「平等の主張」
2003年12月28日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 民数記16・1‐35
イツハルの子コラ、エリアブの子ダタンとアビラム、ペレトの子オンが徒 党を組み、イスラエルの指導者たち250名を巻き込んで、モーセとアロン に対して反旗を翻しました。今日お読みしました物語です。モーセとアロン に逆らって立った彼らの言い分を聞いてみましょう。彼らはこう主張しまし た。「あなたたちは分を越えている。共同体全体、彼ら全員が聖なる者であ って、主がその中におられるのに、なぜ、あなたたちは主の会衆の上に立と うとするのか」(3節)。
この主張がある種の正当性を有していることを私たちはまず認めるべきで あろうと思います。この直前に書かれていることを見てください。そこには、 「あなたたちは、わたしのすべての命令を思い起こして守り、あなたたちの 神に属する聖なる者となりなさい」(15・40)と書かれております。聖 なる者となれと命じられているのは、イスラエルの民全員に対してであって、 一部の人々に対してではありません。また、続いて「わたしは、あなたたち の神となるために、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの 神、主である。わたしはあなたたちの神、主である」(15・41)と語ら れています。この「あなたたち」とはイスラエルの民全員なのであって、モ ーセやアロンなどの限られた人々についてではありません。ですから、主は 等しくイスラエルの民全員にとっての神なのです。モーセやアロンはその意 味では特別な存在ではありません。
また、このような平等の主張というものは、単に正当性を持つだけでなく、 現実の共同体においてしばしば重要な意味を持っています。というのも、あ らゆる共同体において、ある特定の個人や一部の特権階級による権力の濫用 と不当な抑圧ということは起こり得るからです。宗教的な共同体も例外では ありません。いやそこにおいて、むしろ起こりやすいとも言えます。事実、 イスラエルの歴史においても、後の教会の歴史においても、そのようなこと が繰り返し起こってきました。ですから、この箇所を「上に立つ者に対して 逆らい、平等の権利を主張したこと自体が悪であったのだ」と単純に読んで しまうなら、それほど危険なことはありません。それは容易に上に立つ者の 絶対化を招くことになるからです。
実際、彼らの主張は、当時の多くのイスラエル人にとっても、正当なもの として受け入れられたようです。19節には「コラは共同体全体を集め、臨 在の幕屋の入り口でモーセとアロンに相対した」と書かれています。コラに とって、共同体全体は味方だったのです。そして、同じように、今日、様々 な場面で平等の権利の主張がなされる時、多くの人々がそれに賛同します。 あからさまに反対する人はほとんどいないでしょう。
しかし、それでもやはり私たちは、コラやダタンやアビラムと彼らに追従 する人々が、神によって裁かれて滅びたことを読み飛ばしてはならないので す。一見すると筋が通っていて正しく、しかも良いことに思える主張の中に、 実は大きな問題が隠れていることがある、ということも事実だからです。私 たちは、ここにおいて問題が何であったのかを、しっかりと読みとらねばな りません。
●コラの不満
そこでまず、そもそもコラやダタンたちが、なぜこのようなことを言い始 めたのかを考えてみることにしましょう。(1節にはペレトの子オンの名も 書かれていますが、彼の名前は裁かれた人々の中に見出されないので除外す ることにします)。彼らとモーセのやりとりを読みますと、それぞれが現体 制に対する不満を抱いていたことが分かります。
初めにイツハルの子コラの不満を見てみましょう。彼の家はレビの部族の 中のケハトの氏族に属します。レビ族は、主の幕屋に仕える職務、すなわち 礼拝のための職務を与えられていた部族です。ケハト族がどのような仕事を 託されていたかが民数記4章に記されております。「ケハトの子らの仕事は、 臨在の幕屋と神聖なものにかかわる」(4・4)と書かれております。具体 的には15節に「アロンとその子らが、宿営の移動に当たって、聖所とその すべての聖なる祭具を覆い終わった後、ケハトの子らが来て運搬に取りかか る」(4・15)と書かれております。
さて、ここに「アロンとその子ら」という表現が出てきます。実は、アロ ンとその子らもケハトの氏族に属するのです。しかし、同じケハトの氏族に おりながら、彼らは特別な職務を与えられておりました。彼らは祭司なので す。ケハトの氏族全員が祭司になれるわけではなくて、ただアロンとその子 孫だけが祭司になれるのです。コラが問題にしたのは、その点であったよう です。要するに「私だって彼らと同じケハトの氏族ではないか。アロンは私 の従兄弟ではないか。私にも祭司にならせろ」ということです。それはモー セがコラに語りかけている言葉から分かります。「レビの子らよ、聞きなさ い。イスラエルの神はあなたたちをイスラエルの共同体から取り分けられた 者として御自身のそばに置き、主の幕屋の仕事をし、共同体の前に立って彼 らに仕えさせられる。あなたたちはそれを不足とするのか。主は、あなたと あなたの兄弟であるレビの子らをすべて御自身のそばに近づけられたのだ。 その上、あなたたちは祭司職をも要求するのか」(8‐10節)。
「神が御自身のそばに置いてくださった」――そうです、彼らの務めは、 神の恵みによる賜物でありました。神が近づけてくださったゆえに、彼らは 奉仕することができるのです。そもそも、聖なる神に人間が近づくことがで きる礼拝そのものが、神の恵みによる賜物なのです。ですからそこには務め を与えてくださった神に対する感謝と畏れが伴っているはずなのです。しか し、恵みに馴れ、恵みを恵みとして受け止めることができなくなった時、恵 みであったものが権利であると考えられるようになってしまいます。感謝と 畏れを失った権利の主張となってしまうのです。
16節以下には、そんな人間の恐るべき傲慢な姿が描かれています。モー セは、祭司職を権利として主張するならば、その権利の主張をもって主の御 前に立つことを命じます。そして、そのとおりに、彼らは《平等の権利》に よって自ら祭司となって、自分の香炉を取って臨在の幕屋の前にアロンと共 に立ったのです。《自分の焚く香は、当然神に受け入れられて然るべきであ る。なぜなら、香を焚く権利は平等に与えられているのだから》。そう思っ て立っていたのでしょう。しかし、その結果は35節に書かれているとおり です。「また火が主のもとから出て、香をささげた二百五十人を焼き尽くし た」。これが恵みを権利にすり替えた人間の主張に対する神の答えでありま した。
●ダタンとアビラムの不満
次に、ダタンとアビラムの不満について見てみましょう。イツハルの子コ ラの不満がアロンの祭司職に関するものであったのに対し、エリアブの子ダ タンとアビラムの不満はモーセの指導権を巡るものでありました。彼らの目 から見た時に、モーセは指導者としては不適切であると思えたのです。実際、 エジプトを導き出された民はいまだに荒れ野をさまよっています。共同体は 長い間厳しい現実の中に置かれているのです。そもそもダタンとアビラムの 家はルベンの部族に属します。ルベンはヤコブの長子です。ルベン族は、い わばイスラエルの本家です。ですから、レビ族に属するモーセが指導者とし て立っていること自体が、彼らにとっては不満だったに違いありません。
しかし、モーセが指導者として不適切であることを訴える彼らの言葉の中 に、実は彼らの本当の問題が現れているのです。モーセが人をやって彼らを 呼び寄せようとした時、彼らはこう言いました。「我々は行かない。あなた は我々を乳と蜜の流れる土地から導き上って、この荒れ野で死なせるだけで は不足なのか。我々の上に君臨したいのか。あなたは我々を乳と蜜の流れる 土地に導き入れもせず、畑もぶどう畑も我々の嗣業としてくれない。あなた はこの人々の目をえぐり出すつもりなのか。我々は行かない」(12‐14 節)。
この言葉の中に、先に見たイツハルの子コラの内にあったの全く同質の問 題が浮かび上がってまいります。そもそも彼らがエジプトから導き出され神 の民とされたのは、神の恵みによることでした。「わたしは、あなたたちの 神となるために、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、 主である」(15・41)と書かれていたとおりです。また、彼らが乳と密 の流れる地に入るという約束を与えられたのも、全く神の恵みによることで した。ですから、イスラエルの民は、モーセを通して現された神の恵みを喜 び感謝しながら、エジプトを脱出し、葦の海を渡ったのです(出15章)。
しかし、今や神の救いの恵みは忘れ去られてしまいました。彼らは自分た ちが出てきたエジプトを「乳と密の流れる土地」と呼びます。そこから導き 出されたのは「この荒れ野で死なせるため」だと言うのです。また、神から 与えられている約束も、もはや恵みではなくなりました。「あなたは我々を 乳と密の流れる土地に導き入れもせず、畑もぶどう畑も我々の嗣業としてく れない」と不平を言います。乳と密の流れる土地を受け継がせるという恵み による約束は、彼らが要求できる権利となりました。だから、その要求を満 たし得ない指導者は、指導者として相応しくないということになるのです。
このように、エジプトから導き出されたことと約束の地を受け継ぐことに ついて語られているにもかかわらず、そこにはもはや神への感謝と畏れは伴 っていませんでした。恵みに馴れ、恵みを恵みとして受け止めることができ なくなった時、そこに残るのは不平不満だけであり、感謝と畏れを失った権 利の主張だけなのです。そして、乳と密の流れる土地に導き入れられること を当然の権利と考えていた彼らは、結局、その地に至ることはなかったので す。旅の途上の大地が口を開き、彼らと彼らに属するものすべてを呑み込ん でしまいました。これが恵みを権利にすり替えた人間の主張に対する神の答 えでありました。
人間が平等の権利を主張することは、それ自体としては正しいことであり ますし、しばしば必要なことでもあります。しかし、信仰者の間においてそ のことが語られる時、私たちが決して忘れてはならないことがあるのです。 それは、私たちの現在が、私たちの権利の要求によって獲得したものによっ てではなく、ただ一方的に神から与えられた恵みに基づいているということ です。私たちはキリストの十字架のもとにあって、神の御前にあるのです。 その神に対する感謝と畏れを失うようなことがあってはならないのです。