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「わたしは門である」

2003年7月27日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ10・7‐10

                「イエスはまた言われた。『はっきり言っておく。わたしは羊の門である 』」(7節)。主はこのすぐ後で、「わたしは良い羊飼いである」(11節) とも言っておられます。「門」であり同時に「羊飼い」でもあるということ で、話が少々分かりにくくなっております。そこで、この部分は、今月と来 月の二回に分けてお話しすることにいたしましょう。今日は、キリストが 「羊の門」であるということについて御一緒に考えたいと思います。

  ●門を通らないで入る盗人や強盗

   「わたしは羊の門である」。これは羊の囲いの門のことです。朝になると 羊は羊飼いによって囲いから導き出されます。そして、夜になるとこの囲い へと導き入れられ、安全に守られます。羊飼いも羊も共に門を通って出入り します。キリストは、御自分がそのような羊の囲いの「門」であると言われ たのです。

   そのような羊の囲いの門について言及されているのは、門を通らないで入 って来る者がいるからです。それは羊泥棒です。1節にこう書かれています。 「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗 り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」(10・1)。

   パレスチナにおける羊飼いと羊の関係は、他に類を見ないほど密接である と言われます。羊飼いは羊の名を呼びます。羊もまた羊飼いの声を知ってい ます。そのような羊飼いが囲いに入って羊を導き出すとするならば、それは 羊を生かすために他なりません。一方、羊泥棒はそうではありません。羊泥 棒は羊を生かすために囲いに入ってくるわけではありません。あくまでも関 心は自分の利益のことだけです。

   さて、主イエスは、この「盗人」「強盗」という言葉をもって、誰を指し ているのでしょう。6節を見ますと、主がこのたとえを話されたのは、ファ リサイ派の人々に対してであったと説明されています。(原文では「彼らに 対して」となっていますが、9章からのつながりを考えると、新共同訳が示 しているように、彼らとはファリサイ派の人々のことです。)主イエスが、 全く関係ない第三者の話をするわけはありませんから、このたとえがファリ サイ派の人々について語られていることは明らかです。しかし、彼らはその 話が自分たちのことについて語られていることを悟りませんでした。それゆ え彼らはおとなしく聞いていたのでしょう。

   そこで、分かっていない彼らに対して、追い打ちをかけるように、「わた しより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」(8節)と主は語ります。 これも同じことです。既に存在するファリサイ派の教え、既に存在する戒律 宗教、既に存在する宗教的支配体制、それらを指して主は「盗人」「強盗」 であると言っているのです。つまり、彼らの教えが本当の意味で神の羊を生 かすことにならないし、彼らはそもそも羊を生かすために働いているわけで もない、ということを痛烈に批判しているのです。

   さて、このようなことが福音書に書かれているのは、何もファリサイ派の 教えが根強く後々まで問題として残ったからではありません。「盗人」や 「強盗」は、いつの時代であっても、形を変えて入り込んでまいります。実 際、教会はその始めから、この問題に悩まされることになりました。パウロ の手紙を読みますと、繰り返し繰り返し、偽教師たちへの言及が見られます。 本当の意味で羊を生かさない、命をもたらさない教え、いやむしろ命を奪っ て殺してしまうような教えが、様々な形を取って入り込んでいたのです。そ れは今日においても同じです。このような情報過多の時代にあって、種々の メディアを通して、私たちの耳に常に多くのメッセージが押し寄せてまいり ます。それらが入って来ないように、この世と断絶し、自分自身を隔離する わけにもいきません。

   だから見分けることが重要になってくるのです。聞き分けなくてはならな いのです。「しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった」(8節)と書か れています。そのように、盗人や強盗に導かれないことが大事なのです。

   そこで問題は、真の羊飼いと盗人の違いはどこにあるか、ということです。 その違いは、彼らが《どこを通って入って来るか》にあると主は言われるの です。羊飼いは門を通って入り、その門を通っていくように羊を導きます。 盗人は門を避けて他のところから入り、羊を門以外のところから連れ出すの です。その門とは何でしょう。キリストは言われるのです。「はっきり言っ ておく。わたしは羊の門である」(7節)と。キリストが門なのです。問題 は、キリストを通って入ってくるかどうか、キリストを通るように導いてい るかどうか、ということにあるのです。そこを見なくてはならないのです。

  ●門を通って入る者は救われる

   では、キリストを通るとはどういうことでしょうか。さらにキリストはこ う言われました。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。 その人は門を出入りして牧草を見つける」(9節)。その門は救いの門であ ります。また、その救いに与った者が、日々養いを受け、豊かな命に生きる ための門であります。キリストはそのような門であると言われるのです。し かし、そのような羊の門となるために、キリストの考えておられたことがあ ります。門であるキリストは、同時に「良い羊飼いである」と言われるので す。良い羊飼いは羊のために命を捨てます。キリストが考えておられたのは、 羊のために命を捨てることでした。誰かに命を奪われるのではなく、自ら羊 への愛のために命を捨てることであり、しかもその命を再び得ることです。 18節にこう書かれているとおりです。「だれもわたしから命を奪い取るこ とはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもで き、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟であ る」(18節)。

   命を捨てる。そして再び受ける。これは明らかにキリストの十字架と復活 を指しています。キリストは、「わたしは羊の門である」と言われました。 その羊の門であるキリストは、さらに言いますならば、十字架にかかられ、 復活されたキリストのことです。さらに厳密に規定しますならば、それは 《私たちの罪を贖うために十字架にかかられ、復活されたキリスト》であり ます。これこそが羊の門であり、救いの門なのです。

   この羊の門を通らないで入ってくる教えとは、要するに、罪の贖いを必要 としない、十字架と復活を必要としない救いの教えのことです。自己義認と 自力救済の教えは罪の贖いを必要としません。ファリサイ派の教えは、まさ にそのようなものでした。それによれば、人は律法を守って救われるのです。 人はその善き行いによって永遠の命に至るのです。もしそうならば、罪の贖 いは必要ではありません。また、後にグノーシス主義と呼ばれるようになっ た異端も同じです。特別な知識を得た宗教的エリートが救われるのです。そ れは形を変えた自力救済の宗教です。ならば、罪の贖いは必要ではありませ ん。あるいは、今日、教会の門を叩く人、聖書を読もうとする人も、次のよ うに考えているかもしれません。《聖書には良いことが書かれている。良い ことを学べば、良い人間になれるのではないか。そして、良い人間になれば 救われるのではないか。イエスという人は愛の人だった。このイエスという 人を模範にして生きよう。その愛の教えを守って生きよう。そうすれば私も 愛の人になれるのではないか。そうすれば、他の人を救うことにもなるし自 分を救うことにもなるだろう。》しかし、もしそれで救われるならば、罪の 贖いは必要ではありません。十字架も復活も必要ないでしょう。キリストの 山上の説教(マタイ5‐7章)だけ読んでいれば良いのです。

   しかし、キリストは、「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、 盗人であり、強盗である」とキリストは言われるのです。門を通らないで入 ってくる者は、真の命も救いももたらさないと言われるのです。なぜでしょ うか。主は人間の罪の深刻さをご存じだからです。人間の罪の問題は、律法 によっては解決しないことをご存じだからです。人間は、少々良くなったぐ らいで、少々改善されたぐらいで、救われることはないのです。実際、自分 自身を見つめ直して考えてみれば分かります。あなたは、自分が良い教えを 聞いて、それを守って、少しぐらい善い人間になったぐらいで、本当に救わ れると考えているのでしょうか。今まで罪深い人生を歩んできた人が、ちょ っとぐらい真面目になったぐらいで、あるいはキリストのまねをして愛の人 らしくなったぐらいで、本当に救われると信じられるのでしょうか。永遠の 命とは、そんなに安っぽいものでしょうか。

   私が子供の頃、友達と喧嘩をするといつでも、互いに「バーカ、カーバ! バカは死ななきゃ直らない!」などと言って罵り合ったものでした。しかし、 今になって思います。本当は「死ななきゃ直らない」のは、すべての人間で はないか、と。罪深い人間は、少々手直しをしたぐらいではどうにもならな いのです。一度死ぬしかありません。罪深い人間そのものを葬り去るしかあ りません。しかし、だからと言って、自分を実際に殺してしまうわけにはい かないでしょう。また、自分を殺すことが結果として自らに滅びしかもたら さないならば、それこそ救いにはなりません。

   そこで、私たちが死ぬ代わりに、キリストが死んでくださったのです。 「バカは死ななきゃ直らない。」そんな私たちのために、キリストが死んで くださったのです。私たちの罪を背負って、私たちに代わって、キリストが 罪人として死んでくださったのです。それゆえに、キリストを信じて、キリ ストに結ばれる時、私たちはキリストの死にあずかって、私たち自身が死ん だものとされるのです。それは私たちが、一度死んだ者として、新しい命に 生きるためです。そうです、私たちは新しく生きることができるのです。

   そのことをはっきりと示しているのが、教会で行われる洗礼です。ローマ の信徒への手紙6章に、次のように書かれているとおりです。「わたしたち は洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。 それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、 わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6・4)。

   キリストは、「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」と 言われました。キリストを信じ、キリストと共に死んで、新しい命に生きる 者となる――キリストという門を通って、キリストの羊の囲いの中にいるキ リストの羊となるとは、そういうことです。そこにこそ救いがあるのです。 キリストはそのような門になってくださいました。開かれた救いの門となっ てくださったのです!そして、キリストという開かれた門を通った羊は、そ の救いの完成に至るまで、キリストという真の羊飼いに日々養われて生きて いくのです。

 
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