「主に遣わされて」

                マタイによる福音書10章1節~15節 
 今日の聖書箇所は主イエスが十二人の弟子を呼び寄せたところから始まり
ます。弟子と呼ばれる者たちは、この時点で既に数多くいたに違いありませ
ん。しかし、ここで特に十二人が他の者と区別されて呼び寄せられたのです。
この十二人については名前が記されています。細かい点は互いに異なります
が、十二人のリストはマルコとルカの両福音書にも記されています。この十
二人が、後の教会にとっても特別な意味を持っていたことが分かります。実
際、この福音書について言えば、彼らが復活したキリストによって世界に派
遣されるところで終わります。(もっとも、その時点ではイスカリオテのユ
ダが欠けているので十一人になっているのですが。)やがて彼らは「あなた
がたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(28・19)とい
う主の言葉に従って世界に出て行くのです。このように、マタイによる福音
書は、復活のキリストによる十二使徒(実際には十一人)の派遣を、教会の
歴史の出発点と見ているのです。

 今日の聖書箇所では、そのような十二人の弟子たちが、生前のキリストに
よって周辺の町々村々に遣わされた次第を伝えています。これは、後に復活
のキリストによって派遣される前の、いわば予行演習であると言ってもよい
でしょう。当然のことながら、この出来事とこの時の主イエスの言葉は、そ
こにいた弟子たちだけでなく、後の弟子たちの働き、そして後の教会にも関
わるものとして、理解され伝えられたに違いありません。もちろん、その意
味で、私たち自身にも関わっています。今日、私たちはこの聖書箇所を通し
て、私たちが教会であること、キリスト者であることに関して、特に三つの
ことを心に留めたいと思います。


●キリストによって遣わされて

 第一に、私たちは教会がこの世に遣わされた存在であることを心に留めね
ばなりません。「イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じ
られた」(5節a)。彼らは「十二使徒」(2節)と呼ばれています。「使
徒」とは「遣わされた者」という意味です。「遣された者」であるというこ
とは、自らのために存在しているのではない、ということを意味します。で
すから、使徒の派遣から始まる教会は、それ自体のために存在しているので
はありません。派遣し給う主と、その対象であるこの世界のために存在する
のです。私たちは教会の形成に心を注ぎ、教会が成熟し成長することを願い
ます。しかし、それは教会自身のためではありません。教会が神とこの世界
に仕えるためです。私たちが信仰を与えられ、キリスト者とされているのは、
ただ単に私たちの救いのためではありません。この世に遣わされるためなの
です。

 「世に仕える教会」ということが語られる時、《派遣されたものとして》
仕えるのだということを十分に理解することは重要です。派遣された者にと
って重要なことは、派遣し給う御方の御心を行うことです。その意味におい
て、教会の働きの動機は、人道的な使命感とは一線を画します。

 5節後半以下を御覧ください。キリストは弟子たちに次のようなことを命
じられました。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に
入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きな
さい」(5b‐6節)。この言葉は私たちの耳に奇異に響きます。主イエス
がこのような差別的な発言をなさるでしょうか。しかし、私たちは、異邦人
やサマリア人を差別するかのように聞こえるこの言葉を、後の教会が大切に
伝えてきたことを良く考えねばなりません。その教会とは異邦人にも伝道し
ている教会です。キリストが教会を異邦人に向かっても派遣しておられるこ
と知っている人々です。そのような彼らが、《あの時には》異邦人ではなく
イスラエルの失われた民のところへ行けとキリストが言われたという事実を、
そして弟子たちがその命令に従ったという事実を、重要なこととして受け止
めたのです。

 この世の中には為した方が良いと思えることがたくさんあります。また為
すべきであると思えることもたくさんあります。しかし、一般的な意味で
《為した方が良いこと》《為すべきであると思えること》が、必ずしも遣わ
されている者にとって《その時に為すべきこと》であるとは限りません。繰
り返しますが、遣わされている者にとって重要なことは、遣わし給う御方の
御心に従うことであって、自分の使命感に従うことではないからです。その
意味において、教会がこの世に目を向ける《前に》、キリストに目を向けて
いることは正しいことです。この世の声に耳を傾ける《前に》、キリストの
言葉に耳を傾けることは正しいことです。その順序を間違えてはなりません。


●天の国を宣べ伝えるために

 そして、第二に、私たちは何のために遣わされているのかを良く考えねば
なりません。この世に遣わされた教会は、この世において何を行うのでしょ
うか。キリストは言われました。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝
えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を
清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい
」(7‐8節)。

 教会が遣わされている世界は、病気のある世界です。死のある世界です。
具体的な様々な苦悩に満ちている世界です。教会はその病気や死に代表され
る様々な具体的な苦悩に関わります。その癒しのために仕えます。「病人を
いやし、死者を生き返らせる」ということは文字通り起こるのでしょうか。
文字通りの仕方で起こるかもしれませんし、文字通りの仕方では起こらない
かもしれません。しかし、いかなる形にせよ、私たちが主に遣わされて仕え
る時、そこでは癒しが起こります。

 しかし、重要なことは、そこで起こることは天の国を指し示すしるしであ
る、ということです。それは神の恵み深い支配を指し示すしるしとなるので
す。ですから、ただ癒しのために仕えるのではなく、その前に告げ知らせる
べき言葉があると語られています。「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさ
い」と。

 「天の国は近づいた」――これはキリスト自身が宣べ伝えていた言葉であ
りました。すでに4章17節に出てきました。そこではこう書かれておりま
す。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(4・17)。そのように、「天の
国は近づいた」と宣べ伝えるということは、「悔い改めよ」と呼びかけるこ
とでもあります。「悔い改めよ」とは、「神に立ち帰れ」ということです。
神が近づいてきてくださいました。天の国は近づきました。しかし、そこに
入るには、人間が方向を変えて神に立ち帰らなくてはなりません。弟子たち
は、そのことを告げるために送り出されました。そのように教会もこの世に
遣わされております。

 ですから、そこにはまた、「悪霊を追い払いなさい」とも命じられており
ます。悪霊は人を神から引き離します。悪霊は人間を罪の縄目に捕らえて離
そうとしません。私たちは悪霊ということで、単にオカルト的な憑依現象の
ようなものだけを考えていてはなりません。特異な現象などは片鱗に過ぎま
せん。まさに神を離れたこの世界のありとあらゆる悲惨さが、悪しき霊の力
の支配を現しているのです。主は、その悪霊を追い払え、と命じられました。
それは悪霊の支配から、神の恵みの支配のもとに人を回復することに他なり
ません。ですから、悪霊を追い払うことと、天の国を宣べ伝え、悔い改めを
宣べ伝えることは、別々のことではなく一つのことなのです。


●キリストの権威によって

 第三に、私たちは何によってこの務めを果たすのか、ということを良く考
えねばなりません。キリストは弟子たちを遣わすにあたり、次のように言わ
れました。「帯の中には金貨も銀貨も銅貨も入れて行ってはならない。旅に
は袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。働く者が食べ物
を受けるのは当然である」(9‐10節)。このように、主はほとんど物乞
い同然の姿で弟子たちを送り出されたのです。大きな務めを与えられて遣わ
されるにもかかわらず、その働きのために必要と思われるものを、彼らは何
一つ持っていくことは許されませんでした。

 いや、彼らには何も無かったのではありません。もう一度1節を御覧くだ
さい。「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授け
になった」(1節)と書いてあります。この権威・権能は、もともとキリス
ト御自身の権威・権能です。彼らは、そのキリストの権威を受け取って、そ
の権威を携えて出て行くことが許されていたのです。これは彼らに恵みの賜
物として与えられたものです。ですから、「ただで受けたのだから、ただで
与えなさい」(8節)と命じられているのです。彼らの働きは、このただで
与えられもの、恵みの賜物として与えられたものによって成し遂げられるの
であって、彼らが携えていける他のものによるのではないのです。

 さて、私たちには、この話はあまりにも極端に思えます。何も無かったら、
宣教の働きはおろか、旅を続けることさえ不可能ではないか――。どうして
も、そう思ってしまいます。一方、今日の教会は状況がずいぶん違います。
私たちは多くのものを持っています。経済的にも自立しています。教会には
また、多種多彩な才能を持った人もいます。受けてきた教育もあります。積
んできた経験もあります。ですので、往々にして、私たちはそのように多く
を持っているから、それによって教会の宣教の働きが続けられると考えてし
まいます。あるいは、教会がこの世に与えることのできる多くのものがある
と知らず知らずのうちに考えているものです。あるいは逆のことを考えてい
るかもしれません。自分は豊かでもないし、能力も乏しく、教育もなく、知
識も経験もないから、与えることのできる何をも持っていない。教会として、
あるいは個人として、そのように考えているかもしれません。どうでしょう
か。

 実際、古代の教会にしても、皆が皆、物乞いのような貧しい教会ばかりで
はなかっただろうと思います。常に履物も杖も下着もないような状態ではな
かったでしょう。教会が置かれている状況は時と共に変わります。豊かにも
なれば貧しくもなります。しかし、だからこそ、主イエスがあの時弟子たち
に語られたこの言葉を、教会は大切に伝えてきたのだと思うのです。宣教の
働きというものは、恵みによって賜物として、ただで与えられたものによる
のだ、ということを忘れないためです。すなわち、私たちと共にいたもうキ
リストの権威と私たちに与えられている福音そのものの力です。何も携えず
に出ていったあの弟子たちは、それでも確かに天の御国を宣べ伝え、悪霊を
追い払うことができたのです。そのことを私たちは忘れてはならないのです。