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「わたしは良い羊飼いである」

2003年8月24日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ10・11‐18

 本日、私たちに与えられていますのは、「わたしは良い羊飼いである」 (11、14節)という主イエスの御言葉です。さて、キリストが私たちの 羊飼いであり、私たちがキリストの羊であるとは、いかなることを意味して いるのでしょうか。

●わたしは一人の牧者を起こす

 主イエスが羊飼いであるということについて考えます時、どうしても読ん でおきたい聖書箇所があります。エゼキエル書34章です。「主なる神はこ う言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れ を養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動 物を屠るが、群れを養おうとはしない。…また、追われたものを連れ戻さず、 失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した」 (エゼキエル34・2‐4)。これは紀元前六世紀の預言です。ここで「イ スラエルの牧者たち」というのは、宗教的指導者や政治的支配者のことです。 彼らは民を治め導くために権力を与えられていたにもかかわらず、それを正 しく用いず、かえって民を食い物にし私腹を肥やしていたのです。そのよう な権力の濫用は、いつの世にも起こるものです。

 しかし、神は悪しき支配をそのままにはされません。神自らが立ち向かわ れます。「見よ、見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼 らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる」(同34・10)。 エゼキエル書は、この主の言葉が実現したことを伝えております。直前の3 3章に記されているとおり、エルサレムは陥落し、ユダの王国は完全に滅亡 したのです。もはや王も、国家の支配体制もなくなってしまいました。

 そこで神はさらに言われます。「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出 し、彼らの世話をする」(同34・11)。「わたしがわたしの群れを養い、 憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追わ れたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、 肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」(同3 4・15‐16)。さて、主なる神は、具体的にどのようにしてこれを実現 しようとしておられたのでしょう。23節以下にはこう書かれています。 「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わ が僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわた しが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる」(同34 ・23‐24)。ここで「わが僕ダビデ」と言われているのは、ダビデの子 孫として現れるまことの王なるメシアです。このような真の牧者である王・ メシアを与えると神は言われたのです。

 それゆえに、イスラエルの民は、そのようなメシアを待ち望み続けました。 そして、五百年以上の歳月が流れ、ダビデの子孫である主イエスが現れたの です。民の間にあって主はこう語り始めたのでした。「わたしは良い羊飼い (牧者)である」と。その場面を思い浮かべてください。主イエスのもとに は、まことに見栄えのしない、この世的にも力のない弟子たちがおります。 そこに、ユダヤ人の会堂から追放された人が加わりました(9・38)。彼 はもともと盲人であって、通りで物乞いをしていた人です。そのようなナザ レのイエスを中心とした貧しい群れがそこにあります。それが一つの現実で す。しかし、そこには、当時のファリサイ派の人々やユダヤの支配者たちが 認めることができなかった、もう一つの現実があるのです。そこにはキリス トの王国が存在しているのです。まことの王がおられます。王に導かれる王 国の民がそこにいるのです。あの約束――神自らが失われた者を尋ね求め、 傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、そしてその群れを養い給うとい うあの約束――が実現し始めているのです。それが今日の聖書箇所に描き出 されている出来事なのです。

●羊のために命を捨てる

 しかし、主イエスは、そのままこの世の王として君臨しようとしておられ たのではありません。主はまず御自分が良い羊飼いとして、自らの命を捨て なくてはならないことを語られるのです。「良い羊飼いは羊のために命を捨 てる」(11節)と。主はそのことを、この短い箇所において繰り返し語っ ておられます。

 主が命を捨てるのは御自分の羊のためであると言われます。ここにおいて、 私たちは羊と羊飼いとの関係に思いを向けるよう導かれています。真の羊飼 いは、羊のことを心にかけていない雇い人とは違います。「わたしは良い羊 飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」 (14節)と主は言われるのです。

 この言葉の背景にあるのは、私たちにはほとんど馴染みがないのですが、 これを聴いていた人たちには非常に馴染み深かったパレスティナの羊飼いた ちの生活です。彼らは羊と共に生活をしています。羊の一匹一匹に名前をつ けて養います。私たちから見ると羊は皆同じように見えますが、彼らは羊の 一匹一匹を見分けます。羊飼いにとって羊たちは、あくまでも単なる《羊の 群れ》ではなく、一匹の羊が他の羊の代わりには決してならない、それぞれ 個々の羊なのです。ですから、そのような羊飼いが羊を知っていると言う場 合、それは単に羊の生態や羊というものの性質を知っているという意味では ありません。個々の羊を知っているということです。主イエスは、人間とは どのようなものかを知っておられるのではなくて、私を知っておられ、あな たを知っておられるのです。

 しかも、そこには驚くべきことが語られています。「それは、父がわたし を知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである」(15節)と言 われるのです。私たちは、父なる神と御子なるイエスがいかに深い愛と信頼 の絆で結ばれていたかを、この福音書の中に見ることができます。主イエス が言われたように、御子と御父は一つでありました。しかし、そのような関 係は、ただ御父と御子との間にあるのではなく、牧者なるキリストと彼に従 う羊たちとの間にもあるのだ、と聖書は教えているのです。本当の意味で弟 子たちが主イエスを知るのは後になってからのことでした。しかし、弟子た ちがそのように主を知る前に、彼らは主に知られていたのです。弟子たちは 主イエスの完全な愛の内に知られ、知り尽くされていたのです。実に、彼ら の内側に潜んでいる弱さや罪深さまでも知られていたのです。そうです、後 に見るように、確かに主イエスは、弟子たちがやがて御自分を見捨てて逃げ 去っていくこと、ペトロが御自分を三度否むであろうことまでも知っておら れたのです。

 そして、その上で主は繰り返し語られるのです。「わたしは羊のために命 を捨てる」と。牧者なるキリストが命を捨てるのは、キリストの羊が滅びな いためです。罪と死の力によって奪い去られて滅びないためです。そして、 羊が永遠の命を得るためです。そのためにこそ、主が御自分の命を捨てられ、 御自分の命をもって罪をあがなってくださったのです。それゆえ、主は後に ユダヤ人たちにはっきりと語っておられます。「わたしは彼らに永遠の命を 与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはでき ない」(28節)。そして、先に申しましたとおり、主が命を捨てられたの は、永遠の命を与えてくださるのは、ただ一般的な意味で人類ためにという ことではなく、ただキリスト者のために、ということでもありません。牧者 にとって、自分の羊は単なる一般名詞の「羊」ではありません。主が命を捨 てられたのは、主が知り尽くしておられ、名前をもって呼んでくださる私の ため、そしてあなたのためなのです。

●囲いに入っていないほかの羊も

 主はさらに言われました。「わたしには、この囲いに入っていないほかの 羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分 ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(16節)。

 主イエスは、既に集められている羊の群れだけでなく、囲いの外の広い世 界のことを考えておられます。主はまだ囲いに入っていないほかの羊のこと を考えておられます。主は「その羊をも導かなければならない」と言われる のです。それゆえに、羊飼いは囲いの外の羊を求めて出て行かれます。御自 分の羊を捜し求めて出て行かれます。羊飼いは羊を呼び求めて声を上げます。 そして、羊はその声を聞き分けて、羊飼いのもとに集まってくるのです。

 それが、この歴史の中において起こったことでありました。羊飼いである 主イエスの声が、今や全世界に響き渡っています。そして、羊の群れは全世 界に広がる群れとなりました。牧者でありまことの王であるキリストの王国 は、信仰の目によってしか見えませんが、確かに全世界に広がる王国となり ました。この国にも教会があるとはそういうことです。それゆえに、私たち もまた、その王のもとにあり、その羊飼いのもとにいるのです。

 考えてみてください。私たちはもともと囲いの外にいた羊でした。囲いの 外をさまよっていた者でした。しかし、私たちの耳に、キリストの呼び声が 届いたのです。私たちを捜し求めるキリストの呼び声が聞こえてきました。 皆さんは、御自分の意志で教会に足を運んだと思っておられるかもしれませ ん。御自分の決断によって求道し、洗礼を受けたと思っておられるかもしれ ません。しかし、その前に、キリストが私たちを呼び続けておられたのです。 この日本にも、キリストの呼び声が響き渡っていたのです。そして、その声 を耳にした時、私たちの魂がその声を聞き分けたのでした。懐かしい声、私 を愛してくださる御方の声、良き羊飼いの声――その声を聞いて、その声に 導かれて、私たちは羊飼いのもとにやって来たのです。

 そのような私たちに主イエスは言ってくださいました。「あなたは囲いの 中にいなかったけれど、あなたは確かに私の羊です。私はあなたを知ってい ます。あなたのすべてを知っています。そして、私はあなたのために命を捨 てました。私はあなたに永遠の命を与えます。あなたは決して滅びない。だ れもあなたをわたしの手から奪うことはできません」と。だから、私たちは、 主イエスのもとにあって、キリストの羊として主と共に永遠に生きるのです。

 そして、主イエスは私たちにも言われます。「わたしには、この囲いに入 っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」と。私たち は、そのような主イエスの後に従うのです。私たちはこの世にあって、羊飼 いの呼び声にならねばなりません。私たちが伝道するとはそういうことです。 羊飼いの呼び声になるのです。また誰かが、良い羊飼いの声を聞き分けて、 羊飼いのもとに来るためです。「こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、一つ の群れになる」(16節)のです。

 
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