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「あなたがたが完全な者となるように」

2003年9月21日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 2コリント13・1‐10

●パウロの三度目の訪問

 本日お読みしました聖書箇所において、パウロは三度目のコリント訪問の 意志があることについて書き記しています。この訪問に関してパウロは、 「以前罪を犯した人と、他のすべての人々に、そちらでの二度目の滞在中に 前もって言っておいたように、離れている今もあらかじめ言っておきます。 今度そちらに行ったら、容赦しません」(2節)と、まことに穏やかならぬ 言葉をもって語ります。このようなことを書かざるを得なかったのは、具体 的に懸念される状況があったからに他なりません。それはこの章の直前に書 かれています。「わたしは心配しています。そちらに行ってみると、あなた がたがわたしの期待していたような人たちではなく、わたしの方もあなたが たの期待どおりの者ではない、ということにならないだろうか。争い、ねた み、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろう か。再びそちらに行くとき、わたしの神があなたがたの前でわたしに面目を 失わせるようなことはなさらないだろうか。以前に罪を犯した多くの人々が、 自分たちの行った不潔な行い、みだらな行い、ふしだらな行いを悔い改めず にいるのを、わたしは嘆き悲しむことになるのではないだろうか」(12・ 20‐21)。

 これはある程度予期されることでした。というのも、現実に彼らの罪を指 摘し、悔い改めを求めるパウロの言葉を、彼らは受け容れようとはしていな かったからです。むしろ彼らは、そのように語るパウロの権威とパウロの言 葉の有効性の方を問題にしていたのでした。「なぜなら、あなたがたはキリ ストがわたしによって語っておられる証拠を求めているからです」(3節) と書かれているのは、そのような事情を示しております。

 罪を指摘する言葉に対して、人は自己防衛をはかります。そのような言葉 を、様々な理屈をつけて拒否し、葬り去ろうといたします。そのようにして、 あくまでも自分を正当化しようとするものです。しかし、そのように自分の 罪を認めようとしない人間のかたくなさの中にこそ、人間の最も大きな罪が あることを、私たちは知らねばなりません。聖書は繰り返しそのことを語っ ております。

 それは初めからそうだったのです。創世記に記されているエデンの園の物 語において、アダムは取って食べてはならない木の実を食べました。その罪 を明らかにされた時、アダムは神になんと答えたでしょうか。「あなたがわ たしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べ ました」(創世記3・12)と答えたのです。罪を認めるのではなく、むし ろ神と隣人の責任に転嫁したのです。

 それは旧約聖書に見る、イスラエルの歴史においても同じです。聖書は繰 り返し彼らのかたくなさに言及しています。現在、水曜日の集会で私たちは 列王記を読んでいますが、列王記はイスラエル王国とユダ王国の滅亡を伝え ております。これらの王国はただ神に対して罪を犯したから滅びたのではあ りません。そうではなくて、神が繰り返し預言者を遣わして語りかけたにも かかわらず、その言葉を拒否したから滅びたのだと聖書は教えているのです。 「主はそのすべての預言者、すべての先見者を通して、イスラエルにもユダ にもこう警告されていた。『あなたたちは悪の道を離れて立ち帰らなければ ならない。…』しかし、彼らは聞き従うことなく、自分たちの神、主を信じ ようとしなかった先祖たちと同じように、かたくなであった」(列王下17 ・13‐14)この「かたくなさ」こそが問題なのです。人はかたくなに自 分を正当化するために、神の言葉さえも拒否するのです。最終的には人間と なって来られた生ける神の言葉であるイエス・キリストさえも磔にして抹殺 してしまうものなのです。

 そのように自らの罪を認めようとせず、悔い改めようともしないコリント の教会のある人々に対して、パウロは三度目の訪問において具体的な処分を 考えているようです。「すべてのことは、二人ないし三人の証人の口によっ て確定されるべきです。」これは申命記17章からの引用ですが、主イエス がこの言葉を用いて次のように語られたことが思い起こされます。「兄弟が あなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。 言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほか に一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人 の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れな ければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人 を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(マタイ18・15‐17)。 「異邦人か徴税人と同様に見なす」という差別的な表現には説明が必要です が、今日はそこに立ち入りません。いずれにせよ、それは信徒の交わりを断 つことであり、もはやキリスト者とは見なさないということを意味すること は明らかです。パウロが三度目の訪問において考えているのも、具体的には そのようなことであろうと思われます。

 そして、大事なことは、これが単なるパウロによる人間的な裁きや処分な のではなくて、そこにはまたキリストの裁きがあるのだ、ということです。 「キリストはあなたがたに対しては弱い方でなく、あなたがたの間で強い方 です」。パウロを通して語っておられたのは、そのような御方なのです。さ らにパウロは、「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神 の力によって生きておられるのです」(4節)と語ります。十字架につけら れたキリストの姿は、まさに弱さの極みであるに違いありません。もし、キ リストが十字架につけられて殺されただけならば、最終的に支配するのは罪 の力である、ということになるでしょう。しかし、そうではないのです。神 はキリストを復活させられたのです。キリストは神の力によって生きておら れるのです。最終的に支配するのは罪の力ではなく、神の力なのです。そし て、どんなにパウロが弱々しく見えたとしても、そのキリストと共に神の力 によって生きているのだ、と彼は言うのです。

 ですから、どんなにパウロの語る言葉を拒否して自己を正当化したとして も、それで罪の問題が解決したことにはなりません。神の力によって生きて おられるキリストがおられるからです。現実に罪がそこにあり、悔い改めよ うとしないかたくなさがあるならば、キリストは弱い方としてではなく、強 い方として臨まれることになるからです。

●自分を反省し吟味せよ

 さて、このように見てきますと、ここに書かれているのは大変恐ろしい話 です。しかし、パウロの願いは、彼らを処分することでも、彼らが最終的に キリストによって裁かれることでもありません。9節以下を読みますと、そ のことが良く分かります。「わたしたちは自分が弱くても、あなたがたが強 ければ喜びます。あなたがたが完全な者になることをも、わたしたちは祈っ ています。遠くにいてこのようなことを書き送るのは、わたしがそちらに行 ったとき、壊すためではなく造り上げるために主がお与えくださった権威に よって、厳しい態度をとらなくても済むようにするためです」(9‐10節)。

 パウロは「あなたがたが強ければ喜ぶ」と言います。もちろん、その強さ とは、コリントの人たちが自分の罪を認めずに自らを誇ってきた、その強さ のことではありません。その意味においては、コリントの人たちは徹底的に 弱くされなくてはなりませんでした。パウロがここで言う強さとは、弱さの 中でこそ発揮されるキリストの力による強さです。コリントの人たちが本当 の意味で強くなり、「完全な者になること」をパウロは祈っているのです。 「完全な者になる」とは、信仰者として成熟し、完成へと向かうことです。 そのことを祈りつつ、パウロはこの手紙を書いているのです。これこそが、 パウロの願いなのであって、彼らが裁かれることではないのです。

 それゆえに、パウロは次のように彼らに勧めています。「信仰を持って生 きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい」(5節)。私たちは、 このような言葉を読みますと、いつでも「私の信じる心は強いか弱いか」と いうような、心の状態の反省に終始してしまうものです。しかし、パウロが 人々に求めているのは、そのようなことではありません。彼はこう続けるの です。「あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリ ストがあなたがたの内におられることが」(5節)。

 信じる心が強かろうが弱かろうが、イエス・キリストは内におられるので す。それは信徒の交わりである教会の中におられるということでもあります し、個々のキリスト者の内におられる、ということでもあるでしょう。とも かく、キリストが内におられるのです。「分かる」という言葉は「気づく」 という意味の言葉でもあります。キリストがおられるのに、気づいていない、 ということが起こるのです。だから、気づいて欲しい、分かって欲しい、と パウロは願っているのです。キリスト――すなわち、私たちのために十字架 につけられたキリスト――が内におられることが分かるなら、そしてそのこ とを考えて生きるなら、以前と同じではあり得ません。ならばパウロが「今 度そちらに行ったら、容赦しません」などと語る必要は全く無くなるはずな のです。

 「あなたがたが失格者なら別ですが…」とパウロは書きます。しかし、本 当に失格者だと思っていたら、こんなことは書かないでしょう。失格者だと 思わないから、「自分を反省し、自分を吟味しなさい」と勧めているのです。 そして、「あなたがたがどんな悪も行わないように」(7節)と祈るのです。 パウロは、彼らの内にキリストがおられることを知るゆえに、そのように祈 るのです。

 「どんな悪も行わないように」という言葉を見ると、《罪を全く犯さない 者となることなどあり得るだろうか》とついつい考えてしまうものです。確 かに、全く罪を犯さないということは不可能であるかもしれません。しかし、 それでも、他者についてにせよ、自分自身についてにせよ、内なるキリスト に依り頼んで、悪を行わないことを祈り求めて生きることは、キリスト者と して本質的に重要なことであるはずです。なぜなら、同じように悪を行って しまったとしても、神の赦しによって何度倒れても立ち上がり、内なるキリ ストに依り頼んで罪と戦おうとしているのか、それとも罪深い自分の行動を 正当化するために神の言葉と戦おうとしているのかは、決定的に異なる事だ からです。

 さて、これまで見てきましたように、三度目の訪問に関するパウロの非常 に厳しい言葉の奥にありますのは、キリスト者が信仰の完成へと向かい、教 会が真に建て上げられていくことへの切なる願いと希望でありました。そし て、それは取りも直さず、パウロの内にあって語り、私たちの内にもおられ るイエス・キリストの、私たちに対する切なる願いでもあるに違いありませ ん。

 
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