「神の御業への参与」                         マタイ1・18‐25  今日は18節からお読みしました。しかし、その部分は、その前に書かれ ていることの続きです。18節には「イエス・キリストの誕生の次第は次の ようであった」と書かれていますが、そのイエス・キリストとは、「アブラ ハムの子ダビデの子、イエス・キリスト」(1節)です。2節以下にその長 い系図が記されていますが、その末に生まれてくることになるイエス・キリ ストです。つまり旧約の時代から長い準備の期間を経てこの地上に誕生する イエス・キリストのことであります。17節には、わざわざ「こうして、全 部合わせると、アブラハムからダビデまで十四代、ダビデからバビロンへの 移住まで十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代である」と 書かれています。この記述は、この準備の期間を導かれたのが神御自身であ ることを示しております。そのように、神の準備の期間を経て、時が満ちて、 いよいよメシアがこの地上に誕生する、その次第が「次のようであった」と 語られているのです。  ここに描かれています「イエス・キリストの誕生の次第」は明らかにヨセ フを中心に描かれております。一方、ルカによる福音書においては、むしろ スポットライトはマリアの方に当たっています。良く知られている、マリア に対する《受胎告知》の物語です(ルカ1・26‐38)。今日はそちらも 併せて読みながら、この聖書箇所において特に三つのことを心に留めたいと 思います。 ●ヨセフに与えられた苦しみ  初めに18節以下を御覧ください。「イエス・キリストの誕生の次第は次 のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前 に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい 人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切 ろうと決心した」(1・18‐19)。  ここには、ヨセフという人に突如として与えられた深い苦悩が描かれてい ます。イエス・キリストの誕生は、ヨセフにとって、単純に喜ばしい出来事 として臨みはしませんでした。婚約相手のマリアが身重になったことをヨセ フは知らされます。婚約期間の責任を負っているのは両親ですから、マリア の父親から聞かされたのではないかと想像します。この知らせは、マリアの 裏切りを突きつけられることを意味しました。「聖霊によって身ごもってい ることが明らかになった」と書かれています。マリアから説明があったので しょうか。たとえそうであっても、ヨセフがそのことを信じてはいなかった ことは、その後の対応から分かります。彼は事を公にしてマリアを裁きの場 に引き出すことは望みませんでした。それがヨセフの優しさでした。しかし、 ヨセフの正しさは、マリアをそのまま受け入れることはできませんでした。 彼はひそかに縁を切ろうと決心していたのです。  一方、ルカによる福音書では、マリアの苦悩はあまり全面に現れてはおり ません。しかし、このことはマリアにとっても恐るべき出来事であったこと は間違いありません。これは婚約の危機であっただけではありません。ユダ ヤ人の社会において婚約は結婚と同じ重さを持っていましたから、事が公に なれば彼女は姦通罪を犯した者として裁かれることになります。あの受胎告 知は、マリアにとって、そのような立場に置かれることを意味したのです。  私たちは、このようなヨセフとマリアの苦しみなくして、イエス・キリス トの誕生はなかったことを心に留めねばなりません。彼らは、ある意味では、 神の救いの計画に参与した人々の代表です。神の計画において用いられるこ とは、苦悩を背負うことでもあるのだ、ということを私たちは知らねばなり ません。キリスト者として、教会として、神の救いの計画の中に置かれると いうことを、単純にハッピーなことと考えてはなりません。そこには必ず負 うべき十字架があるのです。 ●ヨセフに求められた従順  次に、20節を御覧ください。「このように考えていると、主の天使が夢 に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。 マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである』」(1・20)。  ここにはヨセフに対する神の求めが書かれています。ヨセフはマリアを離 縁するつもりでいました。しかし、主はヨセフにその計画の変更を求めます。 マリアを迎え入れることを求めるのです。すなわち、マリアを妻として受け 入れ、その胎の子を自分の子供として認知することを求めているのです。こ のことがどうして必要であったのでしょう。確かに、胎の子が誕生するため だけなら、ヨセフの認知は必要ありません。時が来れば産まれます。しかし、 胎の子がダビデの子孫であるメシアとして誕生するためには、ヨセフの認知 が必要でありました。なぜなら、2節から15節に至る系図は、ヨセフに至 る系図だからです。聖霊によってマリアの胎に宿った子がダビデの末裔とし て誕生するために、いわばヨセフの協力が必要とされたのです。  この点においては、ヨセフの置かれている状況とマリアのそれではずいぶ ん違います。マリアの場合、天使が現れたのは、「あなたは身ごもって男の 子を産む」ということを告知するためでした。「マリアさん、あなたの胎に 子供を宿らせてよろしいでしょうか」と同意を得るためではありませんでし た。もう決まっているのです。マリアに選択の余地などないのです。ここに は有無を言わせぬ神の選びと直接的な介入があります。神の救いが実現する ということには、確かに、このような神の一方的な決定という側面がありま す。そこにおいて神への従順とは、神の選びによって与えられた選択の余地 のない状況を、そのまま受け入れることに他なりません。「わたしは主のは しためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1・38)と マリアが言ったようにです。  しかし一方、ヨセフが求められたのは信仰による決断でありました。彼に は選択の余地があります。彼の前には二つの道があるのです。既に彼は一つ の道に進もうとしていました。しかし、そのヨセフが神の言葉を聞いて、も う一つの道へと方向を変えるのです。それはヨセフの意志的な決断です。こ の場合、神への従順とは、神の言葉によって、あえて自ら困難と恥とを引き 受ける道を選ぶことに他なりませんでした。ヨセフはそのことを通して、神 の救いの御業に参与することになるのです。  確かに、神の救いの実現にとって、人間の決断がすべてを決するのではあ りません。マリアの従順が、マリアの胎に神の子を宿らしめたのではありま せん。これは神のみが為しえることであり、また神の一方的な決定と選びに よるものです。そこに人間の意志の入る余地はありません。神の主権の前に 私たちは謙らねばなりません。しかし、神の救いの実現が人間とは全く無関 係に進んでいくと考えることは、人間の意志がすべてであると考える以上に 非聖書的です。神はキリスト者の従順、教会の従順とは無関係に事を進め給 いません。主は私たちの従順を求めます。イエス・キリストがダビデの子と して誕生するに当たっては、マリアの従順の位置づけがあり、ヨセフの従順 の位置づけがあるのです。 ●ヨセフに明かされたメシア到来の意味  最後に、21節以下を御覧ください。「『マリアは男の子を産む。その子 をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』こ のすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実 現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名は インマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という 意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎 え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、 その子をイエスと名付けた」(1・21‐25)。  ここには、ヨセフに対して明らかにされた、メシアの到来の意味が記され ています。今日お読みしましたヨセフに対する言葉にしても、マリアに対す る受胎告知にしましても、共通していることがあります。それは生まれてく る子供を「イエス」と名付けるようにと命じられていることです。それはユ ダヤの世界ではごくありふれた名前です。その名は旧約聖書に現れる「ヨシ ュア」という名前に相当します。しかし、ここで重要なのはその意味です。 「ヨシュア」という名前は「主は救い」という意味なのです。その名の通り、 こうして生まれた方は救い主なのです。何から救ってくださるのでしょう。 ここで聖書は特別なことを語ります。「この子は自分の民を罪から救うから である」(21節)と。単に病気や災い、苦しみから救ってくれる御方だと 語られているのではありません。もしそうならば、この子の誕生によって、 最も身近なマリアとヨセフが苦しみに遭うのはおかしな話ですし、後の教会 が数々の艱難を経験することになるのもおかしな話です。しかし、そうでは なく、この子は「罪から救う」のだと語られているのです。  罪がもたらすのは、神と人間との断絶です。そのことは、先の系図が指し 示すイスラエルの民の歴史を見ても分かります。罪は神と人との断絶をもた らすのです。ですから、罪から救われるということは、神と和解し、神と共 に生きられるようになることに他なりません。ですから、その子はまた「イ ンマヌエル」とも呼ばれるのだ、と言われているのです。「インマヌエル」 とは「神は我々と共におられる」という意味です。そのことが真に実現する ために来られたのが、イエスと名付けられるキリストなのです。それゆえに、 イエスと名付けられたその子は苦難の道を歩み、十字架へと向かうことにな ります。十字架において罪の贖いの血を流すことになるのです。こうして神 と人との断絶を取り除かれるのです。このキリストが共にいてくださること において、人は神と共に生きられるのです。  そして、復活されたキリストは、弟子たちにこう命じられたのでした。 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行っ て、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によっ て洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさ い。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28・18 ‐20)。このように、マタイによる福音書はインマヌエルに始まり、イン マヌエルに終わります。ヨセフに語られたのは、「この子は自分の民を罪か ら救う」という言葉でありました。しかし、今やそのキリストの民に、すべ ての民が招かれております。すべての民が神と共に歩むように招かれている のです。こうして、神の救いは全世界にもたらされるのです。私たちもまた、 自らその救いに与り、また神の救いの御業に参与するために招かれました。 そこには負うべき十字架があります。そこにには求められている従順があり ます。そして、そこには確かに「神が我々と共におられる」歩みがあるので す。