「道・真理・命」
2003年9月28日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ14・6
今日、私たちに与えられていますのは、ヨハネによる福音書14章6節に あるキリストの御言葉です。「わたしは道であり、真理であり、命である」。 私たちは、ここで後にも先にも、決して人間の口に上ることがなかった、ま ことに驚くべき言葉を耳にしています。この御方は、ただ道を示されるだけ ではありません。「わたしが道なのである」と言われるのです。この御方は、 ただ真理を語られるだけではありません。「わたしが真理なのである」と言 われるのです。この御方は、ただ命へと導いてくださるだけではありません。 「わたしが命なのである」と言われるのです。私たちは今日、この御言葉を 心に留め、思い巡らし、その意味するところを共に考えたいと思います。
●わたしは道である
キリストは、「わたしは道である」と言われました。道はどこかへと通じ ています。道はどこかへと人を導きます。それが道というものです。キリス トが「わたしは道である」と言われた時、その道はどこへと通じているので しょう。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」 と主は言われます。このように、その道とは、父なる神のもとへと導く道で あることが分かります。
主イエスは、どうしてここで「父のもと」に通じる道について語っておら れるのでしょうか。それは、主イエス御自身が、父のもとへ帰ろうとしてい たからです。13章1節を御覧ください。次のように書かれております。 「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御 自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜 かれた」(13・1)。
主イエスを取り巻く状況は緊迫しておりました。ユダヤ人たちが主イエス を憎んでいること、殺そうとしていることを、主御自身も弟子たちもよく知 っておりました。しかし、そのことを知った上で、主イエスはエルサレムに 向かわれ、弟子たちは主イエスに従ったのです。既に主イエスはいくたびか 御自分の受難と死について弟子たちに語っておりました。弟子たちにとって それは信じ難いことであり、また、信じたくないことでありました。しかし、 ついにその時は来たのです。主は御自分の死の時を目前にして、愛する弟子 たちと最後の食事を共にすることを望まれました。それがこの場面です。
しかし、キリストは、ただ御自分の受難と死に向かっていただけではあり ません。主の目は十字架の死の向こう側に向けられていたのです。死の向こ うには父なる神がおられます。主イエスにとって、十字架の死は、「この世 から父のもとへ移る御自分の時」に他なりませんでした。それゆえ、不安と 恐れに打ち震えている弟子たちに対し、主は静かに次のように語られるので す。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのた めに場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場 所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうし て、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行く のか、その道をあなたがたは知っている」(14・1‐3)。
主イエスは父のみもとに帰ろうとしています。しかし、父のもとには主イ エスの場所だけがあるのではありません。主は、弟子たちの場所をも用意し にいくのだ、と言われるのです。だから、弟子たちもまた、父のみもとに迎 えられるのです。主イエスによって迎えられ、主のおられるところに弟子た ちも共にいることになるのです。
そのように父のみもとへと通じる道を「あなたがたは知っている」と主は 言われました。もちろん、弟子たちは自分がその道を知っているなどと夢に も思っておりません。ですから、トマスは「どうして、その道を知ることが できるでしょうか」と尋ねます。しかし、彼らは本当は、もう既にその道を 知っているのです。なぜなら、道は彼らとずっと共にあったからです。そし て、道は現に彼らの目の前にあるのです。そうです、「わたしがその道であ る」と主イエスはトマスに、そして他の弟子たちに言われるのです。
さて、この一連の主の御言葉において、私たちが改めて考えねばならない ことがあります。主は「あなたがたのために場所を用意しに行く」と言われ ました。つまりそれは、弟子たちのための場所は初めからあるのではなくて、 主イエスが用意して初めて彼らの場所がある、ということを意味します。多 くの人は、神との関係について考える時に、神のもとに自分の場所があるの が当然であると考えているものです。神に受け容れられることが当然である ように考えているのです。しかし、聖書はそう言いません。もともと神のも とに私たちの場所はないのです。
そして、さらに主は父のもとに行くための「道」について語られました。 父のもとに行くには、ある特別な道が必要なのです。人が父のもとに行くこ とができるということは、決して自明のことではない、ということです。父 のもとに場所がないだけではありません。行くことすらできないのです。行 くためにはどうしても特別な道が必要なのです。
それはどうしてでしょうか。私たちとキリストとは異なるからです。キリ ストは父から遣わされた御方として、父の御心だけを行いました。キリスト には罪がありませんでした。そのようなキリストにとって、使命を終えて父 のもとに帰って行くことは自明のことでした。父のもとに場所があることは 至極当然のことでありました。ですから、十字架において死ぬことは、父な る神のもとに移されることに他なりませんでした。しかし、私たちは違いま す。私たちは罪のない者ではありません。父なる神は聖なる御方です。その ような父なる神のもとに、本来、罪人の場所はありません。私たちは父なる 神に近づくことさえできないのです。
しかし、ある人はこう言われるかもしれません。「世の中には正しい人だ っているではないですか。良い人だっているではないですか。」人間には罪 があるという話をしますと、必ずそう言い出す人がいるものです。しかし、 ここで一般論を語ることは大して意味を持ちません。大事なのは、私自身の ことであり、あなた自身のことです。他の人はさておき、あなたはどうでし ょうか。あなたは御自分について考える時、父のもとに自分の場所があるこ とは当然であると言えるでしょうか。父のもとに行くことができることは当 然であると言えるでしょうか。もし言えないとするならば、私たちは、キリ ストによって場所を用意していただいて、キリストによって迎えていただく しかないでしょう。そして、キリストという道を通って父のみもとに行くし かないではありませんか。
キリストは場所を用意しに行くと言われました。そして、そのためには、 あえて十字架の死を通らなくてはなりませんでした。言い換えるならば、キ リストは十字架にかかられ、罪を贖う犠牲となることによって、場所を用意 してくださったのです。いや、場所を用意してくださっただけではありませ ん、キリストは罪を贖いの犠牲となることによって、私たちの通るべき道と もなってくださったのです。私たちが自分の罪のゆえに父に近づくことがで きないならば、罪の贖いという道を通って父なる神のもとに行くしかないの です。それゆえ、主イエスは言われたのです。「わたしを通らなければ、だ れも父のもとに行くことができない」と。
●わたしは真理であり、命である
このように、キリストは自ら「道」となってくださいました。父のもとへ 通じる「道」とは、父のもとへ行く単なる《方法》ではなく、人格を持った 一人の御方でありました。ならば、私たちが本当に知らなくてはならない救 いの「真理」もまた、単に私たちが理解し把握することのできる、ある特定 の教えや思想などではありません。キリスト教という《宗教》ですらありま せん。それは《何か》ではなく、人格を持った一人の御方なのです。私たち のために道となってくださった、キリスト御自身なのです。それゆえに、キ リストは「わたしは真理である」と言われたのです。
真理がキリスト御自身であるならば、真理を知るということの意味もまた 違ってまいります。何か事柄を知るように、キリストを知ることはできない からです。《キリストについて知る》ということと、《キリストを知る》と いうことは、異なります。キリストを知るということは人格的な関係であり、 人格的な交わりです。言い換えるならば、それは「信ずる」ことであり、 「愛する」ことであり、「礼拝する」ことです。それはここに登場するトマ スという人のことを考えても分かります。彼は懐疑的な人物として描かれて います。しかし、最終的に彼は本当の意味でキリストを知る者となるのです。 それは、彼がキリストについての何かを知った、ということではありません。 そうではなく、彼は復活したキリストに向かって「わたしの主、わたしの神 よ」と言い、主を礼拝したのです。それがキリスト知るということであり、 真理を知るということなのです。
そして、さらに主は「わたしは命である」と言われました。ここで言う 「命」とは単なる活力や生命力のことではありません。活き活きと生命力に 満ち溢れて生きられることは素晴らしいことです。しかし、それが最終的に 重要なことではありません。なぜなら、活力に溢れている人もまた死ぬから です。死はその人をも確実に呑み込んでいくのです。人間はいかなる状態に あったとしても、《死につつある》存在であることに変わりはありません。 ですから、本当の意味で「命」が語られるためには、死が克服されていなく てはならないのです。
主は「わたしは命である」と言われました。そこには死の完全なる克服が あります。キリストがおられるところにおいて、もはや死は力を持ち得ない のです。なぜなら、キリストは父のみもとに場所を用意してくださる方であ り、私たちが父のみもとへ行くための「道」そのものだからです。キリスト が場所を用意してくださっているならば、私たちはもはや死に行くだけの存 在ではありません。私たちは父のみもとへと向かって歩いているのです。
そして、さらに言いますならば、父なる神との交わりは、墓の向こうにお いて初めて与えられるのではありません。主イエスはこの地上において、父 なる神との愛と信頼に満ちた交わりを見せてくださったのです。キリストは まさに父なる神との交わりにおける命そのものを見せてくださったのです。 そして、「わたしは命である」と言われるキリストは、御父との間にある命 の交わりへと、私たちをも招いてくださったのです。
このように、キリストは「わたしは道であり、真理であり、命である」と 語られました。既に見てきましたように、この一人の御方の内にこそ、私た ちの救いのすべてがあるのです。そのキリストが私たちに出会ってください ました。私たちはさらにこの御方を深く知り、キリストとの生きた交わりの 中に留まり続ける者でありたいと思います。