「罪のゆるし」
2004年1月4日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書9章1節~8節
マタイによる福音書の8章からは一連の奇跡物語が記されております。今 日お読みしました中風の人の癒しに関する物語もその一つです。しかし、今 日の箇所に記されている病気の癒しは、他の癒しの物語とは若干様子が異な ります。特徴的なのは2節の主イエスの言葉です。「子よ、元気を出しなさ い。あなたの罪は赦される」。このような言葉は他の奇跡物語には出てきま せん。ここにこの箇所固有のメッセージがあると見てよいでしょう。
●あなたの罪は赦される
ここに見る「あなたの罪は赦される」という言葉は、「いつの日にか赦さ れるでしょう」という意味ではありません。「今、ここにおいて、あなたの 罪は赦されるのだ」という意味です。ですから、この言葉を「あなたの罪は 赦された」と完了形にしている写本もあります。要するに、主イエスが中風 の男に罪の赦しを宣言されたのです。
しかし、この「あなたの罪は赦される」という赦しの宣言は、あまりにも 文脈を無視した言葉ではないでしょうか。キリストのことろに連れて来られ たのは病人なのです。彼は中風です。床に寝かせたまま連れて来たというの ですから、全く動けなかったのでしょう。この動けない人、また彼を連れて きた人々が、何よりも求めていたのは、この病気が癒されることだったに違 いありません。彼らがこの中風の人を連れてきたのは、他で行われた癒しの 奇跡のうわさを耳にしたからだろうと思うのです。しかし、キリストはここ ですぐに彼を癒さず、罪の赦しを宣言したのです。そもそも主イエスがその 宣言の後に彼を癒すつもりであったのかどうかさえ明らかではないのです。 後に見ますように、この人の癒しは、単にこの人自身のためではなかったか らです。
人は病気であれば病気が癒されることが何よりも必要であると考えます。 それは当然のことでしょう。悩みがあれば悩みが解決することを願います。 欠乏が満たされることを望みます。苦しみや悲しみは取り除かれることを求 めます。私たちは常々そのことが何よりも重要であると考えています。です から、大勢の病人が癒されるためにキリストのもとにやってきたのです。そ して、主は確かに彼らを癒されたのです。福音書の物語が伝えるとおりです。
しかし、キリストはここに至って、人が本当に必要としているのが何であ るかを明らかにされるのです。人はまず神によって赦されねばならない、と いうことです。人間は赦しを必要としているのです。罪の赦しが宣言されね ばならないのです。そのようにして、神との正しい関係と交わりの中に生か されることが必要なのです。ですから、続く物語において、主は御自分が何 のために来られたかを次のように語られるのです。「わたしが来たのは、正 しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(9・13)。
キリストが中風の人に語った言葉はこうでした。「子よ、元気を出しなさ い。あなたの罪は赦される」。この「元気を出しなさい」という言葉は、他 の箇所では「安心しなさい」(14・27)と訳されております。励ましの 言葉というよりは、むしろ「あなたはもう大丈夫だ!」という意味あいです。 この人は癒されて動けるようになった、「もう大丈夫」なのではありません。 彼はまだ癒されていないのですから。まだ床の上なのです。しかし、主はそ のような彼に対して「あなたはもう大丈夫だ」と言われるのです。なぜでし ょう。罪の赦しが与えられているからです。既に神との交わりの中にあるか らです。
●罪の赦しの権威
しかし、この主イエスの言葉は、物議をかもすこととなりました。そこに 居合わせた律法学者たちにとって、その言葉は神に対する冒涜でしかなかっ たからです。マルコによる福音書2章に同じ物語が記されていますが、そこ ではもう少し詳しく律法学者たちの心の思いが記されています。彼らは心の 中でこうつぶやいたのです。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。 神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことが できるだろうか」(マルコ2・7)。律法学者たちの考えは間違ってはおり ません。そもそも、罪の赦しは権威と結びついて初めて意味を持ちます。断 罪できる権威があってこそ、初めて罪の赦しも言い渡すことができるのです。 そして、最終的に人間を正しく裁き断罪することができるのは神だけです。 ですから、罪を赦す権威を持っているのも神だけです。それゆえに、律法学 者の目には、主イエスが罪の赦しを宣言したこと自体、神と自らを等しいと することであって、神への冒涜としか映らなかったのです。
もちろん、主イエス御自身、自分の言葉がどのように受け止められるかを ご存じでありました。それゆえに、さらに主はこう言われたのです。「『あ なたの罪は赦される』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易 しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(5 ‐6節)。主イエスも権威を問題にしています。律法学者たちがつまずいた、 罪を赦す権威を問題にしているのです。主は御自分が、《この地上で罪を赦 す権威》を持っていることを主張しておられるのです。
「罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」という部分は、「罪を赦 す権威を持っていることをあなたがたが知るようになるために…」という言 葉です。途中で文が切れています。この「知るようになるために…」に言葉 を続ける代わりに、主は突然中風の人の方に向き直ってこう命令したのです。 「起き上がって床を担ぎ、家に帰りなさい」(6節)。するとそこで癒しの 奇跡が起こりました。その人は起き上がって、家に帰って行ったのです。
ここに見ますように、この中風の癒しは、病んでいたその人自身のためで はありませんでした。それは、そこにいた人々が「人の子が地上で罪を赦す 権威を持っていることを知るようになるため」だったのです。ここに、キリ ストの行った癒しの業に対する一つの理解が表現されております。主イエス の宣教活動および後の時代の教会の宣教活動において、病気の奇跡的な癒し が行われることは、決して珍しいことではありませんでした。それは現代に おいても、決して希有なことではありません。病気の奇跡的な癒しは起こり ます。しかし、ある人は癒され、ある人は癒されません。人生最後の病気は 癒されません。もし癒しが救いそのものならば、主はそのことに専念された ことでしょう。しかし、そうではありませんでした。福音書の後半、病気の 癒しの奇跡はほとんど出てきません。エルサレム入城以後は、全く見られな くなります。ですから、私たちは、キリストが行った癒しの奇跡の中に、そ の人の苦しみが取り除かれたこと以上のことを見なくてはなりません。それ は私たちに与えられたしるしなのです。キリストの権威を指し示すしるしな のです。その権威は、私たちが立つこの地上の世界において、人間に罪の赦 しを宣言することのできる権威なのです。
●権威をゆだねられた教会
さて、このキリストの権威ということが、教会との関わりにおいて非常に 重要な意味を持ってまいります。この福音書の最後に至って、復活されたキ リストが次のように弟子たちに語っておられるのです。「わたしは天と地の 一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわ たしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あな たがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終 わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28・18‐20)。ここで主 が授かった「権能」という言葉は、先ほど出てきた「権威」と同じ言葉です。 かつて罪の赦しを中風の人に宣言したキリストは、罪の贖いを成し遂げるた めに十字架に向かっておられたキリストに他なりませんでした。しかし、今 や、キリストは罪の贖いを成し遂げ、復活した御方として、弟子たちと共に おられるのです。すなわち、天と地の一切の権威をお持ちの方が、罪を断罪 する権威と、罪を赦す権威をお持ちの御方が、教会のかしらとして、私たち と共におられるのです。そして、主はその権威をもって、今も罪の赦しを宣 言されるのです。そのような教会の姿が、今日の聖書箇所にも重ね合わされ ているのです。
今日お読みしたのと同じ物語がマルコによる福音書にも記されております が、読み比べてみますと若干の違いがみられます。その一つは人々の反応で す。「群衆はこれを見て恐ろしくなり、人間にこれほどの権威をゆだねられ た神を賛美した」(8節)と書かれております。「人間に」というのは、こ の文脈においては主イエスのことを指しています。しかし、原文ではわざわ ざ「人間」という言葉が複数にされているのです。つまり、ここでは人間と してのイエスを指すだけではなくて、後のキリストの体である教会をも指し 示すように書かれているのです。
キリストはその権威をいかなる仕方で行使されるのでしょう。それは教会 において、教会を通して行われるのです。実際、それが私たちの経験してい ることです。洗礼において、「あなたの罪は赦された」と宣言されます。聖 餐において、そして宣教の言葉において、罪の赦しが繰り返し語られます。 これらは、キリストの権威に基づいていなければ、全く意味をなしません。 しかし、教会は、今日に至るまで、あの「世の終わりまで、いつもあなたが たと共にいる」という主の言葉を信じて、キリストの権威のもとにある教会 として、罪の赦しを宣言し続けてきたのです。そして、確かに私たちは、そ の罪の赦しの宣言と共に、「子よ、元気を出しなさい。安心しなさい。大丈 夫だから」という言葉をその実質と共に受け取っているのです。
そして、もう一つ。マルコによる福音書と比べてすぐ分かりますことは、 マタイによる福音書のこの物語は短い、ということです。特に、「イエスが おられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした 」(マルコ2・4)というくだりが省略されています。物語としては、その 人々の過激な行動の方が興味を引き付けるのですが、マタイはそのことより も、彼らが中風の人をイエスのもとに連れていったことそのものを重要視し ているようです。そのことを指して、「イエスはその人たちの信仰を見て… 」と表現し、さらに罪の赦しの宣言がそれに続きます。そのように、罪の赦 しは単に個人的な出来事ではなく、教会における信仰の交わりの中で与えら れるものです。そこで信仰と語られていることは、何も特別なことをするこ とではありません。屋根をはぐことではありません。罪の赦しの権威をお持 ちの方のもとに来ることであり、その御方のもとに人を連れて来ることです。