「安息の年・ヨベルの年」                         レビ記25・1‐12  本日の聖書箇所には、安息の年とヨベルの年に関する規定が記されており ます。今日、私たちは、これらを命じられた主の意図がどこにあり、それが 私たちにとって何を意味するのかを、御一緒に考えたいと思います。 ●安息日  ここには「安息の年」という言葉を初めて耳にする方がおられるかもしれ ません。しかし、そのような人も、安息の《年》ではなくて、安息《日》に ついてはお聞きになったことがあるでしょう。この両者に関連があることは 明らかです。そこでまず「安息日」についていかなることが語られていたか を思い起こしてみることにしましょう。「安息日」については、十戒の中に 次のように定められています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日 の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息 日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出20・8‐10)。  「安息日」という言葉は、「中止する」という言葉に由来します。考えて みれば、まことに不思議な命令です。「怠けずに働き続けろ」と命じるので はなくて、「働くことを中止せよ。休め。働いてはならない」と主は命じら れるのです。なぜ主はそのようなことを命じられるのでしょうか。その理由 を聖書はこう説明します。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべて のものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたの である」(同11節)。ご存じのように、ここで理由として挙げられている のは、創世記に記されております天地創造物語です。  日本人は休むのが下手であると言われます。私自身、休みを取るのが上手 ではありません。休んでいても、何となく後ろめたい気持ちが残っていたり、 教会のこと、仕事のことが気になったりいたします。しかし、あるところに こんな話が書かれていました。ある牧師の話です。彼は決して休みを取ろう としない人でした。いつも教会の会衆にこう話していたとのことです。「悪 魔は今も休むことなく働いているのだ。どうして私が休んでなどいられよう か!」しかし、やがて彼は自分の誤りに気づきます。そして、かつての自分 の言動を恥じて、こう言ったそうです。「私は悪魔に倣うべきではなく、神 に倣うべきであった」と。お分かりになりますでしょうか。そうです。悪魔 は休まず働いているかもしれませんが、神は休まれたのです。私はこの冗談 のような話を読みまして、改めて「神が休まれた」ということの意味を考え させられました。聖書の神は、自ら休み、私たちに休むことを命じられる神 なのです。  神が休みを命じられるのは、ただ私たち自身の休息のためだけではありま せん。「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門 の中に寄留する人々も同様である」(同10節後半)と書かれております。 これは何を意味するのでしょう。申命記のほうでは、その意図がより明確に 記されています。「そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように 休むことができる」(申命記5・14)。つまり、この命令は、周りの人々 をも解放し、休ませるためでもあるのです。休まない人がいると、周りの人 々は休めません。特に弱い立場の人は休めません。そして、実際、休まない 人は、周りの人々をも休ませないものです。だから、神はあえて他者を解放 して「休ませる」ためにもあなたが「休みなさい」と命じられるのです。 ●安息の年・ヨベルの年  このように見てきますと、本日の箇所に記されています「安息の年」に関 する律法は、「安息日」の律法の意図を、さらに拡張したものであることが 分かります。解放して休ませるべきであるのは、奴隷や家畜までに留まりま せん。土地もまた休ませなくてはならないと言うのです。「七年目には全き 安息を土地に与えねばならない」(25・4)と主は言われるのです。その ためには、七年に一度、人間が休まなければなりません。種を蒔くことを休 み、耕すことを休み、ぶどう畑の手入れを休むのです。  では、その間に自然に生えたものはどうするのか。「休閑中の畑に生じた 穀物を収穫したり、手入れせずにおいたぶどう畑の実を集めてはならない」 (5節)と書かれています。これは食べてはいけない、という意味ではあり ません。土地の持ち主が「この土地は私のものだから、そこに生じたものも 私のものだ!」と主張してはならない、ということです。食べることはかま わないのです。ただし皆で仲良く分け合って食べなくてはなりません。「安 息の年に畑に生じたものはあなたたちの食物となる。あなたをはじめ、あな たの男女の奴隷、雇い人やあなたのもとに宿っている滞在者、更にはあなた の家畜や野生の動物のために、地の産物はすべて食物となる」(6‐7節)。 このように、「私のものだ!」という人間の所有意識から解放されてこそ、 初めて土地は完全に安息できるのです。これが安息の年に関する律法です。  そして、このことをさらに徹底したのが「ヨベルの年」に関する律法です。 安息の年が七回繰り返され49年を経たその翌年、50年目には、さらに徹 底した解放と安息の年である「ヨベルの年」がおとずれるのです。ヨベルと は雄羊の角のことです。「その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛 を鳴り響かせる。あなたたちは国中に角笛を吹き鳴らして、この五十年目の 年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。あな たたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る」(9‐ 10節)。  このヨベルの年には、通常の安息の年のように、土地に安息が与えられる だけではありません。土地はすべてもとの所有者に戻されるのです。先祖か ら受け継いだ土地を担保にして借金をし、その土地を離れて働かなくてはな らなかった者は、自分の土地に戻ることができます。土地を売ってしまった 者は、その土地の返却を受けるのです。これらのことに伴い、すべての負債 が免除され、奴隷になっていた者は解放されます。このようにして、土地だ けでなく、人間もまた解放されるのです。それはただ債務を負っていた者だ けが解放されるという意味ではありません。そこには債権者の解放もありま す。そこには、あらゆる所有欲からの解放もまた起こるのです。  このようにして、社会の中に生じた貧富の格差が五十年に一度是正される ことになります。はたして、実際にこのようなことがイスラエルにおいて行 われたのでしょうか。そのことに関する学者の見解は否定的です。しかし、 少なくとも、神が求めておられることを理解することは重要です。神が求め ておられるのは、土地が完全に原状に戻され、完全な安息を与えられること です。そして、その土地の上で、人間もまた解放され完全な安息を得ること です。そのようにして新たに皆が共に生きられるようになることなのです。 それがヨベルの年に関する律法です。 ●神の世界に生きる  さて、私たちはここで、安息の年とヨベルの年に関する律法の根底にある 信仰そのものに目を向けることにいたしましょう。安息の年やヨベルの年の 律法について考えます時、当然のことながら次のような問いが生じてくるに 違いありません。「七年目に種も蒔いてはならない、収穫もしてはならない とすれば、どうして食べていけるだろうか」(20節)。そうです、この世 の声は言うのです。「神の言葉に従うなんてことを言っていて、現実生活が 成り立つものか。そんなことを言って、食べていけるものか」と。  しかし、神の言葉は私たちにこう語ります。「わたしがあなたがたを養い 生かすのだ」と。次のように書かれております。「わたしは六年目にあなた たちのために祝福を与え、その年に三年分の収穫を与える。あなたたちは八 年目になお古い収穫の中から種を蒔き、食べつなぎ、九年目に新しい収穫を 得るまでそれに頼ることができる」(21‐22節)。七年目には種を蒔き ません。八年目に種を蒔いたとしても、すぐに収穫できるわけではありませ ん。しかし、それに先立つ六年目に、二年分余計に収穫を与えると主は言わ れるのです。命じ給う御方は備え給う御方でもあります。信頼し従うことを 求め給う御方は、信頼する者を支え給う御方でもあるのです。  そして、さらに収穫を生じさせる土地そのものが主のものなのだ、と語ら れております。「土地はわたしのものであり、あなたたちはわたしの土地に 寄留し、滞在する者にすぎない」(23節)。レビ記の言葉が語られている 場面は、まだ約束の地に入る前です。イスラエルの民は荒れ野におります。 ならば、約束の地が本質的には彼ら自身に属してはいない、ということは良 く分かるはずです。それは主のものなのであり、彼らはその土地の上に寄留 させていただき、土地を利用させていただく者に過ぎないのです。大事なこ とは、実際に約束の地に入っても、そのことを忘れないということです。そ のためにも、この安息の年とヨベルの年の律法は大きな意味を持っています。 なぜなら、安息の年にしても、ヨベルの年にしても、そこで命じられている ことは、何ら特別なことではなく、結局は《主のものを主のものとして生き る》ということに尽きるからです。  さて、このように約束の地の上に寄留し滞在する者とされたイスラエルの 民は、この世界の中に生かされている人類全体の縮図であると言えるでしょ う。この世界は神の創造された世界です。神の創造ということを考えない人 でありましても、少なくともこの世界が本質的に人間に属するものではない ことは承認せざるを得ないでしょう。これは人間が造った世界ではないから です。私たちは、そこに滞在することを許されている寄留者に過ぎません。 神は恵み深く、私たちをこの世界に住まわせ、そして私たちを養い、生かし てくださっています。この世界を我がもののようにして生きているところに、 私たち人間の罪があります。本当の解放と安息は、この世界を主のものとし て生きるところにこそあるのです。  主イエスは、ナザレの会堂において預言者イザヤの書を朗読されました。 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、 主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕ら われている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されてい る人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。主の恵みの年とは 「ヨベルの年」のことです。そして、主イエスはこの朗読の後に、こう宣言 されたのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実 現した」(ルカ4・21)。このように、まことに主イエスは、私たちを救 い、解放し、真の安息を与えるためにおいでくださったのです。