「弱さを誇る」
2003年9月14日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 2コリント12・1‐10
「強くありたい」と誰もが願います。「弱いよりは強いほうが良いに決ま っている。」誰だってそう思います。もちろん、《強さ》と言った場合、必 ずしも肉体的な力の強さばかりではありません。それは意志の力であるかも しれませんし、また特別な能力であるかもしれません。社会的な権力である かもしれません。あるいは他の人が体験していないことを体験し、他の人の 知らないことを知っている、ということであるかもしれません。信仰を求め る人の数ある動機の中にも、苦しみを乗り越える強さが欲しい、あらゆる事 態に際して泰然としていられる精神力が欲しい、ということがあるのではな いでしょうか。あるいはこれまで持っていなかった体験や知識を得たいとい うことも含まれるかもしれません。
●思い上がることのないように
この手紙が宛てられていたコリント教会の人々の多くも、やはり《強さ》 を求める人々であったようです。彼らの場合、特に霊的な能力や神秘的な体 験に極めて強い関心があったことが、コリントに宛てたパウロの手紙の内容 から伺えます。
そのような彼らの間にあって、非常に強い影響力をもった教師たちがおり ました。それはパウロが11章13節において「偽使徒」と呼んでいる人々 です。彼らはパウロがコリントの教会を去った後に入ってきた教師たちでし た。彼らが教会にもたらした混乱が、コリントの教会に宛てたパウロの手紙 の背景となっています。彼らがいかに強力な支配力をもっていたかは、「実 際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げら れても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています 」(11・20)という言葉にも現れております。もともとコリントの人々 に福音を伝えたのはパウロでした。それなのに、なぜコリントの人々は、そ のような偽使徒たちに従うようになってしまったのでしょう。なぜ偽使徒た ちがそれほどまで強圧的に支配力を行使するようになってしまったのでしょ う。
その理由はいくつか考えられますが、その最も大きな理由は、彼らがコリ ントの人々の求めていた《強さ》を具現していたところにあったのではない かと思います。つまり、神秘的な体験も豊富であり、霊的な能力も備えてお り、かつ雄弁であり、説得力もあったのです。そのような「偽使徒」たちに 比べますと、この手紙を書いたパウロははなはだ貧弱に見えたのではないで しょうか。10章10節には、「わたしのことを、『手紙は重々しく力強い が、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』と言う者たちがい るからです」と書かれています。これがパウロの一般的な印象だったのでし ょう。そして、そのようなパウロが伝える「十字架につけられたキリスト」 よりも、偽使徒の持っている《強さ》のほうがよほど魅力的であったに違い ありません。
そのような事情のもとにあって、今日お読みした言葉は語られているので す。「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてく ださった事と啓示してくださった事について語りましょう」(12・1)。 つまり、偽使徒たちが彼らの神秘体験を誇っているとするならば、そのよう な体験は私にもなくはない、と言っているのです。それは愚かなことでしょ うか。確かに、そのようにして体験を誇るということが無益なことをパウロ は重々承知しておりました。本当はそのようなことをしたくはないのです。 しかし、彼は無益と知りつつ、あえて語り出します。その先に、どうしても 伝えたいことがあるからです。
パウロが自分の体験を語ることに躊躇を覚えている様は、その語り口にも 現れております。「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知ってい ますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです」(2節) と彼は言います。前後の関係から言いますと、パウロが自分について語って いることは明らかです。しかし、意図して三人称を用いて、他人事のように 語るのです。その言葉によるならば、パウロは14年前、ちょうどアンティ オキアで伝道していた頃に、天に引き上げられるような神秘的な体験をした ようです。そこで、彼は、口に出して語るのも畏れ多いような言葉を聞いた のでした。
この経験が実際どのようなものであったか、ここに書かれている以上のこ とを余り詮索しても意味のあることではありません。実際、パウロもまた、 この体験について語ることに深入りすることはありません。彼は自らの神秘 体験から、現実の苦しみの体験へと話を移すのです。彼は自分の身に与えら れた一つの「とげ」について語り始めるのです。これこそが、彼の語りたか ったことなのです。「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいから です。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一 つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛め つけるために、サタンから送られた使いです」(7節)。
この「とげ」が一体なんであったかは定かではありません。古くから様々 な推測がなされてきました。パウロはてんかんであったかもしれません。パ ウロは目の病気であったのかもしれません。いずれにせよ、耐え難い苦しみ が続いていたことは確かです。その苦しみをパウロは「サタンから送られた 使い」と呼びます。彼は苦しみそのものを美化することはしません。それは サタンからのものであり、直接的に神からのものではありません。また、 「サタンから送られた使い」という表現には、この「とげ」が少なからず宣 教の妨げになったという意味合いも含まれているのでしょう。
しかし、神はサタンからの使いさえも御自分の目的のためにお用いになる ことができるのです。神がこの「とげ」を、ある目的のために用いているこ とを、パウロは知るに至ったのでした。そこにあったのは、パウロが「思い 上がることのないように」という、神の配慮でありました。
「思い上がり」「高ぶり」「傲慢さ」――人間の《強さ》はこれらと常に 隣り合わせにあるものです。《強さ》を追い求める者が、《強さ》と共に 《高慢さ》を得るということは珍しいことではありません。それは信仰の世 界においても同じです。特に、ここでパウロが「思い上がることのないよう に」と言われているのが、一般的な事柄についてではなく、パウロが特別に 得た啓示についてであったことを心に留めねばなりません。そのような信仰 的な事柄、霊的な事柄についても、確かに《思い上がり》や《高慢さ》の問 題は入り込んでくるものなのです。いや、むしろ信仰の世界においてこそ、 その問題は深刻であると言えるでしょう。それこそがまさにコリントの教会 が直面していた問題でもあったのです。
●自分の弱さを誇る
もちろん、自分の身に与えられた「とげ」について、パウロは初めから 「思い上がることのないように与えられたのだ」と悟っていたわけではあり ません。ですから、彼はこのサタンの使いを離れ去らせてくださるように三 度も主に祈ったことを記しています。「三度」ということは、字義通りただ 三回ということではなくて、「何度も祈った」ということです。
パウロは苦しみを取り去って欲しかったのです。弱さを取り除いて欲しか ったのです。強くして欲しかったのです。しかし、「とげ」は除かれません でした。パウロの祈りは答えられなかったのでしょうか。いえ、確かに祈り は答えられたのです。しかし、パウロが願っていたような仕方においてでは ありませんでした。パウロは祈りの答えとして、次のような主の御言葉を受 けたのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十 分に発揮されるのだ」(9節)。
主はパウロの「とげ」を取り去りませんでした。主は彼に弱さを残されま した。彼を強くすることはありませんでした。なぜでしょうか。それは「十 分である主の恵み」にパウロの目を向けさせるためでありました。人間の弱 さの中にこそ完全に現れる主の力に目を向けさせるためでありました。それ ゆえに、パウロは主の恵みと力に目を向けて、次のように語ります。「だか ら、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱 さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行 き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、 わたしは弱いときにこそ強いからです」(9‐10節)。
このように、私たちが追い求めるべきことは、自分自身が強くなることで はないのです。本当に誇るべきものは、自分自身の強さではないのです。パ ウロは、むしろ自分自身については「弱さを誇る」と語るのです。私たちの 問題は往々にして弱すぎることではありません。強すぎることです。弱さを 本当の意味で認めようとしない者がただ強さを求めていくならば、その先に は「思い上がり」しかありません。
私たちの信仰生活の中心は、自分を鍛え上げることではありません。自分 を改善し、自分を強くすることではありません。何か特別な力を自分のもの にすることでもありません。私たちに必要なのは、徹底して自分の弱さを自 覚することなのです。キリストの恵みと力なくしては生きられない自分自身 であることを認めることなのです。そこから、キリストを求めて生きるので す。キリストにつながって生きるのです。主の御言葉が欲しい。聖餐のパン がノドから手が出るほどに欲しい。主に祈らずには生きていけない。それこ そが、自分の弱さを本当の意味で誇り、自分の弱さの中にキリストの力が現 れることを求める者の姿です。
それゆえに、私たちにとって、弱さを思い知らされる機会というのは、確 かに私たちの人生において必要なものなのでしょう。それはパウロと同じよ うな肉体に与えられる「とげ」であるかもしれません。あるいは、「侮辱、 窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態」(10節)であるかもしれません。 それは消極的な意味としては、「思い上がることのないように」必要なので す。しかし、本当に重要なことは、そこにおいて私たちもまた、主の御言葉 を聞くことです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこ そ十分に発揮されるのだ」。その御声を聞いて受け止めるならば、私たちも またパウロと共にこう応えることができるに違いありません。「だから、キ リストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇 りましょう」と。