「あなたの信仰があなたを救った」
2004年1月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書9章18節~26節
今日お読みしました短い聖書箇所には、二つの物語が組み合わされており ます。ある指導者の娘が生き返った話。そして、割り込むようにして記され ています一人の女の癒しの話。一見互いに全く無関係な二人の女性に起こっ た主イエスの奇跡物語が結びつけられているこの箇所は、いったい私たちに 何を語りかけているのでしょうか。
●手だてが尽きて
物語は、ある指導者が主イエスのそばに来て、ひれ伏して懇願するところ から始まります。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでにな って手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」(18節)。
この物語はマルコによる福音書5章にも記されています(マルコ5・21 以下)。マルコによれば、この人はヤイロという名前の会堂長だったようで す。その会堂長はイエスに「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おい でになって手を置いてやってください」と願います。そのように、実際には、 会堂長が主イエスの所に来た時には、まだ娘は生きていたようです。しかし、 彼らが家に向かう途中、会堂長の家から人々が来てこう告げました。「お嬢 さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」(マル コ5・35)。この言葉は、人間の為しえる手だてが尽きたことを意味しま す。もはや何も為しえることはありません。終わりです。絶望です。しかし、 それにもかかわらず、主イエスと会堂長は、死んでしまった娘のもとに向か ったのです。これがマルコの伝える物語です。
このマルコによる物語が、ここでは大幅に短くされています。途中で間に 合わなくて死んでしまったという部分が省略され、既に娘は死んでしまって いるところから話を始めます。この人は言うのです。「わたしの娘がたった いま死にました」と。「死にました」と訳されていますが、ここれは「終わ りました」という言葉です。それは死を意味する一般的な婉曲的な表現です。 しかし、いみじくもその言葉が表しているように、彼は事態の終わりに立っ ているのです。すべての手だてが尽きた終わりにいるのです。
しかし、物語はそこで終わりませんでした。彼はその終わりの地点から主 イエスに呼びかけるのです。ピリオドをカンマに書き換えることのできる御 方に呼びかけるのです。そして、主イエスが彼と共に行くことによって、終 わりが新しい始まりになりました。それがこの聖書箇所の伝えている出来事 です。
一方、そこには出血の止まらない女性も出てきます。十二年間もその病気 を患っていました。どのような「十二年間」だったのでしょう。これもマル コによる福音書の方が詳しく書かれています。この女性は次のように描写さ れています。「さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの 医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立 たず、ますます悪くなるだけであった」(マルコ5・25‐26)。これが 彼女の十二年間です。彼女もまた、一つの終わりに立っています。頼りであ った財産は使い果たしてしまいました。もはや何も為し得ることはありませ ん。終わりです。絶望です。
しかし、物語はそこで終わりませんでした。彼女はその終わりの地点から、 主イエスに近づくのです。後ろから隠れるようにして主イエスの衣の房に触 れるのです。そして、主が振り向かれた時、終わりが新しい始まりになりま した。これがこの聖書箇所の伝えているもう一つの出来事です。
●神との交わりの回復
さて、この箇所を私たちはどう考えたら良いのでしょう。理解できない物 語ではありません。しかし、私たちの心の中には抵抗する一つの声がありま す。「現実にはこうならないではないか」という声です。この父親のように、 私たちもしばしば愛する者との死別を経験します。「お願いだからもう一度 息を吹き返してくれ。イエスさま、どうぞこの人を生き返らせてください。 」そのように叫び求めたことがこれまで幾度あったことでしょう。しかし、 死んだ人が再び息を吹き返すことは一度もありませんでした。葬儀を終え、 火葬場に行き、火葬された骨を拾いながら、死の現実と向き合わざるを得な いのです。病気についても同じです。奇跡的な癒しを経験する人はあるかも しれません。しかし、多くの人々は癒されないまま、一生涯病気の苦しみを 背負って生きていきます。なかなか、出血が癒されたこの女性のようにはな りません。この聖書の物語は、確かに良い話だとは思います。しかし、現実 の私たちといったい何の関わりがあるでしょう。
しかし、その現実離れしたような物語を、教会は大切に伝えてきたのです。 昔の教会はみんな病気が癒され、死んだ人が生き返ることも珍しくなかった からでしょうか。そんなことはないでしょう。多くの人が癒されないまま亡 くなっていく中で、あるいは迫害によって殺されていく中で、死んでしまっ た人々が決して生き返ることはなかったにもかかわらず、この物語は大切に 伝えられていったのです。なぜでしょう。この主イエスの御業が、私たちに 真の救いと希望を指し示しているからなのです。
十二年間も患って出血が止まらなかった彼女は、後ろから主イエスの服の 房に触れました。「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思った からです。「治してもらえる」と訳されていますが、これはもともと「救っ てもらえる」という言葉です。そんな彼女を見ながら、主はこう言われまし た、「あなたの信仰があなたを《救った》」と。そして、その後、「そのと き、彼女は《救われた》」と書かれているのです。つまり、ここに起こって いることは、ただ肉体の癒し以上のことなのです。
そもそも、この出血が止まらなかった女性の苦しみは、単に肉体的な苦し みだけではありませんでした。モーセの律法のもとにあって、出血が止まら ない女性は汚れた者とされていたのです。それは神との交わりが断たれてい るということです。ですから、彼女の置かれている状況は、基本的にはあの 徴税人や罪人が置かれていた状況と変わりません。その状態が十二年も続い ていたのです。しかし、主イエスによって、出血が止まりました。それは肉 体的な癒しである以上に、彼女にとっては神との交わりの回復を意味したの です。いや、正確に言うならば、彼女は癒しを受ける前に、既に回復されて いるのです。なぜなら、彼女は「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰が あなたを救った」という主の言葉を既に聞いているからです。
この出来事は、主が私たちに与えてくださる救いを指し示すしるしです。 この人は自分の病をどうすることもできませんでした。しかし、人間には、 肉体的な病よりももっと深い所において、どうすることもできないことがあ るのです。それは神との関係を癒せないということです。それは本来、単に 宗教的な汚れによるのではありません。私たち自身の罪によるのです。そし て、自分が罪人であるという事実の前に、私たちの為しえることは尽きてし まいます。終わりです。その事実と正直に向き合うならば、そこには絶望し かありません。しかし、その人間の力が尽きてしまう終わりの地点に、主イ エスは立っておられるのです。そこで主イエスが私たちの罪を赦し、私たち を神との交わりに回復してくださるのです。この女性は望み得ないところに おいて、なお望みつつ信じました。私たちの信仰もまた、この人のように、 おずおずと後ろから主の御衣に触れるようなものでしかないかもしれません。 しかし、主はそのような私たちに言われるのです。「あなたの信仰があなた を救った」と。
●復活の希望
そして、この死んだ娘とその父親に起こった出来事も、同じように私たち に救いと希望を指し示しているのです。
この父親は娘の死という現実を前にして、すべての手だての尽き果てたと ころに立っています。人間は自らの力をもって死を克服することはできませ ん。死の現実を前にして、人はもはや為し得ることは何もありません。終わ りです。絶望です。しかし、人間の力が尽きてしまう終わりの地点に、主イ エスが立っておられるのです。その主イエスを、この人は呼び求めます。主 イエスは彼と共に死んだ娘のもとに赴かれます。主は家に入り、少女の手を お取りになりました。すると、彼女は起き上がったのです。
そこでいったい何が起こったのかは良く分かりません。しかし、それがい かなることであれ、その出来事そのものは、本当の意味で死の克服ではあり ません。なぜなら、この少女は、その時には死ななかったにせよ、後の日に 必ず死んだであろうし、その父親も死んだに違いないからです。ですから、 重要なのは、この出来事が何を指し示しているか、ということなのです。
少女は死んでしまいました。死は厳しい現実です。私たちはその厳しさか ら目をそらし、死への直接的な言及を避けて、「安らかに眠りました」など と表現いたします。しかし、聖書は世の人が語るような無責任な気休めは言 いません。「罪が支払う報酬は死である」(ローマ6・23)と語ります。 死そのものは罪に対する裁きに他ならないということです。死の本当の恐ろ しさは、私たちが罪を持った者として、神に裁かれるべき者として、死を迎 えなくてはならないというところにあるのです。しかし、ここに一人だけ、 「少女は眠っているのだ」と言われる御方がおられます。主は《死》を《眠 り》と呼ばれるのです。気休めではありません。なぜなら、主イエスは死の 本当の恐ろしさを知っておられる方だからです。その御方が、死を「眠り」 と呼ばれるのです。主イエスこそ、現実に《死》を《眠り》に変えることの できる御方なのです。なぜなら、主イエスこそ、罪を赦し、死のとげを取り 除くことのできる御方だからです。
「少女は眠っているのだ」と言われた主イエスは、少女の手をお取りにな りました。「すると、少女は起き上がった」と書かれています。この「起き 上がった」(直訳では「起き上がらされた」)という言葉は、後に決定的な 場面に出てまいります。主イエスが十字架にかけられて三日目、墓に行った 婦人たちは次の言葉を聞くのです。「恐れることはない。十字架につけられ たイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて 言われていたとおり、復活なさったのだ」(28・5‐6)。そうです、こ こで用いられている「起き上がった」は、復活を表す言葉でもあるのです。 少女に起こったことは、私たちに与えられる復活を指し示すしるしに他なら ないのです。
この物語の二人の女性のように、私たちも主イエスに触れ、主は私たちに 触れてくださいます。いや、触れてくださるだけではありません。御自身を 私たちに差し出して、「これは私の肉である。これは私の血である。取って 食べなさい」とさえ言われるのです。それが教会において起こっている出来 事です。この主イエスこそが、私たちを神との交わりの中に回復し、神の命 に生かしてくださるのです。そして、この主イエスこそが、やがて私たちの 死を眠りに変え、私たちを永遠の命に起き上がらせ、復活させてくださるの です。