「キリストを宣べ伝える」
2003年8月31日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 2コリント4・1‐6
牧師は礼拝において聖書の解き明かしをする務めが与えられています。毎 週、牧師は説教を語り、会衆は説教を聴きます。しかし、私たちはここで秘 密集会を行っているわけではありません。この礼拝堂にて行われているのは、 この世のただ中で行われる公の礼拝です。ですから、そこで語られる礼拝の 説教は、ただ牧師が会衆に語る言葉というだけでなく、教会がこの世に宣べ 伝える公の言葉でもあります。従って、宣べ伝えられている言葉に責任を負 うのは、ただ牧師一人ではなく、教会の全体ということになります。そこで、 重要なことは、牧師だけでなく教会全体が、福音の宣教というものについて ある共通理解を持っているということです。さて、福音が語られ、そして聴 かれるということに関して、私たちはいかなることを心に留めておかねばな らないのでしょうか。
●神の言葉を曲げず
はじめに1節と2節を御覧ください。「こういうわけで、わたしたちは、 憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しま せん。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げ ず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身をすべての人の良 心にゆだねます」(1‐2節)。
パウロは使徒であり伝道者です。その彼が、「落胆しません」と言ってい ます。16節でも同じ言葉を繰り返しています。自分に言い聞かせるように 語る彼の言葉は、取りも直さず、パウロたちが落胆せざるを得ないような状 況にあったことを示しています。
福音宣教というものは、常に落胆と隣り合わせにあるもののようです。な ぜなら、宣べ伝えられる言葉が、常に受け容れられるとは限らないからです。 福音が拒否されることがあります。誤解されることもあります。受け容れら れたように見えて、実はまったく留まってはいない、ということがあります。 いつでも労苦に見合った実りが見られるわけではありません。常に働きに対 する感謝が返って来るわけではありません。実際、それがパウロ自身の経験 でありました。主イエスもまた、たびたび人々の拒絶にあったことを私たち は福音書を通して知っています。宣教には、落胆の経験が伴うことを、私た ちは覚悟しなくてはなりません。
宣教の働きが徒労に見える時、私たちはパウロと共に「落胆しません」と 言えるでしょうか。どうしたら言えるのでしょうか。彼がそう言い得たのは、 一つの認識によります。「憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられて いる」という認識です。彼は使徒として相応しい資質を兼ね備えていたから 使徒とされたのではありません。伝道者としての能力に長けていたから伝道 者とされたのではありません。ただ神の憐れみによって務めをゆだねられた のだ、とパウロは言うのです。それがどんなに有り難いことかを知っていた からこそ、彼は「落胆しません」と言えたのです。牧師は、牧師としての能 力に長けているから牧師なのではありません。教会が与えられている宣教の 務めは、それに相応しい人々が集まっているから与えられているのではあり ません。本当は、「このような務めにだれがふさわしいでしょうか」(2・ 16)と叫ばざるを得ないのです。それゆえに、すべて神の憐れみによるの です。
そのことが分からないと、落胆の経験を回避するために小細工をするよう になります。なるべく抵抗を受けないように、伝えるべき言葉を、歓迎され やすいように、受け容れ易いように加工するようになります。飾りをごてご てと沢山つけて、なんとか見栄え良くしようとするようになります。あげく の果てには、神の言葉をねじ曲げて変形するようにさえなるのです。
しかし、パウロはそのようなことを「卑劣な隠れた行い」と呼びます。 「悪賢く」と訳されている言葉は、もともとは「巧みに」という言葉であっ て、それ自体には否定的な意味合いはありません。しかし、その巧みさがし ばしば問題となるのです。それが神の言葉をねじ曲げることのために働くか らです。そうしますと、主イエスが教えてもいないことが、聖書が語っても いないことが、まことしやかに語られるようになります。しかも非常に耳に 快い言葉として!
先日、英国のガーディアン誌に、人々の教会離れを何とかしたいと思うな ら十字架上のキリストといった伝統的なイメージは止めるべきだ、という広 告専門家の意見が記事として掲載されたそうです。むしろ美しい賛美歌を歌 うことや心に迫る話し合いなどにキリスト教のイメージを変えるべきだ、と のこと。しかし、このような賢い人々の意見は、さほど珍しいものではあり ません。既に、キリスト教界に起こっていることです。十字架は取り除いて しまいましょう。罪については人々の心証を害するので語るのはやめましょ う。悔い改めについても語るのはやめましょう。それよりは《積極的・肯定 的な生き方》《ありのままの自分を愛し、自分を肯定し、セルフ・イメージ を高めること》を福音の中心として語ることにしましょう。それならば、聞 き手が腹を立てることも、拒否することもないでしょう。――これは伝道者 にとっても、教会全体にとっても大きな誘惑であるに違いありません。
しかし、パウロはそのようなあり方をはっきりと拒否するのです。大切な ことは真理を明らかにすることだからです。人間に必要なのは、気休めや誤 魔化しの言葉ではないからです。そのような言葉がいくら巧みに語られ、受 け容れられても意味がないからです。教会は単に人々を快くするために務め を委ねられているのではありません。真の救いがもたらされるために仕えて いるのです。そのためには、真理が語られ、聴かれねばなりません。教会が 本当に大切にしなくてはならないのは、この一点なのです。
●キリストを宣べ伝える
さらに3節以下でパウロは次のように言っています。「わたしたちの福音 に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して 覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目 をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないよ うにしたのです」(3‐4節)。
真理が語られ、そして聴かれる。それが宣教の働きにおいて起こります。 しかし、真理が語られる時、先に申しましたように、必ずしも受け容れられ るとは限りません。福音を分かり易い平易な言葉で提示することは大事かも しれません。あるいは論理的に説得力のある仕方で語ることも大事かもしれ ません。そのような努力はなされねばなりません。しかし、それにもかかわ らず、福音の言葉が信じられない、受け容れられないということは起こるの です。宣教の働きには、いかに語るかという事とは全く次元の異なる要素が あるからです。霊的な次元です。人々の目をくらまそうとする霊的な力が働 いているからです。宣教とは、霊的な戦いに他ならないのです。
ここで「この世の神」と呼ばれているのは悪魔のことです。この世を一時 的に支配しているように見える悪魔、そして実際この世がひれ伏し従ってい る悪魔のことです。私たちは悪魔を、単におとぎ話かゲームに登場するキャ ラクターのごとくに考えてはなりません。この世界の中に、そして私たち各 々の人生の中に、人間の意志や知恵を越えた闇の力が働いている――それは 人間が古来から認めざるを得なかった、極めて現実的な普遍的な経験なので す。その悪魔が心の目をくらまして、神の似姿であるキリストの栄光から人 々を遠ざけようとするのです。
福音宣教とは、そのような闇の力との霊的な戦いです。ですから、人間の 知恵や力によって勝てると思ってはならないのです。霊的な戦いであること を忘れて、神の言葉をねじ曲げて人々に受け容れやすくするというような、 人間的な小細工を持ち込んではならないのです。では、私たちが為すべきこ とは何でしょう。神の戦法に従って戦うことです。それは既にコリントの信 徒への第一の手紙に見たとおりです。パウロはこう書いています。「世は自 分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなってい ます。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お 考えになったのです」(1コリント1・21)。この神のお考えに従って、 事を進めねばなりません。
ですから、パウロはここにおいても、「わたしたちは、自分自身を宣べ伝 えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています」(5節) と言っています。私たちは、あくまでもイエス・キリストを宣べ伝えるので す。パウロがこう言う場合、明らかにそれは「十字架につけられたキリスト 」のことです。十字架につけられたキリストを宣べ伝えるということは、こ の世的に見るならば、確かに愚かな手段であるに違いありません。そのよう な十字架につけられたキリストを、受け容れられようが、受け容れられまい が、とにかく宣べ伝え続けるということは、ある意味で下僕とならねばでき ません。主イエスの下僕というだけでなく、人々の下僕にならねばできませ ん。「わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」 (5節)と言っているとおりです。その意味において、宣教とは仕えること です。牧師はキリストを宣べ伝えることにおいて会衆に仕えます。教会はキ リストを宣べ伝えることにおいて、この世界に仕えます。これが私たちの為 さねばならないことです。
●神の御業によって
そして、私たちはその上で、ただひたすら神の創造的な御業を求めるので す。人がイエスを信じ、主と告白するようになる。それは、ただ一重に聖霊 のお働きによるからです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主であ る』とは言えないのです」(1コリント12・3)。
実際、それはパウロ自身の経験でもありました。彼はもともとキリスト者 を迫害する者だったのです。キリストを宣べ伝える者を殺すことによって、 彼は神に仕えていると思っていたのです。パウロは、「わたしたちの福音に 覆いがかかっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆 われているのです」(3節)と言いました。しかし、他ならぬパウロ自身が、 かつて滅びの道をたどっていた者だったのです。彼自身、悪魔によって心の 目をくらまされていた人でした。彼には、神の似姿であるキリストの栄光に 関する福音の光が、全く見えなかったのです。
しかし、その覆われていた彼の心の闇に、光が射し込んできたのです。そ れは神の光でした。かつて「光あれ」と言って光を創造された神による、新 しい創造が始まったのです。パウロは、その神の御業について、溢れる感謝 の思いをもって、次のように語ります。「『闇から光が輝き出よ』と命じら れた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神 の栄光を悟る光を与えてくださいました」(6節)。
私たちがキリストを信じる者としてここにおり、キリストを共に礼拝して いるということもまた、それは神の御業に他なりません。神は私たちの心の 内にも輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてく ださいました。そのような私たちにとって、福音の宣教とは、最終的には、 この神の御業への参与に他なりません。光は闇よりも強いのです。悪魔が覆 いをかけて暗闇にしてしまっても、光が来れば暗闇は逃げていくのです。だ から、私たちは落胆することなく、安心して、十字架のキリストを宣べ伝え るのです。