「罪人を招くため」                         マルコ2・13‐17  本日の聖書箇所には、主イエスが徴税人や罪人と一緒に食事をしたという 話が記されております。このような食事にまつわる話は数多く残されており まして、福音書の中にしばしば出てまいります。これは主イエスの物語を伝 えた教会の生活と無関係ではありません。主イエスが天に帰られた後の教会 におきまして、食事は大きな意味を持っていたのです。特に「パン裂き」あ るいは「主の晩餐」と呼ばれる食事を、教会は重んじてまいりました。今日 の私たちの教会にも聖餐卓というテーブルがあります。私たちは、この食卓 を囲んで礼拝をしております。それは昔の教会も同じです。主の食卓を囲ん で礼拝をしてきたのです。そのような場において主イエスの食事の話は伝え られてきたのです。そこで「主イエスのもとに招かれている者は誰か。主の 食卓に招かれているのは誰か」と考える時、彼らは繰り返しこの御言葉を思 い起こしたに違いありません。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく 病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招く ためである」(マルコ2・17)。これが今日私たちにも与えられている主 の御言葉です。主の食卓を囲んで礼拝している者として、私たちもこの御言 葉を共に味わいたいと思います。 ●わたしに従いなさい  今日お読みしました物語は、ある徴税人が主によって招かれたところから 始まります。その人の名はレビと言いました。マタイによる福音書では、こ の人物の名前は「マタイ」となっております。彼は十二弟子の一人でありま して、伝統的にはマタイによる福音書はこの人によって書かれたとされてい ます。彼に先立って、既にシモンとアンデレ、ヤコブとヨハネが主の弟子と なっていました。その様子が1章16節以下に記されております。そのよう に既に形成されつつあった弟子の群れにレビもまた加えられたのです。  ところで、福音書にしばしば出てくる「弟子」はギリシア語では「マセー テース」と言いまして、それに相当するヘブライ語は「タルミード」という 言葉です。「タルミード」と言いますと、一般的には、ユダヤ教の教師(ラ ビ)のもとで律法を学ぶ者を指す言葉でした。ラビの言葉に耳を傾け、質問 をし、聞いたことを復唱し暗記する。また、ラビの生活を倣い、律法に従っ た生活を学ぶ。それがタルミードでありました。主イエスと弟子たちの関係 は、ラビとタルミードの関係に極めて近かったものと思われます。主イエス の言葉、主イエスの物語が残されたのは、そこにラビとタルミードの関係が あったからに他なりません。実際、ユダヤ人たちは、ガリラヤに出現した主 イエスと弟子たちをそのように見なしておりました。後に書かれたものに、 キリスト者はイエスのタルミディーム(タルミードの複数)と呼ばれており ます。  しかし、そのように主イエスがラビとして見なされ、追従者たちはタルミ ードと見なされていたとしましても、やはり際だっていたのはその類似性よ りも異質性であったようです。主イエスはラビとしてはあまりにも異質だっ たのです。それゆえに、しばしば衝突が繰り返されました。そもそも、ナザ レのイエスという御方は、誰の門下で律法を学んだのかさえ、まったく不明 でありました。人々はいぶかって口々にこう語ったものです。「この人は、 このようなことをどこから得たのだろう。…この人は大工ではないか」(6 ・2‐3)。  しかし、主イエスが通常のラビと決定的に違っていたのは、人がイエスの タルミードとなる過程にありました。それが今日の聖書箇所には良く表れて おります。一般的には、タルミードがラビを選び、弟子入りするのです。そ こには当然のことながら、弟子入りする者の求道心が前提とされております。 しかし、主イエスの場合、そうではありません。十字架にかかられる前夜、 主イエスは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがた を選んだ」(ヨハネ15・16)と言われました。その言葉は真実です。ペ トロやヨハネが主イエスを教師として選んだのではありませんでした。漁を していた彼らの生活の中に、主イエスの方から入り込んできたのです。そし て、主イエスが彼らを呼びだして弟子としたのです。  この場面のレビも同じです。「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。 群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた」(13節)と書か れているのですが、レビはその群衆の中にはおりません。彼は神の国や永遠 の命などにはまったく関心はなかったのです。彼はその時、収税所に座って いたのです。今日の聖書箇所で、繰り返し徴税人は罪人と並べられています。 それは理由のないことではありません。異邦人であるローマ人のために同胞 から税金を取り立てる仕事が神に逆らうものとして蔑まれていただけではあ りません。実際、その業務には不正が入り込む余地がいくらでもありました し、事実、不正の利得が蓄えられることが行われてきたのです。このレビと いう人は、その時、まさにそのような罪深い生活の中にどっかりと腰をおろ していたのです。  しかし、その彼に、主イエスの方から目を止められたのでした。そして、 彼に言ったのです。「わたしに従いなさい」と。そこで何が起こったのでし ょうか。「彼は立ち上がってイエスに従った」と書かれております。いった いなぜでしょうか。その理由が書かれておりません。「彼はユダヤ人社会か ら排斥されていて、金持ちであっても孤独であったのだ。だからイエスの招 きがうれしかったのだ」と言う人もいます。そうかもしれません。しかし、 聖書は彼の心理的な変化には関心がないようです。むしろ、これは主イエス の言葉によって起こった奇跡として描かれているのです。その直前には、主 イエスの言葉によって中風の人が起き上がったという奇跡物語がありました。 同じように、この人もキリストの言葉による奇跡によって立ち上がったので す。  特に、この「立ち上がる」という言葉は、「復活する」という意味でも用 いられる言葉です。ここに代々のキリスト者は、自分自身の姿を重ね合わせ てきたのでした。私たちの人生に、キリストが入ってきてくださいました。 キリストが、収税所に腰をおろしている私たちに目を止めてくださいました。 罪の生活の中にどっかりと腰をおろして、もはや神との関わりについても、 最終的な希望についても、まったく考えることさえできない状態を《死んで いる状態》と表現するならば、そこから立ち上がることは、確かに《復活》 と表現することができるでしょう。それはキリストの言葉による奇跡です。 もちろん、それで突然立派な人間になるわけではありません。しかし、とも かく立ち上がったのです。そして、キリストと共に新たに歩みはじめました。 それがレビに起こり、私たちに起こったことであります。 ●わたしが来たのは罪人を招くため  そして、そのような人はレビだけではなかったようです。「イエスがレビ の家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人も イエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従ってい たのである」(15節)と書かれています。主イエスは、ここにおいてレビ の仲間と食事を共にしております。主イエスは、社会から排斥された人々を 差別することなく、自ら彼らと共に食事をされた――そのように、この食事 が感動をもって語られることがあります。確かにそれは事実です。しかし、 見ようによっては、これはさほど麗しい場面ではないようにも思えるのです が、いかがでしょうか。  一般的に徴税人が金持ちであったこと、しかもそれは不正の蓄財によって いたことを考えてみてください。ここで主イエスの行動を非難しているのは ファリサイ派の人々です。ファリサイ派の人たちは通常、手ずから働いて経 済的な独立を保っている人たちです。パウロが天幕作りをしていたようにで す。一方、ナザレのイエスとその一行は、どうも自給自足の生活をしている ようでもありません。それぞれの福音書において、主イエスとその一行が様 々な人に食事を食べさせてもらっている場面が目立ちます。この食事もレビ の大盤振る舞いだったのでしょう。そんな食事は、ファリサイ派の人間だっ たら、死んでも口にしないと思います。たとえどんなに落ちぶれたとしても、 神の律法にも神の国にもまったく興味も関心もない俗物に、飯を食わしても らったり、資金供与をしてもらったりすることは、絶対に考えないだろうと 思うのです。「あんた、金持ちだったら誰だっていいのか!」と罵られても 仕方がない。これはそんな場面です。もっともファリサイ派の律法学者は上 品ですから主イエスに面と向かって罵ったりはしません。弟子たちをつかま えて詰ります。「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と。  こうして見ますと、主イエスの行動は、どうも単純に「この人は貧しい人 や社会から排斥されている《かわいそうな人》に寄り添って共に生きたのだ 」とは表現できないように思えます。そうではなくて、主イエスは、《かわ いそうな人》と共にいたのではなくて、文字通りの意味において《罪人》と 共におられたのです。そして、罪人ということであるならば、富んでいよう が貧しかろうが、排斥する側にいようが排斥される側にいようが、抑圧する 側にいようが抑圧される側にいようが、罪人は罪人なのです。罪によって神 と断絶しているならば罪人なのです。ですから、主イエスは金持ちにご飯を 食べさせてもらっていながら、このように宣言してはばからないのです。 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである 」(17節)と。主の言葉は正しいのです。レビもまた、確かに主イエスに 招かれた罪人の一人であったからです。そして、代々のキリスト者は、そこ に自分の姿を重ね合わせてきたのです。  主イエスが罪人を招くのは、罪から救うためです。主イエスが自らを医者 にたとえたように、主イエスが罪人を招くのは罪の病を癒すためです。その ままでは死んでしまうから、罪によって滅びてしまうから、主イエスは罪人 を招かれるのです。それゆえに、招かれた罪人は昔からまことの医者なるキ リストにこのように祈ってきたのです。「主イエス・キリストよ、罪人なる 私を憐れんでください。」と。  これが主イエスが招いてくださる主の食卓です。私たちは、そのような食 卓を囲んで毎週礼拝をしているのです。病院に病気の人が多いことを驚く人 は、病院が何であるかを知らない人です。教会に罪人がいることを驚く人は、 主の教会が何であるかを知らない人です。「なんでこんな人が教会にいるの か。そんな教会なら私はもう行かない」などと口にする人は、主の食卓が何 であるかを知らない人です。自分が罪人であり、主イエスに憐れんでいただ かなければ滅びてしまう、と本気で思っている人は、他の人も癒されること を祈りつつ、共に主の招きを喜んで、主のもとに集まるはずです。この食卓 は、そのような食卓なのです。