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「命の献げ物」

2003年10月12日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 レビ記1・1‐17

 「主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった」(1節)。このよ うな言葉からレビ記は始まります。臨在の幕屋とは礼拝の場所です。その詳 細な作り方が直前の出エジプト記に記されておりました。その幕屋が完成し たところで出エジプト記は終わります。レビ記はその続きです。作られた幕 屋から主がモーセを呼ばれます。主はモーセを通してイスラエルの民を礼拝 へと招かれるのです。そこで主はモーセに犠牲の献げ方についての指示、す なわち、礼拝に関する指示を与えられたのでした。

 さて、ここに書かれていることは、おおよそ私たちとは無縁のことのよう に思われます。私たちは教会に牛を連れてきたりはしません。牛を屠って火 にくべたりはしません。しかし、かつて動物が犠牲としてささげられていた 時、《ある定まった献げ方》があったということは私たちにとって極めて重 要な意味を持っているのです。《形》というものは《意味》と不可分である からです。私たちは、その意味を捉えなくてはなりません。今日は、ここに 記されている犠牲の献げ方とその意味を思いつつ、私たち自身が主によって 招かれ、週ごとにおささげしている礼拝について、共に考えたいと思います。

●罪の贖いとして

 今日の聖書箇所に書かれていますのは、「焼き尽くす献げ物」の献げ方で す。レビ記には何種類かの犠牲の献げ方が出ていますが、「焼き尽くす献げ 物」は最も一般的な献げ方です。「焼き尽くす献げ物」として献げられる動 物が、ここには何種類か出てきます。代表的なのは牛でありまして、その場 合が詳細に記されています。次に出ているのは、羊または山羊を献げる場合 です。多くの所作は牛の場合に準じるので、簡単に書かれています。その次 に書かれているのは山鳩または家鳩の場合です。牛が無理な人は羊などを献 げます。それも無理な人は鳩を献げます。経済的に困難な人の場合がこのよ うに考慮されています。富める者も貧しい者も同様に礼拝へと招かれている のです。

 さて、動物を焼き尽くして献げることの意味するところの一つは4節に明 示されております。「手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の 罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる」(4節)。ここに記されて いるように、「焼き尽くす献げ物」に「罪を贖う儀式」という意味が伴って いたことを、私たちはまず心に留めたいと思います。

 ここに記されているような動物犠牲を伴う儀式そのものは決してイスラエ ルに特有のものではありません。古今東西、様々な例が見られます。ある民 族は、狩りの獲物をささげます。そのようにして、獲物を与えられたことを 感謝すると共に、次なる狩猟のための祈願を行います。その他にも、家畜が 殖えることを祈願して家畜を犠牲として献げる習慣を持つ民族もあります。 同じような意味合いをもって農作物を献げる民族も少なくありません。

 イスラエルもまた、家畜の多産や作物の豊作は、神から来るものであり、 神の祝福であると理解していました。ですから、そのような祝福を求める祈 願はあったに違いありません。しかし、イスラエルの礼拝においては、何よ りもまず神の前における《自分の罪》を問題にしたのです。ですから「罪を 贖う儀式」があるのです。これは、言い換えるならば、「罪を赦していただ く儀式」です。礼拝における大事な要素は、なによりもまず、罪を赦してい ただくことだったのです。というのも、そもそも神に赦していただかなけれ ば、礼拝するために神の前に出ることすらできないのが人間だからです。そ のような自己理解は、例えば詩編130編などに明瞭に言い表されています。

 「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、   主よ、誰が耐ええましょう。   しかし、赦しはあなたのもとにあり、   人はあなたを畏れ敬うのです」(詩編130・3‐4)。

 「人の罪を贖う儀式」としての犠牲奉献は、人間の根本的な必要が何であ るかを、私たちに教えているとも言えるでしょう。私たちは多くのものを必 要としています。そして、必要が満たされなくて困窮することがしばしばあ ります。そのことのゆえに苦悩し、あるいは自分は不幸であると考えます。 それは経済的な悩みかもしれませんし、病気のゆえの悩みであるかもしれま せん。しかし、人間にとって本当に不幸なことは、必要が満たされずに欠乏 していることではなく、人間が罪深いことなのです。ならば、本当に必要な ことは、神によって様々な必要を満たしていただくという以前に、何よりも まず、罪を赦していただくことなのです。それゆえに、富んでいる者も、貧 しい者も、それぞれの仕方において罪の贖いの儀式にあずかったのです。富 んでいても、貧しくても、罪の赦しを必要としているからです。罪深いまま で、神に赦していただかないままで生きているということ、そして罪人のま ま死んでいくということは、本当に不幸なことであり、恐ろしいことなので す。

 そして、神がイスラエルに命じられたこの「罪を贖う儀式」は、人間が自 分の罪というものを軽いこととして考えないためにも、重要な意味を持って いたものと思われます。実際に、自分自身が犠牲の奉納者として牛を献げて いる場面を想像してみてください。あなたは手塩にかけて育ててきた牛を連 れてきます。あなたはその手を牛の頭の上に置きます。それはあなたと牛が 一つになることのしるしです。牛は罪深いあなたの代わりになります。あな たの罪を代わりに背負ってくれます。そして、あなた自身の手で牛の喉を切 り裂きます。大量の血が流れ、牛は悲鳴を上げながら、苦しみながら死んで いきます。牛はあなたが赦されるために死にました。そこに見るのは、あな た自身の罪に対する裁きです。あなたが本当は罪を裁かれ、苦しんで死んで いかなくてはならないはずでした。しかし、あなたは赦されました。牛の命 とひきかえに。

 私たちがイエス・キリストの十字架について考える時、その背景に、イス ラエルの人たちが続けてきたこのような礼拝があることを忘れてはなりませ ん。私たちはいつの間にか十字架を単なるシンボルのように考えてしまいが ちです。しかし、それはもともと死刑の道具なのです。その上にキリストが 磔になっている姿は、牛が血を流して死んでいくのよりも、もっと凄惨なむ ごたらしいものであったに違いありません。その御苦しみの中に見るのは、 私たちの罪とその罪に対する神の裁きに他ならないのです。パウロはあの旧 約における「罪を贖う儀式」を背景として、キリストの十字架について次の ように語っています。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者 のために罪を償う供え物となさいました」(ローマ3・25)。私たちの礼 拝もまた、神の御子の犠牲による罪の贖いによって成り立っていることを、 私たちはまず心に留めねばなりません。

●献身のしるしとして

 さて、「焼き尽くす献げ物」について考えます時に、私たちはさらに、殺 された牛が解体されて、完全に燃やし尽くされることに注目したいと思いま す。「焼き尽くす献げ物」は、原語では「オーラー」と言います。これは、 「昇る(アーラー)」という言葉に由来します。犠牲は燃やし尽くされて、 全て神のもとに昇ってしまうのです。これは完全に神に献げ尽くされて人の 手元には何も残らないことを意味します。

 この牛は手を置いた牛です。手を置くことは、この牛と一つになることだ と申しました。その牛を完全に神に献げ尽くすことは、礼拝者が自分自身を 完全に神に献げ尽くすことをも象徴的に表しております。つまり、この犠牲 は、罪を贖う犠牲であると同時に、礼拝者にとって《神に完全に献げられた 自分自身》でもあるのです。

 「献身する」ということと、いわゆる「献身的である」ということは異な ります。神に身を献げるということは、この身が関わる生活のあらゆる領域 を神の支配のもとに置き、神のものとして生きることに他なりません。神の 求めておられるのは、最終的には次の言葉によって表現されるのです。「あ なたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖な る者である」(19・2)。先週お話ししましたように、レビ記そのものが そのことを示しております。そこでは礼拝のささげ方だけでなく、生活の仕 方に至るまで様々なことが語られております。他の人々にどう関わって生き ているかということは、神と無関係ではないのです。

 しかし、神に献げられた者として生きること、その意味において「聖なる 者となる」ことは、決して容易でないことも、私たちは良く知っています。 生活の中に、神のものとなっていない部分、神の御心に適わない部分、神に 逆らっている部分が立ち現れてまいります。神に献げられた者として生きよ うとする時にこそ、そこにおいて私たちの罪もまた明らかになってくるので す。私たちが献身ということを本気で考え始めますなら、それはまた神によ る罪の赦しの恵みなしにはあり得ないことが分かってまいります。それゆえ に、献身を表す「焼き尽くす献げ物」は、同時に罪の贖いの犠牲でもある必 要があるのです。私たちを受け入れてくださる神の憐れみなくして、私たち の献身はあり得ないからです。

 ローマの信徒への手紙12章1節には次のように書かれています。「こう いうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の 体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あな たがたのなすべき礼拝です」。ここで自分を神に献げよと勧められています。 しかし、それは「神の憐れみによって」勧められているのです。私たちが神 のものとして生きるための基礎、それは週ごとの礼拝によって私たちが求め、 そして私たちに与えられる罪の赦しです。そして、私たちはその神の憐れみ に基づいて、私たち自身をお献げし、私たちの生活のすべてが神への献げ物 となることを求めつつ、ここからこの世へと出て行くのです。

 
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