「新しく創造された人」
2003年9月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 2コリント5・16‐21
古い自分を捨て去って、新しい自分になりたい。――そんな願いを誰もが 一度は抱くものでしょう。新しい自分になりたくて、ある人は髪を切ります。 髪を染めます。服装を替えてみます。イメージ・チェンジを試みます。確か に、イメージは変えられますし、周りの人の見る目も変わるでしょう。ある 程度気分も変わります。しかし、それで本当に新しい自分になるのでしょう か。あるいは、新しい自分になりたくて、旅に出る人もいます。引っ越しを する人もいるでしょう。転職する人もいるでしょう。ある程度、生きる環境 は変えられます。生活スタイルは変えられます。しかし、周りの状況を変え れば、それで本当に新しい自分になれるのでしょうか。
今日の聖書箇所には、このような言葉が記されております。「だから、キ リストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは 過ぎ去り、新しいものが生じた」(17節)。確かに人は新しくなれる。そ う聖書は教えています。人は新しくなることができる。聖書はこのことを 「新しく創造される」と表現しています。人間を造られたのは神です。その 神の新しい創造によって、人は新しくなるのです。では、この新しい創造に おける《新しさ》とは何でしょう。人が新しくなるとは、どのようなことを 意味するのでしょうか。
●世を御自分と和解させ
そこで18節以下に目を向けますと、次のように記されております。「こ れらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたち を御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授 けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人 々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたので す」(18‐19節)。
さらに新しい創造の話しが続くと思って読んでいきますと、なんと期待に 反して、パウロはここで唐突にも「和解」の話を始めます。そこでしばらく、 「新しい創造」は横に置いておくことにしまして、彼の論述に沿って、「和 解」について考えてみることにしましょう。
「和解」という言葉は、私たちの日常の言葉です。それは仲直りすること を意味します。壊れた関係が修復されることです。敵が友となることです。 ここで語られているのは、人間関係の話ではありません。神と人との和解で す。神と人との和解が語られるということは、現実には神と人との関係が壊 れていることを意味します。敵対関係にあるからこそ、和解について語られ るのです。
神と人との壊れた関係を、いにしえのヘブライ人は素朴な一つの物語によ って表現しました。――神は人間を土のちりから創造し、豊かなエデンの園 に置かれました。エデンの園の中央には、命の木と善悪の知識の木がありま した。神は、その善悪の知識の木から取って食べてはならないと人に命じら れました。しかし、人はその神の戒めに背いて、善悪の知識の木から取って 食べてしまいました。そこで、人とその妻は、神を恐れ、神の顔を避けて園 の木の間に隠れます。しかし、神に背いた事実は神によって明らかにされて しまいます。結局、彼らはエデンの園から追放されてしまいました。――ご 存じ、創世記2章、3章に記されている物語です。この物語は、単純素朴に、 しかし実に見事に、人間と神との関係を描写しています。このように、人間 が神の戒めに逆らい、神に背いているゆえに、神と人との関係は壊れている のです。
そのことを多くの人は真面目に考えようとしません。神様については、孫 の顔をみてニコニコしているお爺ちゃん程度のイメージしか持ち合わせてい ません。祈れば聞き入れられて当然。神様なんだから人間に良くしてくれて 当然。――往々にしてそんなことを考えているものです。しかし、良く見て ください。この世界は、まさに神に逆らっている世界ではありませんか。神 を神として愛し崇めることなく、隣人を神が造られた人間として愛し尊ぶこ ともない。まさに神の御心に背いた世界です。この世界は、神の愛する御子 をさえ十字架にかけて殺してしまうような世界です。そして、私たちは皆、 間違いなく、そのような罪深い世界の一部です。私たちは本来、アダムのよ うに神の顔を避けて木の間に隠れなくてはならない者であるに違いありませ ん。本来、到底神の御前に出ることなどできない者なのです。
そのような私たちが「和解」ということを考える場合、どうなるでしょう。 当然のことながら、私たちの方から神に和解の手を伸ばすことはできません。 神と人との断絶の責任は、人間の側にあるからです。悪いのは私たちだから です。しかし、そのような私たちに対し、神の方から和解の手を差し伸べて くださったのです。キリストを通して、神は私たちを御自分と和解させてく ださったのです。それがここに書かれている驚くべきメッセージです。
そこで決定的な意味を持つのは、19節にある、「人々の罪の責任を問う ことなく」という言葉です。これが和解の実現のために神が取られた方法で ありました。この「罪の責任を問う」という言葉は、直訳すると「罪過を数 えたてる」という意味の言葉です。これもまた私たちの日常の言葉ですから 良く分かります。私たちはしばしば互いに罪過を数えたてます。一つ一つを 問題にし、責任を問い、償いを求めます。そして、一つ一つの罪過を心の中 にしっかりと記帳します。そうやって、いつまでも和解することができませ ん。しかし、神は和解を実現するために、あえて罪過を数えることを放棄さ れたと言うのです。神は罪の記録を廃棄することによって、神に逆らう罪あ る人間を得ようとされたのです。
●キリストによって
さらに私たちは、ここでパウロが繰り返しキリストに言及していることを 心に留めたいと思います。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と 和解させ」(18節)、「神はキリストによって世を御自分と和解させ」 (19節)られたのです。つまり、「人々の罪の責任を問うことなく」とい うことを、神は「キリストを通して」「キリストによって」実現されたので す。
「キリストを通して」「キリストによって」とはどういうことでしょうか。 少し飛びまして、21節を御覧ください。ここには、神がキリストを通して 成し遂げられたことが、極めて簡潔に言い表されております。「罪と何のか かわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたち はその方によって神の義を得ることができたのです」(21節)。
イエス・キリストは罪のない御方でした。その御生涯は、父なる神への従 順に貫かれておりました。父なる神と御子なるイエス・キリストは一つでし た。そのキリストが、この罪の世にあって、人間の罪によって苦しめられ、 十字架につけられて殺されたのです。この世で唯一人、苦しむ必要のない方、 死ぬ必要のない方が殺されてしまいました。神はそのことを良しとされたの です。なぜでしょう。神は、キリストにこの世の罪をすべて負わせられ、キ リストを断罪されたのです。そのことにおいて、かつて預言者が語った言葉 が成就したのでした。「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角 に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」 (イザヤ53・6)。それは罪人であり、義とは何のかかわりもなかった私 たちが、神の義を得、義とされるためでありました。
これが「人々の罪の責任を問うことなく」という言葉の内容です。神はた だ罪を放置されたのではありません。ただ罪を容認されたのでもありません。 罪は神にとってどうでもよいことではありません。「人々の罪の責任を問わ ない」ならば、その責任は神自らが負わなくてはなりませんでした。それゆ えに、キリストの十字架の死という、まことに痛ましい仕方において、その ことが実現されたのです。「神は《キリストによって》世を御自分と和解さ せ」られたのです。実に、この世に来られたキリスト、そして十字架におい て死なれたキリストこそ、神の伸ばされた和解の御手に他なりませんでした。 そして、その和解の御手は、私たちの罪が赦されるために流された血で、真 っ赤に染まっていたのです。
●和解させていただきなさい
これが神と人との和解のために、神御自身が成し遂げてくださったことで ありました。しかし、神が人々の罪の責任を問わず、和解の手を差し伸べて くださったとしても、それだけで和解が成り立つわけではありません。和解 はあくまでも両者が関わる事柄だからです。神の伸ばされた手は、人によっ て握られねばなりません。そのためには、まず和解を求めてくださった神の 御心が、人に伝えられねばなりません。神の和解の言葉が伝えられねばなり ません。そして、伝えられた言葉が受け容れられなくてはなりません。それ ゆえに、パウロは、和解の言葉をゆだねられた者として語るのです。「です から、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリスト の使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和 解させていただきなさい」(20節)。
「神と和解させていただきなさい」。これが神の勧めでありキリストの願 いです。これが使徒パウロの宣べ伝えていた言葉であり、教会が代々に渡っ て伝えてきた宣教の言葉です。本当の救いは、人間が一生懸命に神を求めて 神を自分のものとするところにあるのではありません。神が人を求めておら れるのです。神自ら、人間との和解に必要なすべてを成し遂げて、和解の手 を差し伸べ、教会を通して和解の言葉を語ってくださっているのです。私た ちは、ただ和解の言葉を信じて受け容れるだけなのです。差し出された御手 に、自らをゆだねるだけなのです。私たちは、神の御前にある自分自身の罪 責をどうすることもできません。私たちは自分の罪を神の前に認めて、神に 立ち帰って、神と和解させていただくしかないのです。そうして、人は神と の平和を得るのです。
さて、冒頭の問いに戻りましょう。新しい創造における《新しさ》とは何 でしょう。人が新しくなるとは、どのようなことを意味するのでしょうか。 それは既に見てきた聖書の言葉において明らかであろうと思います。新しい 創造の《新しさ》とは、神との和解によって与えられる、《関係の新しさ》 なのです。人は、神と和解させていただいて、神との新しい関係の中に、新 しく創造されるのです。人は新しい自分を求めます。新しい自分になろうと して、様々なことを試みます。しかし、新しい自分に《なったような気にな る》ことが重要なのではありません。神との関係において、本当に新しくな ることが重要なのです。その新しさこそが、永遠の意味を持つのです。