「聖なる者となれ」
2003年10月5日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 レビ記19・1‐18
今月は礼拝において旧約聖書のレビ記をお読みしたいと思っております。 レビ記は全体として27章ありますが、その中心になっていますのは「神聖 法集」と呼ばれる律法集です。17章から26章にわたって記されておりま す。今日はその一部をお読みしました。「神聖法集」という呼び名は、今日 お読みした「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であ るわたしは聖なる者である」という言葉に由来します。この礼拝において、 特にこの言葉を、私たちへの主の語りかけとして心に留めたいと思います。
●生活のあらゆる領域において
本日お読みした聖書箇所の内、3節以下は二つに区分できると見てよいで しょう。まず3節から8節までは、大まかに言いまして、十戒の前半部分に 対応しています。申命記の言葉を借りるならば、「あなたは心を尽くし、魂 を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」という言葉でまと めることができるでしょう。(ところで、興味深いのは、最初に「父と母を 敬いなさい」という言葉が置かれていることです。主を愛し、主を畏れる生 活が形作られることにおいて、親の存在は極めて大きな意味を持っていると いうことであろうと思います。)そして、さらに言いますならば、主を愛し て生活するということは、単に心情的なことではなくて、具体的に神を礼拝 して生きることです。ですから、ここでも礼拝に関することが語られており ます。「わたしの安息日を守りなさい」、「偶像を仰いではならない」、 「和解の献げ物を主にささげるときは、それが受け入れられるようにささげ なさい」というようにです。
この「和解の献げ物」については、より多くの言葉が費やされております。 これがレビ記の特徴でもあります。ご存じのように、レビ記を読み始めてま ず面食らいますのは、犠牲の献げ方が延々と述べられていることです。犠牲 の肉の分け方から内蔵や胃の中身の処分の仕方まで書かれております。多く の人は、このあたりで聖書を読むのを止めてしまいます。しかし、私たちは このような部分を軽視してはなりません。少なくとも、このような犠牲の献 げ方を書き記し、それを伝えた人々は、非常に重要な一つの意識を持ってい たと考えられるからです。それは《犠牲をささげるときは、それが受け入れ られるようにささげなくてはならない》という意識です。言い換えるならば、 《犠牲にはふさわしい献げ方があるのであり、神を礼拝するには、ふさわし い礼拝の仕方があるのだ》ということです。つまり、私たちがどのように神 を礼拝するかということについて、神は決して無関心ではないということな のです。
そして、9節から18節は主に十戒の後半部分に対応しています。この部 分は、18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉で まとめることができます。ご存じのように、主イエスは先の申命記の言葉と この言葉をもって律法の全体をまとめられました。
レビ記には先に申しましたように、祭儀の規定が詳細に記されております。 しかしもう一方で、ここに見ますように日常生活のあらゆる領域に渡る神の 命令が記されているのです。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽く してはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み 尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これら は貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない」(9‐10節)とい うことまで書かれております。このように、神はただ礼拝祭儀にのみ関心を 持っておられる御方ではありません。神は礼拝の場にいる私たちの姿にのみ 関心を持っておられる御方ではありません。私たちの日々の生活を御覧にな っておられるのです。特に、私たちが他者とどのように関わって生きている かということに大きな関心を抱いて御覧になっておられるのです。神にとっ て重要なのはただ日曜日の私たちの姿ではありません。月曜日から土曜日も 同じように重要なのです。
それはある意味で当然のことです。なぜなら、神の求めは、2節に記され ているように、「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主 であるわたしは聖なる者である」(2節)ということだからです。
「聖なる」という言葉は、本来、神にのみ用いることのできる言葉です。 神のみが聖なる御方です。「聖なる」は本来、人間の特質を描写する言葉で はありません。どんなに清く正しい人であっても、そのことによって「聖な る者」になるわけではありません。物や人間が「聖なるもの」となるのは、 《聖なる神のものとなることによって》なのです。祭儀のための聖具は、神 のために聖別されて、神のものとなって、聖具となります。神のものでなけ れば、どんなに立派な器であっても、聖具とはなりません。人間も同じです。 聖なる神のものとなって「聖なる者」となるのです。
ですから、ここで語られている「あなたたちは聖なる者となりなさい」と いう言葉は、取りも直さず、「神の民として生きなさい。完全に神のものと して生きなさい」ということに他なりません。そして、神のものとして生き るということは、ただ神を礼拝するということだけでなく、生活のあらゆる 領域に関わることなのです。そのことを、レビ記は示しているのです。
●聖なる民とされているゆえに
そこで私たちは、「あなたたちは聖なる者となりなさい」という言葉の意 味をより深く理解するため、さらに幾つかのことを考えたいと思います。
第一に、私たちはこの言葉が神の恵みに基づくことについて考えねばなり ません。「あなたたちは聖なる者となりなさい」。この言葉をイスラエルの 民がモーセを通して聞いているのはシナイの荒れ野においてです。彼らはエ ジプトにおいてこれを聞いているわけではありません。神は彼らを奴隷状態 から解放し、エジプトから導き出されたのです。エジプトにおける苦役から の解放は人々の願いでありました。神は彼らの叫び声を聞き、御力をもって 彼らを救い出されたのです。
しかし、苦しみからの解放は、彼らに備えられている大きな恵みの計画の、 いわば出発点に過ぎません。出エジプト記19章を御覧ください。エジプト の国を出て三月目に、主はモーセにこう語られました。「ヤコブの家にこの ように語り、イスラエルの人々に告げなさい。あなたたちは見た、わたしが エジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもと に連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守る ならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界は すべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、 聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である」(出 19・3‐6)。
神はイスラエルを解放するだけでなく、彼らと契約を結ばれました。神が 彼らと結ぼうとしておられた契約は、彼らを神の民とするための契約であり ました。この契約によって、彼らは神の宝の民とされたのです。祭司の王国 となり聖なる国民とされたのです。確かに神が苦難から解放してくださるこ とは人間にとって喜ばしいことであるかもしれません。しかし、神が人を神 の民としてくださること、神が人と共に生きようとしてくださること、そし て人に対して大きな目的と計画を持っていてくださることは、もっと喜ばし いことであるに違いありません。そのように、「聖なる者となりなさい」と いう言葉は、神の側から一方的に示してくださった神の驚くべき恵みに基づ く言葉なのです。
第二に、私たちはこの言葉が、神の限りない忍耐と寛容を前提としている ことについて考えねばなりません。「聖なる者となりなさい」というこの言 葉は、天使たちに語られたのではなく、意のままに動かせる人形に対して語 られたのでもなく、現実にこの地上に生きている罪深い人間に対して語られ た言葉です。苦難から解放されても、喉元過ぎれば熱さを忘れ、「エジプト のほうが良かった。エジプトに帰ろう」などと言い出す、そのような人間に 対して語られた言葉なのです。実際、私たちはレビ記に続いて民数記をお読 みすることになりますが、そこで私たちが目にするのは、神が驚くべき忍耐 をもって、まことに罪深い人間の現実に関わり続けられる姿です。
そして、第三に、「聖なる者となりなさい」というこの言葉には、神の忍 耐と寛容だけでなく、目指すところを実現し給う神の熱情が秘められている ことを知らねばなりません。私たちはイエス・キリストを通して、そのこと を知らされているのです。
神はイスラエルの民とシナイにおいて契約を結ばれました。しかし、イス ラエルはその契約を破ったのです。後に預言者エレミヤが語っているとおり です(エレミヤ31・32)。しかし、人間がどんなに不真実であっても、 そのことをもって神を挫折させることはできません。神はこの地上に聖なる 民を持つことを諦めることはありませんでした。契約の目的そのものを放棄 することはありませんでした。神は、古い契約が破られたゆえに、罪の赦し に基づいて「新しい契約を結ぶ」と言われたのです。そのために御自分の御 子をさえ地上に送られ、罪の赦しを与えるために十字架の上で血みどろにさ れたのです。
この新しい契約のゆえに、私たちもまた神の民としてここに存在していま す。この神の驚くべき熱情のゆえに、私たちは今日も、この聖餐において、 あの主イエスの御言葉――「この杯は、わたしの血によって立てられる新し い契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」―― というあの御言葉を聞くことができるのです。私たちが聖餐にあずかること は、そのような新しい契約の杯にあずかることに他なりません。それゆえに、 ペトロはかつてイスラエルに対して語られたあの主の言葉を、教会に対して 再び語り直しているのです。「無知であったころの欲望に引きずられること なく、従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたが た自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる 者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです」(1ペ トロ1・14‐16)。
レビ記や民数記には、今日の私たちには直接当てはまらないと思えること や無縁に思えることも多く語られているかもしれません。しかし、私たちは それらの記述を含めたこれらの書の全体から、神の民として生きるとはどう いうことであるのか、神のものとして、聖なる者として生きるとはいかなる ことであるのかを、さらに聞き取っていきたいと思います。そして、共に神 の民としての生活が真に形作られることを祈り求めていきましょう。