「退け、サタン!」
2003年12月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ4・1‐11
「あなたは悪魔の存在を信じていますか。」そのように尋ねられたら何と 答えるでしょうか。「はい、信じています。もちろん悪魔はいますよ」と答 える人もあれば、「悪魔だって?馬鹿馬鹿しい!そんなものいるわけないじ ゃないか」と答える人もあるでしょう。現代では後者の方が多いかも知れま せん。しかし、もし「あなたは悪魔の誘惑を感じたことがありますか」と尋 ねられたらどうでしょう。案外多くの人が「あります」と答えるのではない でしょうか。人は多かれ少なかれ悪へと引き寄せられるという経験、悪いと 分かっているのについつい《魔が差してしまう》という経験を持っているも のだからです。そして、そのような経験を通して、いわゆる《悪魔の誘惑》 というイメージが形作られていることでしょう。しかし、今日の箇所を読み ますと、いわゆる《悪魔の誘惑》というイメージは修正されなくてはならな いかも知れません。というのも、ここに出てくる《悪魔の誘惑》は、一般的 な意味において《悪魔らしい》ものとは言えないからです。
●悪魔の誘惑はどこに
1節から3節を御覧ください。「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるた め、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食し た後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。 『神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ』」(1‐3 節)。これが悪魔の第一の誘惑です。
「町に出ていってパンを盗んできなさい」という誘惑ならば、誰が見ても 《悪魔らしい》誘惑であるように思います。しかし、石がパンになるように 命じることは、そんなに悪いことでしょうか。どうして、これが悪魔の誘惑 なのでしょう。確かに石を大量にパンに変えたらパン屋が困るでしょう。そ れを続ければインフレが起こるかもしれません。しかし、石の一個や二個自 分が食べるためにパンに変えたとしても、誰にも迷惑はかからないではあり ませんか。
しかし、これが悪魔の誘惑なのだ、と聖書は教えているのです。悪魔が悪 魔らしくやって来ると思ってはならないのです。悪魔の誘惑は「なぜこれが いけないの」というところにこそあるのです。この国では多くの親が子供に 対し「人様の迷惑にならないように」と言って育てます。「他の人の迷惑に なるでしょ!」と言って叱ります。ですから、人に迷惑さえかけなければい いのだと子供は思うようになります。やがて、「どうしていけないの。誰に も迷惑かけていないじゃない!」と口答えするようになります。しかし、全 く誰にも迷惑をかけない「石がパンになるように命じる」ということにさえ、 悪魔の誘惑があったのだと聖書は教えているのです。
では、どうしてこれが誘惑なのでしょう。それを知るには、主イエスが何 と言って悪魔を退けているかに注目しなくてはなりません。主はこうお答え になりました。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一 つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(4節)。空腹な時にパンが得られ ることは喜ばしいことです。それが石がパンになるような仕方で与えられる ならばなおさらです。文字通り石がパンにならないとしても、例えば年末ジ ャンボ宝くじならば、一枚の紙切れが二億円になることもあります。この時 期、心の中で「石よパンになれ」と命じている人は少なくないでしょう。し かし、そこには誘惑があるのです。どんな誘惑でしょう。「人はパンだけで 生きられる」と思うようになる誘惑があるのです。
主イエスが引用したのは、旧約聖書の申命記の言葉でした。申命記8章を 御覧ください。「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い 起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、 すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦し め、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。 人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によっ て生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8・2‐3)。た いへん逆説的ですが、主が天からのパンであるマナを与えられたのは、人が パンだけで生きるのではないことを知るためだった、とモーセは語ります。 与えられたモノよりも、与えてくださる御方の方が重要なのです。人間の命 とは、与えられたモノを手にすること以上のものです。与えてくださる神を 重んじ、その言葉に聞き従うところにこそ、本当の命があることを、イスラ エルの民は知らなくてはならなかったのです。
というのも、彼らは約束の地に入ろうとしていたのです。「あなたの神、 主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。…あなたは食べて満 足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえ なさい」(7‐10節)と書かれているとおりです。それは喜ばしいことで す。しかし、そこにはまた誘惑もあるのです。「あなたが食べて満足し、立 派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、 心がおごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい」(12‐ 14節)。さて、実際はどうなったのでしょうか。後に主は預言者エレミヤ を通してこう語っています。「おとめがその身を飾るものを、花嫁が晴れ着 の帯を忘れるだろうか。しかし、わたしの民はわたしを忘れ、数え切れない 月日が過ぎた」(エレミヤ2・32)。そうです、結局イスラエルはこの誘 惑に負けてしまったのです。
しかし、今日の聖書箇所でキリストが再び荒れ野に導かれます。そして、 イスラエルが負けたあの誘惑の前に再び立たれるのです。いわば、神に従い 通すことができなかったイスラエルの歴史を自らの身をもって辿り直される のです。そして、イスラエルは誘惑に敗れ神に従い通すことができませんで したが、キリストは神の言葉をもって悪魔を退け、従順を貫かれるのです。 これがこの箇所に書かれている内容の基本的な構造です。それは他の二つの 誘惑についても言えることです。
●キリストの従順のゆえに
第二の誘惑は次のようなものでした。「次に、悪魔はイエスを聖なる都に 連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。『神の子なら、飛び降り たらどうだ。「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に 打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」と書いてあ る』」(5‐6節)。ここにおいても、悪魔はあまり悪魔らしくありません。 聖書を引用するのですから。まるで牧師のようです。悪魔は牧師の姿でやっ てくることもあるようです。
ここでも、誘惑の内容がなんであったかは、キリストの言葉によって理解 しなくてはなりません。主イエスは言われました。「『あなたの神である主 を試してはならない』とも書いてある」(7節)。申命記からの引用です。 その節全体では次のように書かれています。「あなたたちがマサにいたとき にしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」(申命記6・16)。
マサという地名は「試す」という意味です。その地名に関する物語を見てみ ましょう。出エジプト記17章をお開きください。
その場所は、イスラエルの民が「我々に飲み水を与えよ」と言ってモーセ と争った場所です。彼らはモーセに向かって不平を言いました。「なぜ、我 々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで 殺すためなのか」。しかし、問題は、彼らが飲み水を要求したことでも、不 平を言ったことでもありません。その地名の由来について聖書はこう記して います。「彼(モーセ)は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名 付けた。イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかど うか』と言って、モーセと争い、主を試したからである」(出17・7)。 彼らは、水を要求することにおいて、主が彼らと共におられるかどうかを試 したのです。つまり、彼らはイスラエルをエジプトから導き出し、約束の地 に導き入れると語られた、神の愛と真実を疑った、ということです。だから 神の愛と真実の目に見える証拠を要求して神を試したのです。このように、 イスラエルはこの誘惑に陥って、自らの不信仰を露わにすることになりまし た。しかし、キリストは、その同じ誘惑を自ら受けられ、その誘惑に勝利さ れたのです。
さて、第三の誘惑は次のようなものでした。悪魔は世のすべての国々とそ の繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな 与えよう」と言いました。これは、三つの誘惑の中で最も悪魔らしいし、分 かりやすいもののように見えます。悪魔にひれ伏し、悪に手を染めてでも、 繁栄を手に入れようとする人は少なくないからです。しかし、この誘惑もま た、キリストの言葉から正しく理解しなくてはなりません。
主はこう言って悪魔を退けられました。「『あなたの神である主を拝み、 ただ主に仕えよ』と書いてある」(10節)。「『悪魔を拝むな』と書いて ある」ではありません。問題は悪魔を拝むか否かではないのです。実際、イ スラエルの人々は悪魔礼拝をしたわけではありません。殊更に悪に手を染め てでも繁栄を手にいれようとしたわけでもありません。しかし、彼らは確か に「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という言葉からは離れて しまいました。どのようにしてでしょうか。繁栄を約束する豊穣の神、バア ルの神を拝むことによってです。彼らに語りかけ、信頼と従順を求める主な る神ではなく、ただ繁栄と幸福を与えてくれる神を求めたのです。その結果、 主なる神とその御言葉から引き離されてしまったのです。しかし、キリスト は、かつてイスラエルが陥ったその誘惑の前に再び自ら立たれたました。そ して、その誘惑に打ち勝たれたのでした。
このように、キリストは、誘惑に負けて神に従い通すことができなかった イスラエルの歴史を辿り直し、誘惑に打ち勝ち、従順を貫いてくださいまし た。そして、この御方は真のイスラエルとして、十字架の死に至るまで、神 への従順を貫いてくださったのです。すなわち、人間がその弱さのゆえに為 しえなかったことを、この御方が成し遂げてくださったのでした。このキリ ストこそ、私たちを呼び集め、私たちを御自身に結び合わせて、神と共に生 きる神の民としてくださった御方です。私たちが神の御前に立てるのは、私 たちの完全な従順のゆえではありません。キリストの完全な従順のゆえです。 しかし、それは、私たちは不従順であってもかまわないということを意味す るわけではありません。キリストが命を献げて私たちを新しいイスラエルと してくださったのです。私たちは悪魔の誘惑に打ち勝たれたキリストに依り 頼み、新しいイスラエルとして、キリストの後に従うようにと招かれている のです。「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」(エフェ ソ6・10)。