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「希望に向かって」

2003年11月2日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1ペトロ1・13‐21

 毎年11月第一主日の聖徒の日の礼拝には、既にこの地上の生涯を終えら れた方たちの写真を礼拝堂に並べて礼拝をいたします。私たちがこうするの は、イエス・キリストが生きている私たちの主であるだけでなく、これらの 方々の主でもあるからです。聖書には次のように書かれています。「キリス トが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられる ためです」(ローマ14・9)。そして、紛れもない事実は、私たちもまた やがてこれらのお写真のグループに加えられるということです。こちら側で 礼拝を捧げる年数というのは限られております。今日の聖書箇所に「仮住ま い」という言葉が出てきました。聖書は私たちのこの地上の生活を「仮住ま い」と表現します。なるほど、そのとおりだと思います。このお写真の方々 が、もうこの地上に住んではいないという事実が、地上の生活が「仮住まい 」であることを雄弁に物語っております。ならば、この永眠者記念礼拝にお いては、既に世を去ったこれらの方々のことを思うだけではなく、私たち自 身のこの仮住まい生活ともしっかりと向き合わねばなりません。この仮住ま いの期間が何であり、どのように生きるべきかについても真剣に考えねばな りません。そのような私たちに、今日の聖書箇所は与えられております。特 に17節の御言葉を心に留めたいと思います。「また、あなたがたは、人そ れぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を『父』と呼びかけているのですか ら、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」(1ペト ロ1・17)。

●約束の地へ向かって

 私たちはまず、ここでペトロが「仮住まい」という言葉をもって思い描い ていることを正確に理解しなくてはなりません。そのためには、ペトロの心 を占めていたであろう二つの出来事について良く考える必要があります。そ の二つの出来事とはそれは《イスラエルの民のエジプト脱出》と《キリスト の復活》です。

 私たちは第一に、この「仮住まい」という言葉を、エジプトから解放され たイスラエルの民との関連で理解しなくてはなりません。そこでまず直前に 書かれていることに目を留めましょう。ペトロは「召し出してくださった聖 なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさ い」(15節)と勧めています。その根拠として、彼は旧約聖書の言葉を引 用します。「『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからであ る』と書いてあるからです」(16節)。これは旧約聖書のレビ記19章2 節からの引用です。このレビ記の言葉は、もともとシナイの荒れ野で語られ た言葉です。彼らがシナイの荒れ野にいるのは、神によって、エジプトから 導き出されたからです。彼らは解放された民として、荒れ野を旅しているの です。そして、重要なことは、彼らには目的地があったということです。彼 らは約束の地に向かって旅をしていたのです。シナイは彼らにとって永住の 地ではありませんでした。文字通り彼らは「仮住まい」をしていたのです。 ペトロの念頭にあったイメージは、まずこのイスラエルの民の姿です。

 それは18節の言葉からも分かります。こう書かれています。「知っての とおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀の ような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリスト の尊い血によるのです」(1・18)。神がイスラエルの民をエジプトから 解放されたその夜、イスラエルの民は小羊を屠り、その血を鴨居と柱とに塗 りました。それは神が命じられたことでした。神の裁きがエジプト全土に臨 む時、その血がしるしとなってイスラエルの家を神の裁きが過ぎ越すためで した。そのように小羊の血を通してエジプトで奴隷であった民は救われ解放 されたのです。それと同じように、十字架において流されたキリストの血に よって、私たちは、罪の負い目から解放され、神から離れたむなしい古い生 活から解放され、神に導かれる新しい生活が与えられました。ここでもキリ ストを信じる者の生活が、エジプトから導き出されたイスラエルの民の生活 と重ねられていることが分かります。

 このように、ペトロが「仮住まい」について語る時、それは単に私たちの 人生の期間が限られていること、暫定的な生活であることを言っているので はありません。そうではなくて、目的地へと向かう旅の途上にあることを意 味しているのです。同じ「仮住まい」でも、向かうべき目的を持たない者は 《放浪者》です。ペトロは《放浪者》について語っているのではありません。 約束の地に向かって、神に導かれて歩んでいる、神の民としての生活につい て語っているのです。

●復活の日に向かって

 そして、私たちはこの「仮住まい」という言葉を、さらにキリストの復活 との関連で理解しなくてはなりません。私たちはいかなる神を信じて「仮住 まい」の生活をするのでしょうか。21節を御覧ください。ペトロは私たち にこう語りかけています。「あなたがたは、キリストを死者の中から復活さ せて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、 あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです」(1・21)。

 ペトロはここで「希望」という言葉を口にします。しかし、私たちがこの 地上に見ている世界、私たちが地上で営んでいる人生が単純に「希望」と結 びつくかと言えば、決してそうではないと思うのです。この地上で繰り広げ られている歴史のプロセスは、希望へと向かっているようには見えません。 私たちの目には、むしろ、建てては破壊し、破壊しては建て直す、そのよう なことを繰り返しながら、結局は最終的な破局へと向かう過程にしか見えま せん。私たちの人生も同じです。もしかしたら、若い時には真の希望がある か無いかということは、ある意味でさほど切実な問題ではなかったかもしれ ません。しかし、ある年齢に達するとそうではなくなります。この地上にお いて営まれる人生に、何かを無くしていくプロセス以外を見出すことができ なくなります。能力を失い、健康を失い、友人を失い、社会との繋がりを失 い、やがて地上の命を失って死に至る。そのような人生に目を向けて、なお 「希望」を語ることができるでしょうか。できないだろうと思うのです。

 いや、この地上に私たちが見ていることは単純に「希望」と結びつかない だけではありません。それは極めて不可解なものでもあります。私たちは、 この世界が必ずしも私たちの納得の行く仕方で動いてはいないことを知って います。理不尽なことが起こります。「なぜこんなことが!」と叫びたくな るようなことが起こります。善が必ずしも報われるわけではありません。悪 が必ずしも裁かれるわけではありません。正しく公平に、などと事は運びま せん。この世界全体にしても、私たちの個々の人生にしても、それはまこと に不可解であり理不尽であると言わざるを得ないのです。

 しかし、そのような地上の世界に、神はキリストを遣わされました。そし て、十字架にかけられて死んだキリストを死者の中から復活させ、栄光をお 与えになったのです。そのことを通して、私たちに重大なことを示されたの です。《私たちがこの地上に見ていることはまだ完結していない》というこ とです。

 理不尽ということで言いますならば、罪のないキリストが十字架にかけら れて殺されることほど理不尽なことはありません。清い神の御子が死刑に処 せられることほど不可解なことはありません。もしそれが全てであるならば、 そこには絶望しかありません。しかし、神はそのキリストを復活させ、栄光 を与えられたのです。栄光に相応しい方が栄光を受けられてキリストの出来 事は完結したのです。十字架までの部分は、全体の一部でしかないのです。

 そのように、いわば《十字架までの部分しか見えていない》のが、私たち のこの地上における生活です。だからそれだけに目を向けているならば、そ れは不可解でしかないし、そこには希望がありません。しかし、私たちは地 上の生活だけに目を向けて生きる必要はないのです。「キリストを死者の中 から復活させて栄光をお与えになった神」を信じているからです。十字架ま での部分しか見えていない私たちの地上の生活は、旅路の途上でしかないこ とを知っているからです。私たちは、その意味においても、確かに「仮住ま い」をしている者に過ぎません。私たちには向かうべき目的地があるのです。 私たちが向かう先には、キリストの復活を通して神が示してくださった約束 の地があるのです。

●仮住まい生活の仕方

 そのように、最終的にすべてを完結させるのは神に他なりません。そして、 私たちは神がキリストに栄光をお与えになったように、この世界の歴史をも、 私たちの人生をも、正しく完結させてくださることを知っています。それは、 ある意味では「神が公平に裁かれる」ということでもあります。それゆえに、 私たちは冒頭に挙げた、今日の御言葉を心に留めなくてはなりません。「ま た、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を『父』と 呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生 活すべきです」(1ペトロ1・17)。

 それはある意味では最終的な審判者である神を「怖く思う」ということで もあります。真に恐れるべき一人の御方を知っているというのは、非常に幸 いなことです。それは私たちにとって安全なことでもあります。また、それ はその他諸々の恐怖から解放されることでもあります。ですから、「怖く思 う」ということは大事なことです。

 しかし、既に見てきましたように、神を畏れて生活をするということは、 ただ単に神の罰を恐れおののきながら戦々恐々と生活することを意味しませ ん。人生は、死刑の日を待つ死刑囚の独房ではないのです。神は、イスラエ ルの民の旅路を導かれたように、私たちをも忍耐強く慈しみをもって導き給 う御方です。そして、キリストの復活を通して、私たちに生き生きとした希 望を与え、希望に向かって歩ませてくださる御方です。私たちはそのような 御方を「父よ」と呼ぶ者としていただいたのです。ならば、重要なことは、 従順な子供として、父を愛し、敬い、信頼して生きることです。それが私た ちの仮住まい生活の仕方です。

 
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