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「喜びにあふれた人々」

2003年12月21日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ2・1‐12

 最近は有名なロックフェラーセンターのクリスマスツリーだけでなく、各 地に巨大なクリスマスツリーが見られるようになりました。その点火と共に 大勢の人々が喜びに溢れて歓声を上げる様子がテレビでも放映されます。確 かにクリスマスには「喜び」という言葉が似合います。今日の聖書箇所にも、 喜びにあふれた人々が出てきました。「学者たちはその星を見て喜びにあふ れた」(10節)。今日、私たちはこの喜びにあふれた占星術の学者たちに ついて特に三つの点に注目し、クリスマスの喜びについて共に考えたいと思 います。

●喜びにあふれた異邦人

 第一に、彼らはユダヤ人ではなく異邦人でありました。東の方からエルサ レムにやって来た人々です。彼らは尋ねました。「ユダヤ人の王としてお生 まれになった方は、どこにおられますか」(2節)。これを聞いたヘロデ王 は、「民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれる ことになっているのかと問いただした」(4節)と書かれています。「ユダ ヤ人の王」が「メシア」(すなわち「キリスト」)と言い換えられているこ とが分かります。占星術師たちはメシアを訪ねて来たのです。

 今日、世界中でクリスマスが祝われます。クリスマスは「キリスト」と 「マス(祭礼)」から出来ている言葉で、メシア=キリストがこの世に来ら れたことを祝う祭りです。しかし、もともとメシア=キリストの到来を待ち 望んでいたのは世界中の人々ではなくて、ユダヤ人たちでありました。メシ アは、ユダヤ人を救う「ユダヤ人の王」としてユダヤ人によって待ち望まれ ていたのです。メシアの到来を告げる聖書も、もともとはユダヤ人の書物で ありました。聖書は、天から降ってきた書物ではなくて、イスラエルの歴史 という背景を持つ書物です。「メシア」という言葉も同様です。しかし、そ のユダヤ人が待ち望んでいたはずのメシアが誕生した時、そのメシアを求め てやって来たのは当のユダヤ人ではなくて、東方から来た異邦人である占星 術師だったのだ、と今日の聖書箇所は伝えているのです。

 これは驚くべき主張です。というのも、もともと占いやまじないの類はモ ーセの律法において厳しく禁じられていたのであって(例えば申命記18・ 10以下)、当然のことながら異教の占星術師はユダヤ人にとって侮蔑と忌 避の対象だったからです。いわば、ユダヤ人からすれば、この占星術の学者 たちは、救いから最も遠い部類の人々でありました。しかし、そのような彼 らこそ、キリストのもとにやってきたのであり、喜びにあふれたのだと聖書 は伝えるのです。そして、これは後のキリストの御生涯における出来事や後 の教会の歴史を象徴していると言えるでしょう。キリストのもとに来て喜び にあふれたのは、救いから遠いと思われていた徴税人や罪人たちであり、教 会を満たしたのは、汚れた者とされていた異邦人だったのです。自分は救い に近いと思っていた人々は、むしろキリストと教会に敵対したのです。

 このように、神の招きはいつでも私たちの思いを越えて遠くに及びます。 ですから、私たちは自分についても、他の人についても、「わたしはキリス トとは無縁だ」「あの人は救いからはほど遠い」などと言ってはならないの です。マタイによる福音書においてクリスマスの喜びに与っているのは異邦 人の占星術師であることを心に留めましょう。

●礼拝すべき方を求めていた人々

 第二に、ここで喜びにあふれていたのは、礼拝すべき方を求めていた人々 でありました。彼らはこう言ったのです。「わたしたちは東方でその方の星 を見たので、拝みに来たのです」(2節)。「拝む」という言葉は、もとも とは王様などの前に平伏してその足に口づけをするという意味合いの言葉で す。そのように、この学者たちは自分たちが本当の意味でその御前で平伏し、 献げ物を捧げるべき御方を求めて、長い旅をしてきたのです。

 彼らの姿は、この知らせを聞いたヘロデたちの姿と対照的です。そこには 何と書いてあるでしょうか。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エ ルサレムの人々も皆、同様であった」(3節)。ヘロデは政治的な支配者で す。彼は政治的な意味において自分が支配することのできる世界を持ってい ます。しかし、ヘロデは純粋なユダヤ人ではなかったために、民衆の支持基 盤を持ちませんでした。ですから、いつも権力の座を失う危機感を覚えてい たのです。それゆえに、疑心暗鬼から自分の妻を処刑し、息子たちも自ら処 刑してしまったのでした。そのようなヘロデがメシアの誕生の噂を聞いて不 安になったことはうなずけます。それは彼の支配している古い世界の終わり を意味するからです。このように、メシアの前に平伏すつもりがなく、ただ 自分の古い世界を守ろうとする人にとって、メシアの到来は決して喜びをも たらすことはないのです。

 不安になったのはヘロデだけではありませんでした。「エルサレムの人々 も皆、同様であった」と書かれています。ここで「エルサレム」という言葉 が表現しているのは、特定の場所というよりは、むしろユダヤ人社会の宗教 的な支配体制のことであろうと思われます。その代表は、後に出てくる民の 祭司長たちや律法学者たちです。彼らは宗教的な意味において自分たちが支 配することのできる世界を持っています。しかし、メシアが到来するという ことは、神によって決定的に新しいことが始まることを意味しますから、彼 らの持っている古い宗教的世界もまた終わりを迎えることを意味するのです。 彼らの不安はヘロデの不安と同質です。メシアの前に平伏すつもりがなく、 ただ自分の古い世界を守ろうとする人々にとって、メシアの到来は喜びとな らないのです。そして、ここに人間の経験するジレンマがあります。救いを 求めるということは、全く新しい神の御業を求めることに違いないのですが、 人は古い自分の世界も手放したくないのです。ですから、その古い世界を守 ろうとする時、メシア=キリストは古い世界を脅かす不安材料にしかならな いのです。

 しかし、ここに東方から来た占星術師がいます。占星術師は、星の運行が 人間の運命を支配していると信じられていたオリエントの世界では、それな りの高い地位と支配力を有しておりました。彼らが対外的にも低い位の人間 でなかったことは、エルサレムに入ってすぐにヘロデ王に謁見できたことか らも分かります。しかし、彼らには自分の古い世界を守ることよりも大事な ことがありました。メシアを見出すことです。その御前で自分が本当の意味 で平伏すべき御方を発見することです。そのことこそ、彼らの人生の最重要 事項だったのです。

 彼らが携えて行った献げ物は「黄金、乳香、没薬」でありました。ある学 者は、これらが占星術師の商売道具でもあったのだと言っています。なるほ ど、もしそうならば、まさに彼らの献げ物は、彼らが自分の持っていた古い 世界、占星術の世界をメシアの前に献げてしまったことを意味するでしょう。 そのように礼拝すべき方を求めていた彼らであるゆえに、メシアの星の出現 は、決して不安をもたらすものとはならなかったのです。むしろ、彼らの希 望となったのであり、メシアの発見は彼らにとって大きな喜びをもたらすこ ととなったのです。

●具体的に旅に出た人々

 第三に、彼らは具体的に祖国を後にして旅立った人々でありました。古代 の占星術の世界にはそれなりに、いわば学問的な体系と呼べるものがありま す。彼らはありとあらゆる書物に当たり、メシアの星について調べたことで しょう。また、バビロニアには多くのユダヤ人たちが住んでいましたから、 ユダヤ人の王として到来するメシアについても調べたことでしょう。しかし、 それだけに留まりませんでした。彼らはメシアを発見し、メシアを礼拝する ために立ち上がって旅に出たのです。調べることまでは本の前でできます。 しかし、礼拝することは体をその場に運んでいかなくてはなりません。

 そう言えば、聖書の中には、具体的に旅立った人の話がたくさん出てきま す。アブラハムもそうでした。モーセに導かれたイスラエルの民もそうでし た。主イエスのたとえ話の中の「放蕩息子」もそうです。放蕩息子は自らの 悲惨な生活の中で悩んでいただけではありませんでした。「彼はそこをたち、 父親のもとに行った」(ルカ15・20)と書かれているのです。あるフィ ンランドの東方教会の指導者が次のように言っています。「信仰は考えるこ とによってではなく、実行することによって得られる。言葉や考察ではなく、 体験が神を教えてくれる。窓を開けない限り、新鮮な空気は部屋に入れられ ない。日光浴をしない限りは、肌は黒くならない。信仰を得ることも、同様 なことである。教父たちの言っているように、ただ楽に腰かけて待っている だけでは、私たちは目標に達することはできない。」なるほど、その通りで す。

 ヘロデ王が民の祭司長たちや律法学者たちに、メシアはどこに生まれるこ とになっているのかと問うた時、彼らはすぐに「ユダヤのベツレヘムです」 と答えることができ、その根拠となる旧約聖書のミカ書の言葉を挙げること ができました。地図で見ますと、エルサレムからベツレヘムは、さほど離れ てはおりません。せいぜい10キロメートルぐらいの距離です。彼らはメシ アがベツレヘムに生まれることを知ってはいました。占星術の学者たちが、 今からそこに向かおうとしていることも知っていました。しかし、律法学者 たちは彼らに同行しようとはしませんでした。それゆえに、喜びに与ること もありませんでした。

 占星術師は、遠くから旅をしてきました。二千年前の砂漠越えの旅がいか に困難であったかは想像を絶します。しかも、それはかなりの長旅であった に違いありません。後に二才以下の男の子をヘロデが皆殺しにするという話 が出てきます。なぜ二才以下なのか。7節に「ヘロデは占星術の学者たちを ひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた」とありますが、その時期に 基づいて判断したのです。星が出たのは二年も前のことでした。この二年間、 彼らは求め続けたのです。その大部分を長旅で費やしました。彼らは諦めま せんでした。求め続けました。そして、ついに彼らは礼拝すべき御方に出会 ったのです。そこに大きな喜びがありました。そして、この喜びに与った彼 らは、もはや星に尋ねるのではなく、神の言葉に従って帰っていきました。 神の導きによって別の道を通って帰って行ったのです。

 願わくは、このクリスマスが多くの人々にとって、メシアを求めて大きな 喜びに向かって具体的に歩み出す旅立ちの時となりますように。また、多く の人々にとって、メシアに出会って大きな喜びに与り、神の導きによる新し い別の道を通って新たに歩み出す時となりますように。

 
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