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「キリストの死と復活」

2003年8月17日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 東京神学大学生 三木義博  
聖書 コリントⅠ・15:1‐11

●メシア預言が成就した

 私達は4回に渡りコリントの信徒への手紙Ⅰを読んでまいりました。その 中でも、この15章はパウロが今まで述べてきた中で一番重要なことを語っ ています。この部分はキリストを信じることの意味について言わば中心的内 容の集約です。先ず聖書に注目しましょう。この1節から11節は15章全 体の序説的部分です。12節からは復活について語ります。それは復活を信 じないで、ただキリストに望みをかけているだけならば、その人は全ての人 の中で最も惨めな者です(17‐19節)と、復活を事実として受け入れる べきことであるとパウロは語ります。パウロは一貫してキリストの十字架と 復活を宣教しました。元に戻りますが、1節ではコリントの人が受け入れた 福音が何だったのかをもう一度知らせますと語っています。そしてそのこと こそがこの地上における生活のよりどころだと言っているのです(1節)。 ではそのポイントは何だったのかそれが、聖書に書いてあるとおりと3節と 4節に二回も書き、言わばメシア預言の成就であると語るのです。この苦難 のメシア預言の聖書箇所は何処を指しているのか、それがおもにイザヤ書の 53・5‐12です。この「コリントの信徒への手紙」は復活の出来事の後、 25年くらいを経て書かれました。しかし、イザヤ書は紀元前530年も前 に書かれたとも言われている書物です。イエス・キリストの出来事は530 年前に書かれた預言の成就だと言っているのです。その内容は四つの出来事 であると述べます。①キリストが私たちの罪のために死んだこと(3節)。 ②葬られたこと(4節)。③三日目に復活したこと(4節)。④復活した後、 多くの人の前に現れたこと(5‐8節、復活の顕現)。この四つの、現実に、 歴史的に生起した事実を受け入れることが、生活のよりどころだと言ってい るのです。神の恵みだと言っているのです。この恵みの為に実にキリスト者 は命まで擲ち殉教していったのです。この命まで擲つに充分な恵、そのこと が今日わたしたちが知らなければならないことだと思います。

●復活の事実

 この命題が与えられ、今一度聖書と対峙します時、聖書全体がどのように 書かれているかをマクロ的にみる必要を感じます。このコリントの信徒への 手紙が書かれた時代、ユダヤ人は当然旧約聖書をそらんじるほどに詳しく知 っていました。コリントに於いてもパウロは特にユダヤ人に対しメシアはイ エスであると力強く証をしました(使徒言行録18・5)。ユダヤ人や聖書 を知っている人には聖書の言葉とイエスの辿られた道を比較するだけでイエ スがメシアと分かったのです(使徒言行録2・41、4・4、8・30‐3 9他)。私達日本人は旧約聖書を詳しく知りません。又復活も2千年前の出 来事ですから本当にあったことなのかどうか疑ってしまいます。復活は今の 私たちの常識を超えた出来事です。どうしても自分の経験や常識の範囲で信 じようとします。しかし本当にそれでいいのでしょうか。イエスの復活につ いて、もし嘘であったなら使徒言行録の中でどうして一度に三千人や五千人 もの人がイエスをメシヤとして受け入れたのでしょうか。パウロははっきり と言いました。復活が事実でなければ、私たちの信仰は全ての人の中で最も 惨めだと! 私達は自分の常識や経験では分からなくてもイエスが復活され た時代に生きている人が証したことを素直に受け入れていいのでないでしょ うか。どんなに調べても当時のことは聖書を読む以外わからないのですから。 もし嘘だったら今日聖書は残ることはなかったでしょう。その意味で信仰は 単純であっていいのでないでしょうか。

 さて復活が事実として、ならばそのことが殉教しても良いほどに恵なので しょうか。そうなんです。それは恵み以外の何ものでもないのです。

●罪と死

 私達は先ほども、十字架につけられ、死にて葬られ、よみに下り、三日目 に死人のうちよりよみがえりと信仰告白をしました。

 告白すべき信仰は十字架と復活です。

 私達は罪の中に死ぬしかない者です。しかしイエス・キリストを信じるな らばこの死からの開放が約束されています。罪と死、これは何処からきたの でしょうか。又罪と死からの開放がどうして十字架と復活なのでしょうか。 聖書をマクロ的に見ますならばそのことがはっきりと見えてきます。

 旧約聖書を見ますと、聖書の始まりである創世記1章に於いて、神は、天 と地を創造し、昼と夜、大空と海、陸地と植物、太陽と月、鳥と魚、最後に 動物を、そして人をお造りになりました。

 人を最後にお造りになり、その後創られた全てのものをご覧になり「見よ、 それは極めて良かった」と言われたのです。人を創られるまでは創られたも のを見て「良しとされた」だけでした。

 神は、神にかたどって創造された人をご覧になり、「極めてよかった」と 仰せになったのです。

 その創られた人がアダムとエバです。神はアダムとエバのためにエデンに 園をもうけそこに住まわせたのでした。アダムとエバはその園で食べるに不 自由なく、死ぬことも有りませんでした。神様の臨在を常に覚え幸いな日日 を過ごしていました。思うだけでどれほど幸いなことでしょう。しかし、サ タンであるへびによりアダムとエバは神の前に罪を犯し、エデンを追われ、 女には女の苦しみとして、産みの苦しみなどを与えられ、男には生涯食べ物 を得ようとする苦しみを与えられそして、死ぬことになりました。ここに罪 と死が人に入ったのです。罪に対する神の報いは死です。私達はそれを見る とき神様の愛を疑うことさえあります。ですが私達には、神様の苦しみをど れほど分かるのでしょうか。エデンの園には命の木と善悪の知識の木があり、 善悪の知識の木の実を食べると死ぬと言われたのです。神は、神にかたどっ て作られた人をどれほど愛しておられたか、その人に死を与え、エデンの園 から追い出す悲しみを神はどれだけ耐えられたか、古代教父のイレナエウス は、「神は人が命の木の実を食べ、罪の中に永遠に生きる不幸を思われエデ ンの園から追放された」と言いました。誠にそうでないかと思います。しか し、人がエデンの園から追放されたままで神様は良しとされるのでしょうか。 サタンの思うままにされるのでしょうか。

●罪と死から救う為に

 神は人に与えた自由意志で人が罪を克服することを望まれました。しかし、 人は罪の克服をすることが出来ません。そこで神は契約として十戒を与えら れました。民は、その律法である十戒を守りますと誓いましたが、立ち返る どころか偶像崇拝に陥り何度も神から離れました。旧約聖書を始から読み進 めますと、何度も何度も神から離れる民に、神は旧約聖書の終り近くに、神 の御心を忘れ、ただ儀式として礼拝している民に、「罪のためのいけにえが 私に何になろう」といわれたのです。「身を清めよ」と言われるのです(イ ザヤ1・1‐23)。ホセア書ではイスラエルの不真実と神の忍耐深い愛が、 そして神の切実な言葉があります(1‐3章)。それでも最後には神がイス ラエルを回復し、豊な繁栄を与えると約束されるのです(14章)。大変な 量の言葉でつづられた旧約聖書は、民の度重なる神への反逆とそれでも許し 続ける神の愛の歴史、そしてメシアの預言です。私達はこの大変な量の言葉 を読んで、初めて主なる神の御心を少し知ることが許されたのです。

 神はサタンの誘惑で追放された民を救うため、最後には動物のいわば仮の 贖いでなく、アダムとエバから始まった、罪から起こる死からの完全な解放 を人に与えようとされました。

 サタンは人に死をもたらし神に逆らったのです。人を死から開放すること によって、神がサタンを足の下に踏み敷くことになります。この死を死なす ことで、人が再びエデンの園のように神の臨在の中で幸いな命となることに なるのです。サタンの思うままにはされないのです。

 人の完全な贖いの為に、動物でなく完全な罪の贖いである、人の犠牲とし て、神はイエス様を地上に送られました。イエス様は神のこの、人の救いの ご計画を成就する為に地上に人となってこられたのです。

 旧約聖書ではサタンが出てくるのはこのアダムとエバの時とヨブ記、それ に歴代誌とゼカリヤ書ぐらいです。蛇がアダムとエバに死をもたらしサタン の目的を達しました。しかし、新約聖書の中でサタンが再び活躍するのがイ エス様が地上におられた福音書の中です。それはイエス様がサタンを足の下 に踏み敷く為に来られたこと、その始まりを知って、イエス様のご計画を阻 止したかったのです。ですがイエス様のご計画が達成された後は、聖書には ヨハネの黙示録に至るまでサタンは出てこなくなります。その分人に働きか けるようになりました。ですから旧約時代の戦いは、具体的に神様の義を守 る為の戦いであり、剣を持って戦わなくてはなりませんでした。もしそのよ うに戦ってこなければ、今の時代まで聖書が残ってなかったかもしれません し、仮に残っていても参考になる程度だったのでないでしょうか。私たちが 聖書がはっきり神の言葉と認識できるのはこの戦いのお陰だと私は思います。 そして新約時代になり神の救いのご計画と、預言の成就がなされた後、サタ ンの戦いは神様のご計画を阻止するため、人を通して信仰を持たせないよう にしようとする霊の戦いです。人の背後にいるサタンとの信仰の戦いです。 ですから新約時代の戦いに武器は必要ないのだと思います。人が悪いように 見えますが、その背後にいるサタンとの戦いです。ルカの福音書で、イエス 様が公生涯に入られて後、最初にイエス様を神の聖者と認めたのはサタンで した(4・34)。

●罪の中で死ぬしかない私達の救い

 私達は罪の中で死ぬしかなかった者です。ですが罪のないイエス様が私達 の身代わりとなって下さり、私達は信仰をもってそれを受け入れるだけで罪 からの開放をいただけるのです。そして、罪からの解放を現実のものとして 下さったのが復活なのです。復活がなければ罪から解放されましたがやはり 死の中に置かれたままになります。聖書では「人間にはただ一度死ぬことと、 その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9・27)と書かれ ています。もし本当に死んで終わりでなく、死んで後、裁きがありイエス様 の元に行く道と、そうでない道が有るとするならば、皆さんはどちらの道を 選ばれますのでしょうか。罪について詳しく学ぶ時間が有りません。でも罪 の全く無いと言える人がいるでしょうか。あの姦通の場で捕らえられた女性 に対し、イエス様は「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、 この女に石を投げなさい。」(ヨハネ8・7)と言われました。イエス様を 陥れようとした民衆がに周りにいたのです、その民衆は彼女の罪をイエス様 に突きつけて、どうするのかと迫ったのでした。しかし、イエス様の言われ たこの言葉に対し、誰も石を投げられなかったのです。誰もが自分の罪を自 覚していたのでした。私達はどうでしょうか。見つからなければ、心で思っ ただけだから罪がないと、どこかで思っていないでしょうか。もし罪に対し 神の裁きが本当に有るとすれば、誰が逃れえるのでしょうか。イエス様の時 代のこの民衆の罪意識をいつも思います。この民衆も私達もイエス様をメシ アと信じなければ生きていても、罪の中に死んでゆくだけでした。そして、 旧約聖書にかかれたメシアの到来を、死んだ後も待ち続けるのでした。です がイエス様が死んだ後、復活されたことによって私たちは死を、ただの望み も何もない永遠の死と受け止めなくて良くなったのです。死からの解放がも たらせられたのです。イエス様を受け入れた後の死は腐敗の墓も、私達の最 後の憩いの場所となったのです。そこに私達は疲れた体を横たえて、そして 私達の喜ばしい復活の朝を待つことに成るのです(A・ファン・リューラー“ キリスト者は何を信じているか”より)

 この福音をコリントの人は受け入れました。しかし時が経ちその福音を忘 れたり、間違った解釈をしている人に対しパウロは十字架と復活の意味をし っかりと再び語るのです。

 皆さんは死をどのように捉えられておられるでしょうか。古来宗教は死の 恐怖からの脱却を説くものが多くありました。死からの救いは何なんでしょ うか。私は聖書に書いてあるとおり、イエスを主として受け入れ神の救いの 中に入れていただくことと信じます。聖書ほど明確に分かりやすい言葉で真 実を伝えているものはなく、これこそ神の霊感によらなければ、書け得ない 書物と信じるからです。

 神は人を創り、神と共にいつまでも幸いな中に住むようにされました。で すが、サタンと思われる蛇に惑わされ人に罪と死が入りました。

 神は人を死から救い、エデンの園の中で喜びと共に住んでいたように、そ んな神の国を再び与えようとしてくださいました。そのためにイエス様を地 上に送ってくださり、十字架と復活を信仰を持って受け入れるだけで、罪と 死からの解放を約束されるのです。

 イエス様の再臨後新しい都とそこに住む様子は、ヨハネの黙示録21章に よって分かります。しかし、そこには第二の死も書かれています。どうぞ皆 様が第二の死を帯びることの無いように、キリストを受け入れ、新しい人生 を歩んでくださるよう切望致します。なによりも、そのことを神が望まれ、 そのために神はひとり子をも賜れたのです。

 
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