「分裂の要因」
2003年11月30日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 民数記32・1‐32
イスラエルがエジプトを出て40年の歳月が流れました。既に二度目の人 口調査が行われて戦列も整えられ、ヨルダン川を渡って約束の地に入るべき 時が近づいていました。しかし、この段になって、今まで共に歩んできたイ スラエルの諸部族の内、ルベン族とガド族の人々が、約束の地を目指す旅と その地を獲得するための戦いから離脱しようとしていたのです。33節を見 ますと、この二部族に、マナセ族の半分が加わっていたようです。彼らは、 ヨルダンを渡らずに、その手前に留まることを望んでおりました。このよう に、イスラエルの共同体は、約束の地を目の前にしながら、分裂の危機に直 面していたのです。
共同体の分裂――それはいかなる共同体にも起こり得ることです。それは 信仰の共同体においても起こるのでしょうか。イスラエルの歴史は、それが 起こり得ることを示しておりますし、教会の歴史もまた同様です。今日の聖 書箇所に見る問題は、私たちにとっても身近な問題です。私たちは、この分 裂の危機がいかにして生じるのかを、今日の聖書箇所から学ばねばなりませ ん。彼らの姿は、明日の私たちの姿であるかも知れないからです。
●所有と誇り
私たちはまず、この章が次の言葉をもって始まっていることに注意したい と思います。「ルベンとガドの人々はおびただしい数の家畜を持っていた」 (1節)。分裂の危機は、欠乏から生じたのではありません。充足している ところから生じたのでした。確かに、貧しいところにではなく、豊かなとこ ろにこそ分裂が生じやすいということは事実のようです。後にイスラエルの 王国が決定的に分裂することになるのは、繁栄を極めたソロモンの時代の直 後です。新約聖書に出てくる教会で、分裂や仲違いについて数多く記されて いるのは、非常に豊かであったコリントの教会についてです。貧しかった時 には皆が一つとなって伝道していたのに、外部から高額の献金があったとた んに教会が分裂したという話は、しばしば耳にするところです。豊かさのあ るところに分裂の危険もある。それは私たちがいつも心に留めるべきことで しょう。
実際、多くの家畜を持っていたルベン族とガド族は、これから生き延びて いくために、他の部族と歩みを共にする必要はありませんでした。彼らだけ で生きていくことができるのです。ヨルダンの手前には家畜に適した土地も あります。何も他の部族と共にヨルダンを渡っていく必要はありません。む しろ、他の部族と共にヨルダンを渡っていくことは、多くの労苦をも共有す ることになります。他の部族と共に進んでいくことは、重荷や損失にこそな れ、決して利益にはなりそうもありません。そのような判断は実に理に適っ た賢い判断だと言えるでしょう。しかし、そのように「自分たちでやってい ける。むしろその方が望ましい」という《賢い》判断によって、共同体は危 機にさらされることになるのです。
そして、さらに考えますときに、ここで特にルベンとガドの部族が挙げら れており、既に申しましたように、さらにマナセの半部族が加えられること になるのですが、これは大変興味深いことであります。ご存じのように、イ スラエルの諸部族は、そのルーツとなる物語を持っています。各部族の名前 は、その先祖であるヤコブの息子たちに由来します。創世記29章から30 章にかけて、ヤコブの息子たちの誕生に関する物語が記されています。これ を見ますと、ルベンはレアという母から生まれた長男です。息子たち全体の 長子でもあります。一方、ガドは、レアの召使いであったジルパから生まれ た長男です。ところで、ヤコブが愛した妻として伝えられているラケルから 生まれた長男はヨセフですが、ヨセフの名前は12部族の名前としては残り ません。代わりに、ヨセフの息子たちであるマナセとエフライムが部族名と して残ります。長男はマナセです。お分かりいただけますでしょうか。今日 の聖書箇所において、共同体から離脱しようとしている部族の先祖は、言い 伝えによるならば、それぞれの母の系統において、皆長男に当たるのです。
部族の由来に関する物語は、当然のことながら、部族の優越意識と密接に 結びついております。この部族の由来の物語は、ルベンやガド、マナセなど は、他の部族に対して本来優位にあるという誇りを持ち続けていたことを示 していると見ることができるでしょう。しかし、現実には、ルベン族やガド 族、マナセ族が指導的な立場に立つことはありませんでした。モーセはレビ 族でありますし、後に優位に立つことになったのはユダ族とエフライム族で した。このように考えますと、共同体の歩みから離脱しようとしたのがルベ ンやガド、マナセの半部族であったことは、決して偶然ではないように思わ れます。確かに優越意識を持つ人々が共同体において優位に立てない時、そ こで共同体の一員として自らを保っていくことが困難になることが起こるか らです。優越意識やプライドが、共同体を破壊する方向に働くことがありま す。そうして、共同体は分裂の危機にさらされることになるのです。
●神の目的に対する無理解
以上のように、所有や誇りが共同体を危機にさらす要因になることがあり ます。しかし、最大の問題は、彼らが豊かであったことでも優越意識を持っ ていたことでもありません。彼らが神の指し示す約束の地に目を向けていな かったことにあります。神が与えようとしているのが何であるのか、そこに ある神の目的が何であるのかを考えられなかったことにあるのです。
ルベンとガドの人々の言葉に、もう一度耳を傾けてみましょう。彼らはモ ーセと祭司エルアザルおよび共同体の指導者のもとに来て、こう言いました。 「…主がイスラエルの共同体の前で滅ぼしてくださった土地は、家畜に適し た土地であり、僕どもは家畜を持っております。もし、わたしたちがあなた の恵みを得ますなら、この土地を所有地として、僕どもにお与えください。 わたしたちにヨルダン川を渡らせないでください」(3‐5節)。
彼らはヨルダンの東側にある土地を所有地とすることを望みました。それ は家畜に適した土地であったからです。確かに、土地を得るということの目 的が、多くの家畜を養うためだけであるならば、何もヨルダン川を渡る必要 はありません。彼らの生活を支えるためだけであるならば、何もそれは約束 の地、カナンの地でなくても良いのです。その点において、彼らは全く正し いのです。しかし、主が彼らをエジプトから解放して、約束の地に導き、そ の地を与えようとしていたのは、ただ彼らの生活を支えるためだったのでし ょうか。彼らをより豊かにするためだったのでしょうか。そこで牧畜や農業 を営み、もはやマナを食べて生活する必要がないようにするためだったので しょうか。いいえ、決してそうではないのです。
彼らが土地を与えられるに先立って、シナイにおいて与えられたのは神と の契約でありました。その契約の中心は十戒です。神の与えられた律法が指 し示しているのは、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、 主を愛しなさい」ということであり、「自分自身を愛するように隣人を愛し なさい」ということです。すなわち、彼らは土地を与えられる前に、既に神 と共に生き、隣人と共に生きる生活を与えられていたのです。そして、その ような彼らに土地が与えられるのです。土地が与えられるのは、そのような 神の民としての生活を、実際にこの地上で営むためです。そこに神の目的が あるのです。(ですから、その目的から外れるならば土地をも失うことにな るのです。そして、実際にそうなってしまうのです。)
ルベン族とガド族の人々は、自分たちに与えられているものを保っていく ために、イスラエルの共同体と歩みを共にすることが必要か、カナンの地が 必要かどうかを問いました。そして、彼らの出した結論は「不必要である」 ということでありました。しかし、彼らは重大なことを見落としています。 それは約束の地へと導かれているイスラエルの共同体そのものが、神の賜物 であるということです。彼らをイスラエルの共同体としたのは神なのであっ て、彼らが共に生きるところにこそ神の目的もあるということです。この神 の目的が見失われる時に、共同体は分裂の危機にさらされることになるので す。
こうして見ますと、キリストによる新しい契約を与えられた教会という共 同体においても同じことが言えることが分かります。キリストは自ら十字架 にかかり、血を流して罪を贖い、その血による契約を私たちに与えてくださ いました。ですから、キリストの血によって結び合わされた教会という共同 体は神の賜物なのです。神が私たちを教会としてくださったのです。私たち が、神と共に生き、人と共に生きるところに、神の目的もあるのです。神の 国とは、その神の目的の完成に他ならないのです。
しかし、その神の目的を見失うと、教会が私たちの生活にとって必要か、 他のキリスト者との交わりが私たちにとって必要か、という見方しかできな くなります。自分が貧困であり欠乏を覚えていれば、他者が共にいるという ことは有り難いことであり、必要なことと感じられるかもしれません。しか し、そのような人が豊かになった時、もはや他の助けが必要にならなくなっ た時、他者が共にいることは重荷であり不都合になるということが起こりま す。それでも優越意識が満たされているうちは良いでしょう。しかし、それ さえも満たされなくなるとき、もはや共同体に連なっている意味を失ってし まいます。そうなれば、やがて教会生活そのものの危機に直面することにな るでしょう。あるいは自分の教会生活が成り立たなくなるだけでなく、教会 という共同体を分裂させ、破壊する者にさえなるかもしれません。そのよう なことは、神の目的を見失うことによって起こるのです。
ヨルダンの東側に留まろうとしたルベン族とガド族に対して、それは主に 背くことであり、共同体全体を危機にさらすことであることを、モーセは非 常に厳しい口調で語りました。彼らはモーセの諭しを受け入れ、一つの提案 を行います。それは彼らが子供たちをヨルダン川の東側に残し、他の部族と 共に戦いに出るというものでした。そうして、共に約束の地を得た上で、彼 らは帰って来てヨルダンの東側の土地を受け継ぐことになります。モーセは この提案を良しとして受け入れました。こうして共同体の危機は回避される ことになりました。この提案を受けたモーセがルベン族とガド族の人々に語 った言葉に、「主の御前に」という言葉が繰り返されていることが大変印象 的です。共同体との関わりや土地の取得の問題を、自分たちの前における事 としか考えられなかったルベンやガドの人々と、これらすべてを主の御前に おける事柄として見ていたモーセとの違いがこの言葉によく現れております。