知らない のか」という言葉は、《キリスト者なら当然知っているはずである》という ことを前提としています。ですので、もし初めて耳にする方がおられました ら、これは基本的なことですので、ぜひ心に留めておいていただきたいと思 います。「教会はキリストの体である」と聖書は教えています。十字架にか けられ、復活され、天に上げられたキリストは、体を持っておられるのです。 天にではありません。この地上にです。この地上において、この歴史の中に おいて、御心を実現するための体を持っておられるのです。この世界の中に、 手や足を持っておられるのです。そのようなキリストの体、それがこの世界 の中に置かれている教会です。ですから、キリスト者であるということは、 当然のことながら、このキリストの体の一部であることを意味します。私た ちのこの体が、キリストの体の一部とされているのです。
間違ってはなりません。教会がキリストの体であるというのは、単なるも のの譬えではありません。教会とは「例えば体のようなものだ」と言われて いるのではありません。キリストの体そのものなのです。ですから、このキ リストの体については少なくとも二つのことが語られ得ます。第一に、キリ ストとその体の各部には生命的な結びつきがあります。私たちの体とキリス トは、分かち難く結び合わされているのです。この体はキリストのためにあ り、キリストは体のためにおられ、この体を生かしてくださいます。「体は みだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるの です」(13節後半)という言葉は、そのような密接な関係を表現していま す。
第二に、そのようなキリストとの関係は、一時的なものではなく永遠のも のである、ということです。それは人間の死によって限界付けられてはおり ません。なぜなら、キリストは復活された御方だからです。復活されたキリ ストは、もはや死に支配されてはいないからです。キリストが死に支配され ていないなら、キリストと結ばれている体もまた死に支配されてはおりませ ん。キリストが復活されたのですから、キリストの体もまた復活するのです。 「神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてく ださいます」(14節)と語られているとおりです。ですから、キリストの 体の一部とされた者にとって、死は既に本質的に克服されております。キリ ストと、その体の部分とは、そのような関係にあるのです。
このように、パウロは、「知らないのですか」と言って、キリスト者がキ リストの体の一部であるという基本的な教えを語り直しています。なぜでし ょう。それは取りも直さず、コリントの教会の中に、そのことをまったく知 らないか、あるいは知っていても、まるで知らないかのように生きている人 々がいたからです。それらの人々が何を考え、どのように生きていたのかは、 その直前のパウロの言葉の中に見えてまいります。そこには、コリントの教 会の中でしばしば人々の口に上った、いわばスローガンのような言葉が記さ れているのです。
その一つは12節にあります。「わたしには、すべてのことが許されてい る」という、この言葉です。要するに、「わたしは自由だ」と言っているの です。そのように語る人たちは、自分たちを特別な人間であると考えていた ようです。つまり、完全な自由を得た霊的な人間であると考えていたのです。 霊的な人間であるゆえに、物質的な世界によっては影響されない。だから、 物質的な世界との関わりにおいては、何をしようがすべてのことは許されて いるのだ、と考えていたのです。
そのような考えと関係しているのが、もう一つのスローガンです。13節 の前半です。「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれ をも滅ぼされます」。これは私たちの用いている新共同訳では鍵かっこがつ いておりません。しかし、これもまたコリントの人々の言葉をパウロが引用 しているものと考えられます。これはどういう意味かと言いますと、要する に、「喰いたいモノを喰って何が悪い」ということです。「何を食べようが、 何を飲もうが、腹も食物もどうせ滅び行くこの世に属するのであって、霊に 関わる永遠の救いとは何の関係もないのだ」と言っているのです。しかし、 彼らはこう語ることによって、単に食欲を満たすことだけを意味していたの ではありません。同じことが性欲についても言われていたのです。売春婦と 肉体関係を持って何が悪い。結婚相手以外の人とセックスをして何が悪い。 自分の体をもって楽しんで、いったい何が悪い。これらはすべて滅び行くこ の世に属することではないか。そんなことが永遠の救いに関係するものか。 そのような主張が為されていたのです。
ですから、パウロはどうしてもキリストの体について語らざるを得なかっ たのです。「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らない のか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか」(15節) と。
先に申しましたように、私たちがキリストの体の一部であるというのは、 ものの譬えではないのです。事実、私たちの体はキリストの体の一部なので す。私たちが、この体をもって行うことは、キリストと無関係ではないので す。例えば、キリスト者が姦淫を行えば、キリストの体の一部が姦淫を行っ たことになるのです。特に性的な罪は、体の最も深い人格的な部分に関わる ゆえに深刻です。パウロが「二人は一体となる」という創世記の言葉を引用 して語っているとおりです。特に、今日のこの国の状況を考える時、いかな る罪についてもそうですが、特に性的な罪の問題を軽く考えてはならないこ とは、繰り返し強調されねばなりません。
●聖霊の神殿
さて、体に関する第二の理解に進みましょう。19節には、次のように書 かれております。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただい た聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のもので はないのです」(6・19)。これもまた《知っていて当然である》という ことを前提とした言葉です。もし初めて耳にする方がおられましたら、これ もまた基本的なことですので、ぜひ心に留めておいてください。キリスト者 であるとは、聖霊の神殿である、ということなのです。
神殿とは神の住まいです。私たちの体が神殿であるとは、私たちの体が神 の住まいであるということを意味します。「聖霊が宿ってくださる神殿」と 書かれているとおりです。また、神殿とは、神を礼拝するために献げられた 建物です。神があがめられるために、神のものとされた建物です。そのよう に、私たちの体が神殿であるとは、神の栄光のために、神に献げられている ことを意味します。私たちの体が神殿であるならば、私たちはもはや自分自 身のものではありません。神のものです。「あなたがたはもはや自分自身の ものではないのです」と書かれているとおりです。
しかし、この言葉の中には、驚くべき大きなギャップがあることに気づき ます。「あなたがたの体」と「聖霊が宿ってくださる神殿」との間のギャッ プです。考えても見てください。当時、エルサレムにはまだ神殿が建ってい たのです。かつてイエスの弟子の一人がそれを見て声を上げました。「先生、 御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」(マ ルコ13・1)。それが当時建っていた神殿です。神の住まいとして、公の 礼拝の場として、神に献げられた壮麗な建物がそこにあったのです。そのも う一方に、私たちの体があります。精神も肉体も含めた、私たち自身がいま す。まことに弱さと破れに満ちた私たち、罪と汚れに満ちた私たち自身がそ こにいます。そのような私たちの全体、私たちの体を指して、あなたの体は 神殿なのだ、と聖書は言うのです。素直に受け止められますか。このギャッ プを乗り越えられますか。
私たちがこの恐るべき言葉を受け止められるとするならば、その拠り所は 一つしかありません。それは20節に書かれております。「あなたがたは、 代価を払って買い取られたのです」(6・20)。キリストが、代価を払っ て買い取ってくださいました。十字架の上で血を流し、命を与えてくださっ て、その代価をもって私たちを買い取ってくださいました。私たちの罪の負 債をすべて代わりに支払って、私たちを買い取ってくださいました。何の役 にも立たない穴だらけのあばら屋を、途方もない高額で買い取ってくださっ たのです。私たちはそれゆえに、もはや私たち自身のものではないのです。 キリストのものとしていただいたのです。そのようにキリストのものとされ て、私たちは聖霊の神殿としていただいたのです。もともと私たちが神殿と されるに相応しかったからではありません。これはすべて神の恵みの御業な のです。
「だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」とパウロは続けます。神殿 は、神が礼拝され、神の御名があがめられる場所です。神殿は、神の栄光の ために存在するのです。「だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」―― これは要するに、既に神殿とされているのだから、神殿として、その本来の 目的のために、神の栄光のために生きなさい、ということです。
「神の栄光のために生きなさい」と言われた時に、私たちは何も大きなこ とを考える必要はありません。大きなことが必ずしも神の栄光と結びつくわ けでもありません。大切なことは、「これは私の体だ。これは私の人生だ」 と主張しないことです。自分が自分自身のものではないことを、常に思い起 こすことです。そして、ごく当たり前の日常の生活において、「御名があが められますように」という祈りを、真に自分自身の祈りにしていくことであ ります。