「感謝の生活の回復」                         民数記11・1‐34  今日の聖書箇所には、二つの地名の由来にまつわるエピソードが記されて います。一つは「タブエラ(燃える)」という地名に関するもので、1節か ら4節がこれに当たります。この地名がつけられたのは、「主の火が彼らに 対して燃え上がった」(3節)からであると説明されています。二つ目は 「キブロト・ハタアワ(貪欲の墓)」という地名に関するもので、5節から 34節までの長い物語がこれに当たります。この地名がつけられたのは、 「貪欲な人々をそこに葬ったからである」(34節)と説明されています。 どちらも主の裁きに由来する名前です。主の裁きを引き起こしたのはイスラ エルの民の不平不満であったことが記されております。今日は、私たちにと っても非常に身近な不平不満の問題に焦点を絞ってこの物語を読み、そこか ら私たちに対する主のメッセージを聞き取りたいと思います。 ●どこを見回してもマナばかり  初めに1節を御覧ください。「タブエラ」という地名に関する最初のエピ ソードは次のような言葉で始まります。「民は主の耳に達するほど、激しく 不満を言った。主はそれを聞いて憤られ、主の火が彼らに対して燃え上がり、 宿営を端から焼き尽くそうとした」(1節)。何についての不満であったの かが特定されておりません。また、「不満を言った」と訳されているのです が、原文では「(継続的に)不満を言う者たち」という表現となっています。 この時一回だけのことではなくて、常々何かにつけ不満を訴える者たちであ ったということです。つまり、ここに「タブエラ」という地名に関する短い エピソードが置かれているのですが、これをもって荒れ野を旅するイスラエ ルの民のありようが総括されているのです。そして、具体的な事例として食 べ物に関する不満(さらに12章ではモーセについての不満)の場合が挙げ られているのです。  食べ物に関する不満は「民に加わっていた雑多な他国人」から起こりまし た。彼らは飢えと渇きを訴えます。そして、その不満はすぐにイスラエルの 人々に伝搬します。彼らはこう言って泣いたのでした。「誰か肉を食べさせ てくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロ ン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上が り、どこを見回してもマナばかりで、何もない」(4‐6節)。  「飢えと渇き」を訴えたと書かれているのですが、イスラエルの人々の言 葉を聞きますと、純粋な意味で彼らが「飢え」ているわけではないことが分 かります。なぜなら、マナは継続して与えられているからです。しかし、彼 らにとってマナだけでは不満だったのです。  ここでマナというものがどのように与えられていたかを思い起こしてみま しょう。出エジプト記16章を御覧ください。それはイスラエルの民がエジ プトから解放されて、まだ間もない頃のことです。荒れ野へと導かれたイス ラエルの民は、すぐに食べ物がないと言って不平を言い始めました。これに 対して、主はモーセにこう言われたのです。「見よ、わたしはあなたたちの ために、天からパンを降らせる。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める 」(出16・4)。この「天からのパン」がマナでした。マナは余分に集め て蓄えておくことができない食べ物です。それゆえに、日々新しく神から与 えられなければ生きていくことができません。必然的に、彼らは自らの生命 が神の恵みに全く依存していることを学ぶことになりました。  このように、彼らがエジプトから救われて与えられたのは、単に苦役から の解放ではありませんでした。彼らは日々神の恵みのマナによって養われ、 神の恵みに感謝しながら約束の地へと旅を続ける、そのような新しい生活を 与えられたのです。確かに、マナそのものは決して贅沢な食べ物ではなかっ たに違いありません。しかし、それを神の御手から受けるとき、彼らは荒れ 野にいながらにして、いわば既に約束の地の生活の前味を味わっていたので す。――そうです、彼らの旅は、そのような旅となるはずでした。  しかし、民数記のこの場面に至りますと、なんと私たちはマナを集めて食 べる生活に飽き飽きしているイスラエルの民の姿に出会うことになるのです! 彼らは、神が日々生かしてくださっているだけでは不満なのです。神の恵み を知りながら生きる生活だけでは不十分なのです。日々神に依存しなければ 生きられない生活なんて嫌なのです。今、神が与えてくださっているものだ けではとても満足などできないのです。ああ肉が食べたい。魚が食べたい。 きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。ああ、どこを見回 してもマナばかりで、何もない!そう言って彼らは泣いているのです。 ●主は肉をお与えになる  肉を求めて泣き叫ぶ彼らに対して、主はどのように答えられたでしょうか。 18節を御覧ください。主はモーセにこう言われます。「民に告げなさい。 明日のために自分自身を聖別しなさい。あなたたちは肉を食べることができ る。主の耳に達するほど、泣き言を言い、誰か肉を食べさせてくれないもの か、エジプトでは幸せだったと訴えたから、主はあなたたちに肉をお与えに なり、あなたたちは食べることができる」(18節)。  主はイスラエルの民の願いを聞き入れられました。求めているものを与え ると主は言われるのです。しかし、それはイスラエルの民に祝福として与え られるのではありません。主の言葉の続きはこうなっています。「あなたた ちがそれを食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日ではない。一か月 に及び、ついにあなたたちの鼻から出るようになり、吐き気を催すほどにな る。あなたたちは、あなたたちのうちにいます主を拒み、主の面前で、どう して我々はエジプトを出て来てしまったのか、と泣き言を言ったからだ」 (19‐20節)。主が彼らに肉を与えるのは祝福としてではなく、裁きと してなのです。  さて、この主の言葉はどのような仕方で実現することになるのでしょう。 31節以下を御覧ください。うずらの大群が風に乗ってやってきて、宿営の 周囲に降り立ちました。宿営の周囲に地上二アンマ(約90センチ)ほどの 高さに積もったというのは、いくらなんでも大袈裟でしょう。しかし、とも かく人々はこの夥しい数のうずらを集め始めます。終日終夜、そして翌日も 集めて、少ない者でも十ホメルは集めたと書かれています。十ホメルと言え ば、少なくとも容積にして二千リットルはあります。こんなに集めてどうす るのでしょう。とても食べきれるものではありません。しかし、これが人間 の貪欲というものです。隠れていた貪欲が表に現れたのです。そして、人間 の貪欲が病気を引き起こします。莫大な量の肉が集められ、結局は食べ残さ れて放置されたなら、そこから疫病が蔓延するのも無理はありません。しか し、聖書はこれを単なる災難としてではなく、主の裁きとして描いているの です。「肉がまだ歯の間にあって、かみ切られないうちに、主は民に対して 憤りを発し、激しい疫病で民を打たれた」(33節)と書かれているのです。  それらの人々が葬られた場所は、キブロト・ハタアワ(貪欲の墓)と呼ば れました。求めていた肉を有り余るほどに得た人々が行き着いたところは、 キブロト・ハタアワでありました。このことを私たちはしっかりと心に留め ねばなりません。求めているものをことごとく得、願っていることがことご とく実現することがあります。しかし、そのことを単純に神の祝福と考えて はなりません。その行き着く先は、キブロト・ハタアワであるかも知れない からです。不平不満から出た願いがそのままに実現することは不幸なことで す。与えられている神の恵みを喜べない人が、その心の欲するままにすべて 得たならば、それほど不幸なことはありません。それは神の裁きでしかない からです。 ●主の食卓に招かれて  さて、このように本日の物語を読んでまいりますと、私たちにとっても非 常に身近な不平不満の問題は、決して主の目に小さなことではないことが分 かります。人間の生活の中に、主の恵みへの感謝が絶えず呼び起こされ回復 されることは、いかに重要なことでしょうか。そのことを思います時、改め て主が繰り返し私たちを主の食卓へと招いてくださっていることの意味を考 えさせられます。ここで行われる聖餐は、古くより「感謝の祭儀(ユーカリ スト)」の名をもって呼ばれてきました。この主の食卓を囲んで行われる礼 拝において、私たちは繰り返し主の恵みに対する感謝の生活へと呼び戻され るのです。  「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれ を裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念と してこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じ ようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。 飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」 (1コリント11・23‐25)。これはご存じ、主の晩餐の制定に関する 御言葉です。ここにありますように、弟子たちが主イエスから受け取ったも のは、貧しい小さなひとかけらのパンと、分かち合って飲むわずかばかりの 葡萄酒だけでした。そうです、教会が主から与えられているのは最終的には、 この小さなひとかけらのパンとわずかばかりの葡萄酒とそれらに伴う主の御 言葉だけなのです。  美しい壮麗な礼拝堂に惹かれる人がいるでしょうか。しかし、教会は建物 を失うかもしれません。様々な魅力的な活動に惹かれる人があるでしょうか。 しかし、教会にいつも魅力的な活動があるとは限りません。美しい聖歌隊の 賛美の歌声に惹かれる人があるでしょうか。しかし、教会で聴かれるのは極 めて非音楽的なだみ声の賛美だけかもしれません。知的好奇心を満足させる 話や人生に役立つ知恵を期待する人があるでしょうか。しかし、教会におい て必ずしもそのような言葉を聞くことができるとは限りません。そのように、 これらはすべて教会から、信仰生活から失われ得るものなのです。  しかし、教会から絶対に失われないもの、教会に連なっている限り信仰生 活から絶対に失われないものがあります。それは主から与えられる小さなひ とかけらのパンと葡萄酒であり、それに伴う主の御言葉です。「どこを見回 しても聖餐のパンと葡萄酒だけで、他には何もない!」と言いますか。もし そう言うならば、あのイスラエルの民と同じです。主の恵みのパンと葡萄酒 を真に感謝して受けられない人が、いくらその願望と欲求を満たされたとし ても、その行き着くところは貪欲の墓でしかありません。  主は今日も私たちをこの主の食卓の周りに集めてくださいました。主が与 えてくださっている恵みの豊かさにしっかりと目を向けましょう。そして、 私たちは、主の命によって養われ生かされていることを喜ぶ感謝の生活を受 け取って、ここから新たに歩み始めたいと思います。