「仕えるために」                        マルコ10・35‐45  フィリポ・カイサリア地方を旅しておられたとき、主イエスは弟子たちに お尋ねになりました。「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」。 弟子たちは答えます。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エ リヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。すると主イ エスは再びお尋ねになりました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だ と言うのか」。するとペトロがこう答えました。「あなたはメシアです」 (8・29)。答えたのはペトロですが、他の弟子たちの答えも同じであっ たことでしょう。もちろん、私たちもまた同じように答えます。しかし、私 たちが「あなたはメシアです」と答える時、その答えはいったい何を意味す るのでしょうか。 ●栄光をお受けになるときには  今日の聖書箇所を読みながら、私たちはまず、「あなたはメシアです」と いう答えが、その時のペトロや他の弟子たちにとって何を意味していたかを 考えてみましょう。  ゼベダイの子ヤコブとヨハネが主イエスに言いました。「先生、お願いす ることをかなえていただきたいのですが」。そして、主が、「何をしてほし いのか」と言われると、彼らはすぐさまこう頼み込んだのです。「栄光をお 受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせ てください」(37節)と。  弟子たちにとって、イエスという御方は、やがて「栄光をお受けになる」 はずの人物でありました。直訳では「あなたの栄光の中に」という言葉です が、これは明らかに《王となる》ことを意味しています。ですから右左に座 らせて欲しいという話が出てくるのです。メシアとは「油注がれた者」とい う意味です。イエスという御方は、まさに神によって油注がれた王、神によ って任命された王であり、この地上に神の国を打ち立て、神の国の王となる ために来られた御方である。そのように弟子たちは信じていたのです。  もちろん、現実にはメシアはまだ王座に着いてはおりません。メシアの支 配する神の国が実現するためには、なお苦難を伴う厳しい戦いを経なくては ならないことは明白でした。この世にはメシアの支配に敵対するこの世の力 の支配が存在するからです。  弟子たちの目に映っていたメシアに敵対するこの世の力とは、第一に強大 なローマ帝国の支配でありました。当時のユダヤはローマの属領でした。神 の民は異邦人の支配のもとにありました。人々はローマ人の支配体制が打ち 倒され、イスラエルが回復されることを望んでいました。そのことなくして、 神の国の到来はあり得ませんでした。ですから、何よりもまず、ローマを打 ち倒してくれる力ある王を待ち望んでいたのです。「あなたはメシアです」 ――そのように信仰を言い表していた弟子たちは、そのようなユダヤ人一般 の抱いていた期待を共有しておりました。  しかし、弟子たちは主イエスと共に旅を続けていくうちに、メシアに敵対 するもう一つの勢力に直面することとなりました。それはユダヤの宗教的指 導者たちです。ご存じのように、主イエスはしばしば罪人や徴税人など、社 会から排斥されている人々と共に食事をなさいました。当然、弟子たちもま た、彼らと食事を共にしました。いやそれどころか、主イエスは徴税人を弟 子の群れに加えることすらしたのです。そのような出会いと交わりの中にお いて、弟子たちに見えてきたことがありました。それは徴税人や罪人たちも また、神によって愛され招かれているという事実でありました。しかし、そ のように彼らと食事を共にして生きるということは、大きな困難をもたらし ました。それは、彼らを疎外し断罪してきた宗教的権威と対立せざるを得な いことを意味したからです。イエスというメシアに従うならば、そしてその メシアが王となることを望むならば、既に存在する宗教的な支配者たちの敵 意にも直面せざるを得なかったのです。  そして今や、主イエスと一行は、エルサレムへの道を上っていく途上にあ りました。敵対する権力者たちの待つエルサレムへと向かっていたのです。 主がある特別な決意をもって都に上っていることは誰の目にも明らかでした。 32節には、「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って 進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」と書 かれています。そこに最終的な戦いが待ち受けていることを、誰もが予感し ていたのでしょう。  しかし、弟子たちは皆、勝利を確信していたのです。ヤコブとヨハネは、 主イエスが栄光をお受けになること、王として支配するようになることを確 信するがゆえに、前もって約束を取り付けようとしたのです。「栄光をお受 けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせて ください」。41節には、「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハ ネのことで腹を立て始めた」と書かれています。皆、考えることは同じであ りました。それほどまでに、弟子たちは、主イエスが必ず栄光をお受けにな ることを確信していたのです。なぜでしょうか。  まず考えられることは、彼らが多くの民衆の支持を得ていたということで す。圧倒的多数の人々が彼らの味方でありました。それは主イエスがエルサ レムに入城される様子を見ても分かります。「多くの人が自分の服を道に敷 き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そ して、前を行く者も後に従う者も叫んだ。『ホサナ。主の名によって来られ る方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるよ うに。いと高きところにホサナ』」(11・8‐10)。これが彼らの置か れていた状況でした。  しかし、彼らと共にあったのは、ただ人の数だけではありませんでした。 そこには主イエスがこれまで繰り返し現してこられた奇跡の力がありました。 そもそも、群衆の多くは、主イエスの起こされる奇跡を見、そこに神の力を 見て従ってきたのです。旧約聖書にしばしば描かれているように、決定的な 場面において、神の超自然的な介入がある。神の力が直接的に現されること によってナザレのイエスは神の油注がれた王であることを明らかにされる。 そのことを弟子たちも群衆も期待していたに違いありません。だから、たと えローマ帝国の支配体制がどれほど強大であっても、ユダヤ人の古い宗教的 支配体制がどれほど強固であっても全く問題ではなかったのです。それは主 イエスにおいて現される神の力によって覆されると信じていたからです。で すから、ヤコブとヨハネは願ったのです。「栄光をお受けになるとき、わた しどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と。 ●仕えるために来られた御方  さて、これが「あなたはメシアです」と告白した弟子たちの考えていたこ とです。では、私たちはどうでしょう。往々にして似たようなことを考えて いるのかもしれません。  私たちは、この世の力が神に逆らって大きく動くことがあることを知って います。国家の力が悪魔化することがあることを知っています。また、その ような神に逆らう力の支配の構造が宗教の世界にも存在し得ることを知って います。そして、私たちはしばしばこう考えるのです。これらの悪しき力は、 《より大きな力》によって覆され支配されねばならない。力をもって力を征 しなくてはならないのだ、と。そうです、弟子たちもそう信じて疑わなかっ たのです。ですから、力あるメシアの到来を求めたのです。真の王が力をも って悪しき力を覆してくれることを求めたのです。今日の多くの人々は、そ のようなメシアを求めてはいないかもしれませんが、代わりに強力な指導者 と大量破壊兵器を求めているかもしれません。  そして、力は力をもって征しなくてはならないという意識は、身近な人々 との関係にも現れてまいります。ヤコブとヨハネは他の弟子たちよりも上に 立ちたいと願いました。他の弟子たちの願いも同じでした。彼らの間に「だ れがいちばん偉いか」という議論があったことを福音書は伝えています(9 ・34)。私はこのような箇所を読む時に、弟子たちの間では、常々物の見 方や考え方の違いによる対立が生じていたのではないかと想像いたします。 対立がない時には、「だれが偉いか」ということは大した問題にはなりませ ん。対立がある時には大いに問題になります。対立がある時には、相手を従 わせたくなるからです。従わせるためには力を得ねばなりません。従わせる ためには支配する側に立たねばなりません。このように、いかなる形にせよ、 力をもって世を支配し救うメシアを求める人は、身近な人間との関わりにお いても力関係を問題にするようになります。そして、より大きな力を持つこ とを求め、支配する側に立つことを求めるものです。そうです、そのような ことが教団にも起こります。各個の教会にも起こります。個人のキリスト者 の生活にも起こります。  しかし、主イエスは一同を呼び寄せて、次のように語られたのでした。 「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされてい る人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたが たの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕え る者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人 の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金とし て自分の命を献げるために来たのである」(42‐45節)。  このように、主イエスは、弟子たちが抱いていたのとは全く異なるメシア の姿を提示されたのです。主イエスは、弟子たちや群衆が期待するような、 この世の王になるために来られたのではないことを明らかにされたのです。 むしろ、「仕えるために」「多くの人の身代金として自分の命を献げるため に」来られたメシアであることを語られたのです。なぜでしょうか。まず第 一に覆されねばならないのは、ローマ人による世俗的な支配体制でも、ユダ ヤ人当局による宗教的な支配体制でもないからです。そうではなくて、まず 覆されねばならなかったのは、弟子たちの心の構造だったからです。「あな たがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりた い者は、すべての人の僕になりなさい」(45節)と主は言われるのです。 神の国に最も敵対しているのは、この世の諸々の悪の力ではなく、仕える者 となろうとしない私たち自身の心なのです。  私たちはイエスがメシア・キリストであると信じています。確かに、この 御方は神の油注がれた王であり、父なる神の右に座したもう御方です。しか し、人間がこの地上で出会ったその御方の姿は、仕える者の姿であり、僕の 姿であったことを忘れてはなりません。王の王、主の主なる御方が、私たち に仕えてくださいました。私たちの罪をその命をもってあがなってください ました。私たちの罪を自ら背負ってくださいました。私たちは、そのような 御方に対し「あなたはメシアです」と告白し、従うようにと招かれているの です。